憲法・民主主義関連

2021年2月 6日 (土)

井上ひさし全芝居 その七

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「東京裁判三部作」の「夢の裂け目」「夢の泪」「夢の痂」が収録されているほか、「円生と志ん生」「箱根強羅ホテル」、最後の作品となった「組曲虐殺」と、21世紀になってからの作品が収録されている。
遅筆堂の、さまざまの社会的な役割を担い発言してきたこととの重なり、あるいは作品への投射を考える。

このなかでじっさいに舞台を観たのは、「組曲虐殺」だけだ。
「組曲虐殺」は、2012年と2019年の2度、観た。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-e16a.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-8aeacc.html
2020年にせたぶんで開催された「井上ひさし展-希望へ橋渡しする人」でも、「組曲虐殺」の大きなスペースがあった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/11/post-c9dbd2.html

「夢の裂け目」「夢の泪」の再演で、土居裕子さんが出ていたのか。
土居さんの遅筆堂は、「マンザナ、わが町」を二度観た。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e1f.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0622.html

「夢の泪」での「日本人のことは、日本人が考えて、始末をつける」(P.145)ことにならなかった「戦争責任」や。「なぜ」と問うこともなかった思考や行動は、いまだにこの国を覆っていることが、コロナ禍や五輪をめぐる動きからも見えてくる。
そして、「ムサシ」の「恨みの鎖を断つ」(P.608)は、日本国憲法の役割を思う。

東京裁判三部作、箱根強羅ホテルは、舞台を観たい。

夢の裂け目
夢の泪
夢の痂
水の手紙――群読のために――
円生と志ん生
箱根強羅ホテル
私はだれでしょう
ロマンス
少年口伝隊一九四五
ムサシ
組曲虐殺
初演記録
解説 扇田昭彦
劇中歌リスト

井上ひさし/著
新潮社
https://www.shinchosha.co.jp/book/302332/

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2021年1月 5日 (火)

戦後オーストリアにおける犠牲者ナショナリズム

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「オーストリアはナチスドイツによって最初に侵略された犠牲国である」史観は従前から知っていたが、その史観のなりたちと「オーストリア」国へのアイデンテティとを掘り下げた労作といえるだろう。
多民族国家オーストリア帝国は「大ドイツ主義」は望まなかったが、帝国が崩壊し、ハンガリーやチェコスロバキアが独立して、残ったところが「オーストリア」となり、「ドナウ連邦」や「ドイツとの統合」も視野に入ったが、連合国はそれを許さなかった。
さらに時代はドイツによる「アンシュルス」をもって独澳が一体化するのだが、第二次世界大戦後は米英仏ソの4ヵ国の分割管理下に置かれ、オーストリア国家条約で「独立」を回復することになる。
そうしたなかでの「独立国オーストリア」の拠って立つところは何か、
本書は、こうした戦後オーストリアの歴史における『「オーストリア国民」国家の形成のありようを明らかにする』ことを目的として編まれている。
著者は、日本の研究者である。

さて、「National」を日本語でどう表現するか、「国民」か「国家」か。
本書では「Nationalsozialismus」を「国民社会主義」としており、「国家社会主義」とはしていない。
さいきんは、こうなのかしら。

P.25の「注」で、「共和国建国一〇〇周年を記念して計画された「オーストリアの歴史の家」博物館」が「二〇一八年一一月一〇日、英雄広場の新王宮に開設された」とある。
今度ウィーンに行けたら、行ってみたい。
https://www.hdgoe.at/

第二次世界大戦後、オーストリアでは「ファシズムの犠牲者」「戦争犠牲者」への「扶助」「援護」が行われていったことが記述されている(用語の定義は、ここには書かない)が、たとえば「四五歳以上で子どもがいない寡婦Aは、仕事を持っていれば月々五〇シリングを受け取ることができ、「扶養年金」について「寡婦Aの例でみると、支給額は二三〇シリング」(いずれもP.82)、「戦争犠牲者援護政策に基づく年金の支給額は(中略)少なくとも月々数十シリング、多ければ一〇〇〇シリングを超える程度」(P.101)など、通貨単位シリングで表記されている。
これがいったいどの程度の貨幣価値を持っているのか、ヒントは「一九四六年当時、パンが一キロ四六グロッシェン、牛乳一リットルは五〇グロッシェン」(P.101)にある。
1シリング(Schilling)は100グロッシェン(Groschen)なので、パン1キロ0.46グシリング、牛乳1リットル0.5シリングということになる。
ユーロ導入にともない、2002年1月1日にシリングは廃止され、1ユーロは13.7603シリングで交換されたのだが、これは戦後のシリング の貨幣価値とは乖離しているだろう。
日本の例で試算してみると、パンは1斤2~300円、牛乳1リットルのパックで200円前後であることから、1シリングは400円から500円ということになるだろうか。
仮に1シリング500円とすると、寡婦Aは月々2万5千円の扶助、年金は11万5千円、戦争犠牲者援護政策に基づく年金は2万数千円から50万円程度ということになる。

P.151の『「アーリア化」によって没取された彼らの財産は、戦後はオーストリア国家の財産として押収され、元の持ち主に返還されることはなかった。ようやく二〇世紀も終わる頃になって、シーレやクリムトの絵画が一部、ナチの略奪美術品として認定され、返還訴訟に発展するなど新たな展開をみせた』は、映画「黄金のアデーレ」を思い出させる。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d7ca.html

P.279以降の「第10章 戦没者記念碑――戦争をめぐる記憶の相克」は、日本の各地にある「忠魂碑」や「靖國」を考えてしまう。
日本のような神格化ではないだろうが、「英雄」と括ることは、顕彰の形として通底するものがあるような気もする。

2019年にウィーンに行ったときに、「負の遺産」にまつわるところを歩いてみた。
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「Denkmal der Opfer der Gestapo」(ゲシュタポ犠牲者のための記念碑)(Schwedenplatz):1985年11月1日
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「Holocaust-Mahnmal」(ホローコースト記念碑)(Judenplatz):2000年10月25日
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「Denkmal für die Verfolgten der NS-Militärjustiz」(ナチ時代の澳人の脱走兵や兵役拒否者祈念の碑)(首相府と大統領府の前):2014年
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「Mahnmal gegen Krieg und Faschismus」(戦争とファシズムに反対する記念碑)(Helmut-Zilk-Plat):1988年
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http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-d261b3.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-7fdafb.html

P.288以降の、Burgtor(ブルク門)にある「「英雄記念碑」「オーストリア解放闘争で犠牲となった者を追悼する」記念碑は、Burgtorは何度も通るのだが、気づかなかった。
今度行ったら、よく見ておこう。

オーストリアに行きはじめたのは21世紀になってからで、すでに10回以上になるのfだが、何度もオーストリアに行って感じる「寛容」さ、とくに2015年に行ったときの、中央駅や西駅に集まった難民たちの間を歩き、カリタスが支援する姿を見たときの印象は、P.303からの、『二〇世紀後半の「オーストリア国民」を成り立たせていた排他的な価値は一九八〇年以降、第二の問題系を通じて批判的省察を迫られ、その結果他者に対する寛容の精神を醸成する、一見すると民主主義的な政治文化の進化につながったようにみえた。そしてその分だけ「オーストリア国民」としての成熟度もましたように感じられた』のだとしたら、やはり上っ面しか見ていなかった、ということでもある。
2019年に見た「負の遺産」の設置時期を見れば、その証左ともいえるかもしれない。
また、この時代において、ほんとうに「負の遺産」として存在しているのか、機能しているのか、という問いかけでもあるだろう。
そして、「第三帝国」のその後の歴史への向き合い方というところでは、ドイツの(西と東の時代も含めて)向き合い方と、さらに日本の私たちの向き合い方も含めて考えていかなければならないのだろう。

はじめに
序章 オーストリア国民をめぐる二つの問題系――「八」のつく年をめぐって
 1 ドイツ国民か、オーストリア国民か
 2 オーストリア・ファシズムからナチズムへ
 3 過去との付き合い方を問う視角
 4 犠牲者国民のスペクトラムと本書の構成
第I部 犠牲者国民という射程
第1章 第二共和国の誕生と「犠牲者テーゼ」――「オーストリア国民」意識の勝利
 1 「オーストリアの主権に関する宣言」と「モスクワ宣言」
 2 レンナー政府による国家再建の試み
 3 国家統一への道
 4 1955年以後の展開
第2章 「ファシズムの犠牲者」を創出する――抵抗運動の犠牲者
 1 顕彰制度にみる「犠牲者性」
 2 犠牲者を「扶助」すること
 3 権利の獲得に向かって
 4 政治的被迫害者同盟の全国組織化
第3章 「ファシズムの犠牲者」を周縁化する――人種・信仰・国民的帰属による迫害の犠牲者
 1 人種・信仰・国民的帰属が理由で迫害された人びとへの補償
 2 新犠牲者扶助法の制定にみる格差の論理
 3 犠牲者イメージのヴァリアント
 4 犠牲者の統合を求めて
 5 「加害者性」と「犠牲者性」の共存
第4章 「戦争犠牲者」をめぐる国民福祉の論理――「神話」と「実体」の間
 1 「戦争犠牲者」とは誰か
 2 戦争犠牲者援護法にみる国民福祉の領域
 3 犠牲者国民を創り出す
 4 競合する「犠牲者」たち
第II部 犠牲者ナショナリズムの陥穽
第5章 元ナチの再統合と「犠牲者国民」の形成――抑圧される記憶
 1 ナチズムの遺産
 2 フィーグル政権による「脱ナチ化」政策
 3 免罪される青年世代
 4 交錯する恩赦=忘却のディスコース
第6章 占領軍当局による戦犯追及――英、米、仏の実践
 1 四連合国占領下オーストリアにおける戦争犯罪者訴追
 2 米軍当局の訴追方針
 3 仏軍当局による戦犯訴追の実態
 4 英軍当局の戦犯訴追システム
第7章 オーストリア人民裁判による戦犯追及と国民の境界――内発的冷戦の構図から
 1 戦争犯罪の射程
 2 オーストリア人民裁判の制度と実践
 3 ナチ・戦争犯罪と国民的正義
 4 国家反逆罪をめぐる人民裁判
 5 新たな「国家反逆者」像の構築と冷戦
第III部 犠牲者国民の記憶空間
第8章 反ファシズム闘争をめぐる想起の文化――マウトハウゼンを例に
 1 抵抗運動の記憶?
 2 記念施設化されるマウトハウゼン
 3 記念される過去
 4 反ファシズムの記憶の周縁化
第9章 戦没者の記憶を継承する――オーストリア黒十字協会の活動を例に
 1 戦没者をめぐる記憶のポリティクス
 2 想起の文化の担い手「黒十字」
 3 戦間期黒十字の思想と活動
 4 1945年以後の黒十字と戦没者
 5 「戦争犠牲者」イメージの再構築
 6 「戦争犠牲者」観の変容
第10章 戦没者記念碑――戦争をめぐる記憶の相克
 1 戦間期における戦没者記念碑の建設
 2 国家による英雄顕彰
 3 「われわれの犠牲者」を想起する
 4 愛国的な兵士像
終章 終わりなき犠牲者ナショナリズム―― 第三の問題系に向けて
補論 ブルゲンラント・ロマ迫害の二重構造――近代=国民の境界をまたぐ人びと
 1 ブルゲンラント・ロマ――国民的ディスコースの再検討
 2  オーストリアにおけるロマの人びと
 3 ブルゲンラント・ロマの歴史
 4 「オーストリア国民」国家の中のロマ
 5 再生産される「異者」
おわりに
初出一覧
参考文献一覧
人名・事項索引

水野博子/著
ミネルヴァ書房
https://www.minervashobo.co.jp/book/b505233.html

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2020年12月26日 (土)

瀬長亀次郎と岩波書店

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2015年1月に不屈館で開催された、特別企画展「岩波書店と沖縄展―瀬長亀次郎の言論活動を中心に」の図録としてのブックレット。
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-236966.html
この展覧会は、先日読んだ岩波新書「沖縄からの報告」がきっかけとのことである。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/12/post-8ade6c.html

「瀬長亀次郎の軌跡を伝え、沖縄の戦後史 資料館「不屈館」を守る」のリターンである。
https://a-port.asahi.com/projects/keep-fukutsukan/

ごあいさつ
企画展の主題とブックレットの構成
第I部 瀬長亀次郎の言論活動
 1 獄中生活を支えた岩波文庫—沖縄人民党事件
 2 雑誌「世界」と瀬長亀次郎
 3 岩波新書『沖縄からの報告』
第II部 岩波書店の歴史
第III部 解説と資料
 1 展示解説「岩波書店と沖縄について—瀬長亀次郎の言論活動を中心に」
 2 未発表論文「ケネディー新政策発表のその後の発展(「世界」1962年7月号のために執筆)
 3 年譜

不屈館
http://senaga-kamejiro.com/index.html

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2020年12月25日 (金)

赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD 8

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いよいよ大詰めになってきた。
それにしても、「ローマの休日」「スパルタカス」「栄光への脱出」のみならず、「真昼の決闘」「アラビアのロレンス」「いそしぎ」「猿の惑星」「シンシナティ・キッド」「M・A・S・H」、「野生のエルザ」「地の塩」「真夜中のカーボーイ」「セルピコ」「帰郷」などが、赤狩りと関係あったということは、70年代まで尾をひいていたということだ。

第4章 赦し(インドゥルト) vol.15~vol.18
最終章 狼と猿と人間 vol.1~vol.4

赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD
1:第1章 『ローマの休日』と赤狩りの始まり vol.1~vol.8
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/the-red-rat-in-.html
2:第1章 『ローマの休日』と赤狩りの始まり vol.9~vol.17
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/the-red-rat-in-.html
3:第1章 『ローマの休日』と赤狩りの始まり vol.18~vol.21
  第2章 ハリウッド・テン vol.1~vol.6
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/the-red-rat-in-.html
4:第2章 ハリウッド・テン vol.7~vol.10
  第3章 エデンの東へ vol.1~vol.5
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-1ac041.html
5:第3章 エデンの東へ vol.6~vol.14
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-0525aa.html
6:第3章 エデンの東へ vol.15~vol.18
  第4章 赦し(インドゥルト) vol.1~vol.5
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/11/post-e404d4.html
7:第4章 赦し(インドゥルト) vol.6~vol.14
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-4db714.html

山本 おさむ/著
小学館
https://www.shogakukan.co.jp/books/09860723

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2020年12月15日 (火)

沖縄からの報告

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コザ暴動(1970年12月20日)から50年のこの時期に読む。
コザ暴動は、新聞で読み、テレビのニュースでも流れていた。
先日、「コザ暴動再現企画」が行われたが、なぜコザ暴動が起きたのか、あれだけの事件になったのか。
https://ryukyushimpo.jp/photo/entry-1240398.html
現在の沖縄も相当虐げられていると思うが、現在の沖縄の姿を見るだけでは、おそらく想像することは難しい。
その理解を助けるのが本書だ。

第1刷は1959年7月で、本書は2018年9月の第16刷で、脈々と読み継がれていることに驚いた。
内容は、数々の統計を用いた緻密な分析で、まるで学術論文を読んでいるようで、今のラノベ的な新書とは違って、昔の新書ってこうだったなあと感慨を持つ。
詳細だがわかりやすいのは、説明が具体的だからだ。
たとえば失業者についてさまざまな数字をあげたあと、『現に仕事にありついている労働者十万余のうしろには「お前たち、そろそろ仕事をやめてオレたちとかわってくれないか」とうらめしげに待ちかまえているのが、それぞれ一人以上ついていることになる』(P,169)と説明するのである。

「B円」がよく出てくる。
これは、占領下の沖縄や奄美で流通していた米軍軍票で、1958年9月に廃止された。

1907年6月10日 豊見城村で出生
1932年 丹那トンネル労働争議で治安維持法違反で検挙
1946年 うるま新報(現:琉球新報)社長に就任
1947年7月20日 沖縄人民党結成
1950年 沖縄群島知事選挙に出馬、落選
1952年 第1回立法院議員総選挙で最高得票数で当選
1954年10月 沖縄人民党事件、米国民政府により沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑で逮捕
1956年4月 出獄
1956年12月 那覇市長選に出馬、当選
1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将の米民政府高等弁務官布令143号(瀬長布令)により、1954年の投獄を理由に被選挙権を剥奪、市長解任
1967年12月 瀬長布令廃止され被選挙権回復
1968年 第8回立法院議員選挙で立法院議席を回復
1970年 沖縄初の国政参加選挙、沖縄人民党公認で当選
1972年 第33回衆議院議員総選挙、人民党公認で2期目の当選
1973年10月31日 人民党は日本共産党と合流
1976年 第34回衆議院議員総選挙、日本共産党公認で当選
1979年 第35回衆議院議員総選挙、日本共産党公認で当選
1980年 第36回衆議院議員総選挙、日本共産党公認で当選
1983年 第37回衆議院議員総選挙、日本共産党公認で当選
1986年 第38回衆議院議員総選挙、日本共産党公認で当選、通算7期連続当選
1990年 引退
2001年10月5日 死去、享年94歳

本書は、「瀬長亀次郎の軌跡を伝え、沖縄の戦後史 資料館「不屈館」を守る」のリターンでやってきた。
https://a-port.asahi.com/projects/keep-fukutsukan/

まえがき
I ひしめき合う人口
II 経済の成長
III 農民のくらし
IV 労働者と中小企業
V 基地の群像
VI 人民のたたかい
VII 琉球政府のからくり
VIII 祖国へ
重要事件略年表

瀬長亀次郎/著
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b325241.html

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2020年11月27日 (金)

マサリクとの対話 哲人大統領の生涯と思想

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2019年にプラハを歩いたこともあって読もうと思っていたのだが、二段組300ページということで、ちょっと手にするのを控えていた。
いつまでも積ん読していてもしょうがないので、読むことにする。
長年にわたる「対話」の集大成であるが、第一部・第二部では、チャペックがマサリクにどう語っていたかは明らかではない。

P.86の「我々は父たちの理想に戻るべきだという主張を読むと、私は過去の時代がどうであったかを思い出し、今日の我々がどれだけその理想につかづいたかを考えます」「私は未来を信じ、発展と進歩を信じる」、こんなことも言えなくなってきているのがこの国、そしてP.99の「憲法と議会の実践との間には、恐らく福音書と教会の間ほどの相違がある」、これもこの日本のことを言っているようだ。
「民族新聞」が出てくるが、P.116にルビがあり「ナーロドニー・リスティ」となっているので、これはチャペックの「リドヴェー・ノヴィニ(民衆新聞)」とは違う新聞である。
P.140に「皇后エリーザベトとバイエルン王ルートヴィヒとの間の私生の娘だと詐称した、あのザナーディ=ランディ伯爵夫人事件」とあるが、この「ザナーディ=ランディ伯爵夫人事件」は初めて目にした。
どんな背景を持つ事件だったのだろうか。
P.140のマサリクが避難した「メトロポル・ホテル」、「モスクワの伯爵」のホテルだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-453166.html
P.178、「戦争に奉仕する科学」について、チャペックはマサリクに問うている。
マサリクは「戦争を行うのは科学ではなくて、人間、人間の不完全さ、科学をまだ十分に尊重していない人々」とし、「もしも世界がもっと認識と真実によって導かれるようになるなら、戦争はもっと少なくなるでしょうし、全くなくてもすむようになるでしょう」と展望する。
「防衛のために科学を用いるのは政党なこと」としつつ、「暴力のため、攻撃的な戦いのために科学を育成することは、犯罪」とする。
日本学術会議が成立にあたってこれまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに、科学文
化国家、世界平和の礎たらしめようとする固い決意」をもって生まれたにもかかわらず、先日、井上科技相が軍事利用を学術会議に促したことを思い出す。
日本学術会議の「軍事的安全保障研究に関する検討について」。
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/gunjianzen/index.html
P.200の「私は自分一人ではなく、私であり君でありであり我々であり、無数の主観と無数の客観」は、乾孝氏の「私の中の私たち」と通底し、P.208の決定論について「自然と人間と社会とそれらの発展における、確固たる秩序」は、エンゲルスの「自由とは必然性の洞察である」と通底するのだろう。
P.256~P.257、「政治的教養なしに、理論的準備なしには、きちんとした、いわば偉大な政治は不可能」、P.257「現代の政治家は、批判的でなければならず、教養と賢さを備えていなければなりません」、「政治においても、人間全体の価値が問題なのです」、この国の政治家たちから最もかけはなれているものが、これだろう。
P.270、マサリク大統領は、マルクス主義とは一線を画しながらも「マルクスとエンゲルスは、最後には(イギリスの影響のもとに)一八四八年の革命の急進主義に対して、民主主義的・議会主義的な戦術の方をより正しいものと認めました」と、評価している。

100年前にマサリクが「私は嘘をつきたくなかった」のは、ロシア革命の銃弾がとびかうさなか、命が助かるかどうかの瀬戸際だった。
嘘をつけばすんなり助かったのに。
チャペックの「対話」は、ここから始まった。
この国で、マサリクのような立場の人が国政のトップを務めるという事例はないだろうが、あえていえばマサリクは、美濃部亮吉氏や長洲一二氏のような人だったのかしら。
ムハが叙事詩を描いていたのは、1910年から1928年、マサリクの時代とも「対話」の時代とも重なるのだが、本書ではムハへの言及はない。

少数民族というところでは、先日、「シルクロード」の再放送をしていたが、画面に映っていたあの当時の人たち、とくに子どもたちは今どうしているだろうと思いながら、本書を読まざるを得なかった。

第一部 若き日
 一、少年時代
 二、学校
 三、青年時代
第二部 生活と仕事
 一、新たな課題
 二、仕事と闘い
 三、大戦
 四、共和国
第三部 思想と生活
 一、認識論
 二、形而上学
 三、宗教
 四、キリスト教
 五、いわゆる文化闘争
 六、再び宗教について
 七、政治
 八.民族
マサリクとの沈黙―『対話』はどのようにしてできたか?
訳注
訳者あとがき
索引

K・チャペック/著
石川達夫/訳
成文社
http://www.seibunsha.net/books/ISBN4-915730-03-4.htm

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2020年11月 7日 (土)

物語 東ドイツの歴史 分断国家の挑戦と挫折

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2018年のドイツ行きでは、東であったエリアに行ってきた。
東ドイツ時代はどんな街だったのだろうか、村だったのだろうかと思いながら景色を眺めていたものだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/deutsch-2018.html
そして、先日、「ドイツ統一」を読んだばかりである。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-44f087.html
「ドイツ統一」の著者の見方は、「西」のCDUの立ち位置からの東西両ドイツと「統一」後のドイツの通史ということができるだろう。
けれど、本書の東ドイツへの見方のほうが「ドイツ統一」よりもかなり辛辣であるとの印象が残った。
これは、ドイツ人が見た東ドイツと、ドイツとは一定の関係を持ってはいるが、日本人が見た東ドイツの違いなのだろうか。
とはいえ、著者の立ち位置は、いまひとつはっきりとしない。

P.72に「質の管理がなされていない商品が大量に出回るという計画経済の欠点」、P.73に「社会主義体制下では、消費財が必要なところに供給されずに不足しつつも、物資は退蔵されるという「不足の経済」が生じる」という記述がある。
「質の管理がなされていない商品が大量に出回る」ことや「不足しつつも、物資は退蔵される」ことが「計画経済」や「社会主義体制」の必然的結果のような記述だが、結果としてそうした現象はあったとしても、必然的結果と断定するのはどうなのだろうかと思う。
また、P.102にベルリンの壁が建設された頃の写真が二葉掲げられていて、上の写真は「自由への跳躍」(Sprung in die Freiheit)として有名な写真なのだが、これは「壁」建設が始まった2日後、まだ「壁」になる前の鉄条網で遮断されたときのできごとで、本文との関係からいえば、唐突すぎやしないかと思う。
こうしたことも、本書の著者の立ち位置が判然としないことを示しているのかもしれないし、「物語」であるのかもしれない。

私じしんは、いまだに東ドイツ、DDRを追っているのだが、東ドイツといえば、大学の授業で、「東ドイツの労働者は分業の一部を担っているが、分業での単なる歯車的な存在ではなく、自分が担当する作業について、作業の全体を把握していてその中の任務を理解していて、資本主義体制下の労働者のような歯車としての存在でしかないような労働者ではない」、ということを聞いていたことが始まりと言える。
当時は、日本でも東ドイツは東の優等生として語られていており、そうした見方は自分でも見聞きしていた。
これは、本書P.180の「一九七〇年代、東ドイツは外から見れば安定しており、世界で一〇指に入る先進工業国であるという評価」と重なる。
しかし、著者は、存在していた東ドイツを同時代的に実体験することは、年齢的に不可能だ。
また、1989年は、それまで自分のなかに積み重なっていたドイツだとか、社会主義、資本主義、民主主義だとかといったもろもろとの関係で見なおさなければならなかったし、そのプロセスである種の喪失感がともなったのだが、「一九八九年の変動を思春期に経験した」(P.271)著者は、どのような思いで1989年を見ていたのだろうか。
それはある意味、何にもとらわれないで東ドイツを記述できるということでもある。
であるとしても、実際に行ったわけではなく伝聞でしかないが、現在進行形で東ドイツを見聞きしていた体験がある者からすれば、残念ながら、本書の内容は自分の中に落ちてこないで読み終えてしまったのである。
同じ著者の「歴史としての社会主義 東ドイツの経験」も読んでいるが、本書ほどには落ちてこないということではなかったのは、「歴史としての社会主義 東ドイツの経験」が単著ではないからかしら。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-c5545b.html

「コラム(3) 映画のなかの東ドイツ」に出てくる映画は、「グッバイ・レーニン」「善き人のためのソナタ」「東ベルリンから来た女」「僕たちは希望という名の列車に乗った」「Sonnnenalle」の5本。
最後の「Sonnnenalle」以外は、映画も見たし、DVDも持っている。
「僕たちは希望という名の列車に乗った」は、原著がある。
「グッバイ・レーニン」「僕たちは希望という名の列車に乗った」は、いずれも独語のシナリオ本がある。
「グッバイ・レーニン」「善き人のためのソナタ」はノベライズ本があり、「グッバイ・レーニン」は和訳本、「善き人のためのソナタ」は独語。
「グッバイ・レーニン」
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/good-bye-lenin.html
「僕たちは希望という名の列車に乗った」
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-b5ab06.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-ac0753.html
「バルーン 奇蹟の脱出飛行」は、間に合わなかったか。

巻末の年表と文献は、整理しておこう。

はじめに
序章 東ドイツを知る意味
第1章 新しいドイツの模索―胎動 1945‐1949
第2章 冷戦と過去の重荷を背負って―建国 1949‐1961
コラム(1) オリンピックと東ドイツ
コラム(2) シュタージ
第3章 ウルブリヒトと「奇跡の経済」―安定 1961‐1972
コラム(3) 映画のなかの東ドイツ
コラム(4) 東ドイツ時代のメルケル
第4章 ホーネッカーの「後見社会国家」―繁栄から危機へ 1971‐1980
コラム(5) トラバントと「オスト・プロダクト」の今
コラム(6) 請願と日常生活の政治
第5章 労働者と農民の国の終焉―崩壊 1981‐1990
終章 統一後の矛盾と対峙
あとがき
参考文献
略語一覧
関連年表

河合信晴/著
中央公論新社
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/10/102615.html

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2020年9月25日 (金)

半島を出よ(上)(下)

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COVID-19での、「緊急事態」「危機対応」「危機管理」の一例として、読む。
さまざまな場面での、「何を最優先にするべきなのか」を決めずにその場その場の対応をする政府だけではなく、高麗遠征軍、九州医療センター、市役所、イシハラグループ、そして、政府によって封鎖されていても占領地の外では市民は生活を続けるし、中洲も賑わっている福岡や九州の人びと。
福岡では、県や市、国からも、高麗遠征軍からも、夜間も昼間も外出禁止令は出されていないようだ。

テレビのニュースに映る、首相以下の面々がそろってテーブルを囲み首相が原稿を読む新型コロナウイルス感染症対策本部の会議の場面(首相動静でも数十分でしかない)は、ある意味作られた映像でしかない。
首相以下の面々の姿がテレビに映る前の、侃侃諤諤あるいは喧喧囂囂であろう本部の実際のところは、決してテレビには出てこない。
そして、9月の連休中に外出する人たちの姿、印象的だったバス2時間待ちの人の列は、テレビに映っていた。

それにしても、人物や場面のエピソードのデティールの緻密なことよ。
場面が映像を見ているように想像できる。

村上龍/著
幻冬社
https://www.gentosha.co.jp/book/b3732.html
https://www.gentosha.co.jp/book/b3733.html
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2020年8月27日 (木)

ソ連現代史 I ヨーロッパ地域(世界現代史 (29))

200704_011
本書は1980年の刊行で、ソ連ではブレジネフの停滞時代真っ盛りの時期である。
このころまでのソ連の戦後の歴史をざっくり見ると、
1947年9月 コミンフォルム結成
1953年3月 スターリン死去
1956年2月 ソ連共産党第20回大会、フルシチョフが「スターリン批判」
1964年10月 ブレジネフ体制
1968年8月 チェコスロバキア侵略
1979年12月 アフガニスタン侵略
という出来事があった。

この時代に書かれたソ連の歴史なので、ある意味では本書自体が「歴史的」である。
著者は2004年に亡くなっており、本書執筆後のソ連・ロシアの動きも見ていたはずなので、本書以後の、ペレストロイカの頃やソ連崩壊後を経てのソ連史の見方、著者自身の見方や著者以外の評価などと比べてみると面白いだろう。
たとえば、マルクスとナロードニキとの関係、ロシアの農村共同体、1906年から14年のロシアの状況、ロシアでの特殊な諸条件に制約されていたはずのロシア革命やソ連を普遍的なものであるとした認識など。

ナロードニキとの関係を巡って、本書では「共産党宣言」ロシア語版への序言の最後の文章が「ロシアの共同体は、たとえ太古の土地共有制の著しく崩壊した形態であるとしても、より高度の共産主義的な土地所有形態に直接移行しうるものなのか?・・・・・・もしもロシア革命が西ヨーロッパのプロレタリア革命に対する合図となるなら、そして両者が互いに補いあうならば、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となりうる」(P.86~87)。
この文章がどこから引用されてたのかは、明示されていない。
服部文男訳版(新日本出版社刊)の同じところを見てみよう。
ロシアのオープシチナ(農民共同体)は、たしかに原始的な集団的土地所有のすでにいちじるしく崩壊した形態ではあるが、いっそう高度の、共産主義的な土地所有の形態へ直接移行することが可能であろうか?(中略)もしもロシア革命が西ヨーロッパの老フォウ者革命の合図となり、それゆえにこの両者がたがいに補いあうならば、現代のロシアの土地所有は共産主義的発展の出発点となりうるであろう。(P.12)
https://www.shinnihon-net.co.jp/general/detail/code/978-4-406-02618-5/

農奴制から解放、ロシア革命、戦時共産主義、新経済政策、コルホーズやソホーズとたどったロシアの農村は、いま、どんな経営が行われているのだろうか。

本書では、文化的側面にはほとんど言及していない。
ロシア・アバンギャルドは、おそらく「さまざまの傾向の芸術活動もまだ許容されていた」(P.281)の一文のなかに含まれているのだろう。

ヨーロッパ=ロシア—自然と民族
I モスクワ=ロシアと西欧化
II 農奴解放とロシアの近代化
III 反体制の思想と運動
IV ロマノフ朝の崩壊
V 十月革命
VI ロシア革命の理想と現実
VII ボリシェビキの一党国家体制
VIII スターリンの独裁
IX 第二次世界大戦とソ連
X 戦後のソ連
エピローグ
付録

倉持俊一/著
山川出版社
https://www.yamakawa.co.jp/product/42290

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2020年8月23日 (日)

ゲッペルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白

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映画を見る機会はあったのだが、積極的な気持ちが湧いてこなかったので、見ていない。
映画を知ったのは、岩波ホールに別の映画を観に行ったときで、ポスターに書かれていた「なにも知らなかった 私に罪はない」というフレーズに、またか、と思って、見ようという気持ちにはならなかった。
https://www.iwanami-hall.com/movie/%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%A8%E7%A7%81

ポムゼルが語ったこと、ナチス体制に組み込まれなければ暮らしていくことが難しかったことは、当時のドイツの多くの人が程度の差はあれ、経験したことに違いない。
事前に映画や本について何も知らずに読むと、「へえ、大変な経験をしたのね」と、多くの「知らなかった」経験談を見聞きしたときと同じように、通り一遍の感想で終わってしまいそうだ。
その経験を語ってくれと言われて、知らなかった、仕方がなかったとすることも、自身の経験・記憶はおそらく、意識的にか、あるいは無意識的にかは問わず、ナチス体制が崩れたあとになって幾多の年月が過ぎる間に、本人のなかで「合理化」されていったと考えざるを得ない。
そうした「合理化」も、1930年代から戦後の時代を生き延びた多くのドイツ人には、大なり小なり共通していたのではないだろうか。
近所の人々がいなくなったこと、ヒトラーについて些細なことを言ったことで逮捕されてしまうことがあったこと、同僚が帰ってこないことなどを見聞きしたとしても、そこで「自分を守る」動きをしてしまうのも、ふつうのことだろう。
そして過去にとどまらず、「テレビをつければ、シリアで恐ろしい出来事が起きているのはわかる。たくさんの人々が海で溺れているのが報道される。でも、そのあとテレビではバラエティ・ショーが放映される。シリアのニュースを見たからといって、人々は生活を変えない」と現代を見ているポムゼルの話には、ふむふむと納得してしまうのである。
けれど、こうした態度が、ポムゼルがいた体制の、そしていま日本や世界を覆っている政治や情勢の思うツボなのだろうなと、本書を脇に置いたときに思い直す。

自分にとって受け入れることができない事象に対して「否」と声をあげることとは、何だろうか。
ナチス体制にどう向き合うかといった大きなことではなくても、たとえば、自分の仕事のなかで、他者から自分の仕事に対するクレームを受けたとき、しかもそのクレームになるほどねと思うような内容が含まれていたとき、仕事人としてクレームに向き合うか、市民としてクレームを聞くかという場面があるだろう。
先日の、「黒い雨」訴訟での、控訴しない意向であった広島県と広島市が、国とともに控訴することにしたことも、似ているかもしれない。
県か市かはさておいて、法制にかかわる部署にいる職員は、どんな思いで仕事をしているのだろうか。

「昨今の政治情勢という枠組みの中で個々人がいかなる責任を負うか」、「ものごとから目をそらすな」(P.14)は、本書後半のトーレ・D.・ハンゼンの「ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか」で示す警告として繰り返される。
この警告が問うのは、「無知、受動性、無関心、御都合主義」でいる「私」、あるいは知りつつ黙している「私」に対してだ、ということだが、「私」は、どこまで「無知、受動性、無関心、御都合主義」でおらずにいることができるだろうか。
白バラを語ったところで「私自身は抵抗運動に参加することなどできなかった。臆病者だから、そんなことはとてもできなかった」、『「ノー」というのは、命がけのことだった』(P.81)とある。
少なくともこの日本では、「ノー」というのは、「命がけ」にはならない。
冒頭に書いた「またか、と思って、見ようという気持ちにはならなかった」もまた、「無知、受動性、無関心、御都合主義」の陥穽だったも言える。

ここの考察が、興味深い。
https://young-germany.jp/2018/07/goebbels/

まえがき(トーレ・D.・ハンゼン)
「私たちは政治に無関心だった」―一九三〇年代ベルリンでの青春時代
「ヒトラーはともかく、新しかった」―国営放送局へ
「少しだけエリートな世界」―国民啓蒙宣伝省に入る
「破滅まで、忠誠を」―宣伝省最後の日々
「私たちは何も知らなかった」―抑留と、新たな出発
「私たちに罪はない」―一〇三歳の総括
ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか(トーレ・D.・ハンゼン)
謝辞
『ゲッペルスと私』刊行に寄せて(石田勇治)
原注
索引

ブルンヒルデ・ポムゼル/著
トーレ・D.・ハンゼン/著
石田勇治/監修
森内薫/訳
赤坂桃子/訳
紀伊國屋書店
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011600

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