社会主義・共産主義関連

2019年9月17日 (火)

マルクスのかじり方

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10年ほど前、「蟹工船」がブームとなった。
その背景には、当時の「格差社会」があった。
それからの世の中はどうか。
「格差」は決して解消していないし、むしろ現政権が「この国から非正規という言葉を一掃する」と言わざるを得ない状況となっている。
現政権は、10年前の状況が固定し、再生産されていることに気づいたのかもしれない。
しかし、ここ数ヶ月で、あっという間に特定の国に対する排外的思潮が蔓延してしまっている。
地下に流れていたものが一挙に噴出したのだとしたら、この国の戦後史は何だったのだろうと暗澹たる思いになてしまうが、もしかしたら「格差」=内憂を「嫌韓」=外患に転化して目をそらさせようとしているのかもしれない。
さらに、台風15号に対する国の対応を見ていると、『憲法に「緊急事態条項」がないから、こんなことになっているんだ』ということを宣伝・拡大するための謀略が進行中と思いたくなってきた。
何れの状況から見えてくるのは、「棄民」だ。
本書は、「蟹工船」ブームの少しあとの「若マル」ブーム時代の書籍であるが、10年後のいま、読み継がれているのだろうか。
手にしているのは2018年2月の4刷、続いてはいるようだ。

さて、本書は学生を対象とした「マルクスのかじり方」であるが、基本中の基本として「いかにマルクスをかじるか」が押さえられているのだが、マルクスをかじったらどんな味がしたかを示す入門書ではない。
そして、マルクス自身を、成長しつつ様々な著作(原稿だけのもあるが)を残した人だということこを若い人たちに示したことがミソだろう。
ということで、主要な著作の執筆年齢をまとめてみる。
ライン新聞での活動:24~25歳
ユダヤ人問題に寄せて:25歳
聖家族:26歳
ド・イデ:27歳
共産党宣言:30歳
新ライン新聞での活動:30歳
フランスにおける階級闘争:30~32歳
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日:34歳
経済学批判:41歳
賃金、価格および利潤:47歳
資本論第一部:49歳
フランスの内乱:53歳
ゴータ綱領批判:57歳
死去:64歳

はじめに
Ⅰ いまマルクスがおもしろい
 1 自信を持って生きるために
 2 若いマルクスのバイタリティー
 3 「ものの見方」について
 4 資本主義ってなんだろう
 5 よりましな社会へ
 6 共産主義ってどんな社会
 7 マルクスをどう読むのか
ちょっとブレイク わたしの学生時代の思い出から
Ⅱ もう少しマルクスを知る―その生き方、理論
 1 マルクス超入門
 2 生まれた時代と若い頃
 3 マルクスが積み上げた科学の特徴
 4 成長への努力をやめない
 5 マルクスの目で現代を見ると
 6 読むことで開発される能力がある
ちょっとブレイク 学問の楽しさ感じて
Ⅲ 少しかじってみよう

石川康宏/著
新日本出版社
http://www.shinnihon-net.co.jp/general/detail/code/978-4-406-05464-5/

 

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2019年9月11日 (水)

スターリニズム

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わかっているようで、しかし、それぞれの論者によって定義づけられているのでますますわかりにくくなっている「スターリニズム」、これはいったい何なのだ?
著者グレイム・ギルは、「スターリニズム」を「経済」「文化」「社会」「政治」の「四つの相貌」から、その起源や内実を論じ、コンパクトにまとめている。
ガチガチの全体主義だろうとの先入観であまり眼がいくことのなかった、中央と地方との関係、中央による地方や下部組織に対する統制の弱さという指摘は興味深い。
むろん中央の統制が弱いことが民主的だったとか自由だったとかいうことにはならず、地方は地方でミニ・スターリニズムの社会だったのだろう。
国土の広さとインフラの未発達が影響していたのかもしれない。
だとしたら、シベリア抑留でのそれぞれの地方での思惑とモスクワの思惑とは、どのようなものだったのだろうか。
そしてこの指摘は、「全体主義」を考える上で、ファシズムやナチズムと同じようにスターリニズムを置いていいのかという問題提起にもなるだろう。

この中央と地方との関係は、ベトナム戦争でも論じられたことがあることを思い出した。
「ハノイ対話」でのプレイク事件(1965年2月7日のベトナム中部のブレイク空軍基地に対する解放戦線による攻撃)をめぐるやりとりで、「我々はなぜ戦争をしたのか―米国・ベトナム 敵との対話」で触れられている。
アメリカ側は、ブレイク攻撃を北ベトナムによる挑発であり、ハノイからの指令に基づく攻撃であるととらえたのだが、「ハノイ対話」においてはベトナム側から現地司令官が計画し実行された作戦であると言明された。
当時の解放戦線側においては米軍が持っていたよう指揮命令系統・手段は整備されておらず、「自分たちと同じような指揮命令系統を解放戦線も持っていたはずで、すべてハノイからの指令によって作戦が行われた」とするアメリカの判断はとんでもない誤解であるというやりとりであった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-1d9f.html

スターリニズムの要素は、P.86に7点がまとめられている。
(1) 制度上は高度に中央集権化された司令経済システム。大衆動員と重工業発展の最大限の重視を特徴とする。
(2) 初期の段階では、大々的な流動を特徴とした社会構造。なかでも特筆すべきは、かつての下層階級を権力と特権ある地位に引き上げた高水準の社会的流動。その後、社会は安定し、等級や地位、厳格な上下関係が支配する社会構造へと帰結。
(3) 文化的、知的領域では、すべてが指導部の定める政治的目的に奉仕すべきであるとされ、文化的、知的活動の全分野が政治的監視を受けた状態に置かれる。
(4) 当地の手段としてテロルを用いた個人独裁。ここでは、政治組織はほとんど独裁者の道具以上の何物でもなかった。
(5) 国家にとって重要と見なされる限りで、あらゆる生活領域が政治化される。
(6) 権力の中央集権化と、その反面に見られた中央からの日常的統制の著しい弱さ。その結果、実際には日々の活動が厳格な統制を受けず、組織化もされていないシステムが出来上がった。
(7) 初期の革命的な価値規範は、保守的で現状維持の志向によって取って代わられた。
そして「四つの相貌すべてを備えたスターリニズムの登場にとって最も重要だったのは、一九二〇年代末から一九三〇年代初頭にかけての「上からの革命」と一九三〇年代後半のテロルであろう」(P.89~90)とする。
さらに「後進性」と「指導者たちの個人的選択」についての検討となる。

「大テロル」の論考で、NKBDに関して、「存在意義を強く主張しようと躍起になっていた」(P.44)ことで、「敵の摘発を通じて今まで以上に目立つ存在となるばかりか・・・大勢の指導機関として君臨できるから」(P.47)「大テロル」で役割を担ったというように記されているが、NKBD長官のエジョフやベリヤが「大勢の指導機関として君臨」することを考えていた、ということなのだろうか。

ソ連邦が崩壊しロシア連邦となったからといって、「スターリニズム」がなくなったわけではないだろう。
現代ロシアとスターリニズムとの関係も、考えていかなければならない課題なのだと思う。
そして、「経済」「文化」「社会」「政治」の「四つの相貌」から嫌韓な我が国を見たとき、どんな評価をすることができるだろうか。
さらに、奇しくもきょうは9.11。
以前ノーマンメイラーは、アメリカが全体主義に向かいつつあると言ったようだし、鶴見さんもどこかでアメリカの知人にそのようなことを言われたことがあるとか言っていたが、「アメリカ・ファースト」なアメリカは、どう評価できるだろうか。

第二版への序文
判例
第1章 スターリニズムの歴史的起源?
 1 ロシアの後進性
 2 レーニン主義
 3 人格的要因
第2章 スターリニズムの確立
 1 「上からの革命」
 2 文化革命
 4 社会的流動
 4 大テロル
 5 スターリニズムの政治
 6 外国の脅威?
第3章 大戦と盛期スターリニズム
 1 戦時経済
 2 文化的動員
 3 戦時の社会
 4 戦時の政治
 5 盛期スターリン経済
 6 戦後の社会
 7 戦後の文化
 8 政治的相貌
 9 国際的スターリニズム
第4章 スターリニズムの特質
 1 起源の問題
終章 スターリニズムの遺産
 1 公的な場でのスターリニズム
 2 スターリニズムの構造上の帰結)
訳者解説
参考文献・日本語文献案内
関連年表
索引

グレイム・ギル/著
内田健二/訳
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b257739.html

 

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2019年8月30日 (金)

加藤周一、米原万里と行くチェコの旅

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オーストリアからチェコをめぐる旅の中で、加藤周一さんや米原万里さんをキーにして、小森陽一氏、金平茂紀氏、辛淑玉氏の各氏が語り対談した記録で、それぞれの地の様子は、ほとんど記述されないので、チェコの景色を期待してはいけない。
当然、日本の状況を重ね合わせた話になるので、社会批評でもあり、批判的立場にある人の内側も語られる。
本書を読みながら、ここ数年で、日本の狭さはますます進んだのだとひしひしと実感してしまう、ことに辛淑玉氏の語りでは。

P.25~26の「ハプスブルク家の夏の王宮でした。」は、「ハプスブルク家の夏の離宮でした。」でしょう。
P.26の写真にはちゃんと「離宮」となっているし、他のページでも「離宮」となっている。

ウィーンでは、1984年にも触れてほしかった。
展示となると、軍事史博物館にはあって見てきたけれど、他に展示されているかどうかは定かではない。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-e1a12b.html
今は改修で閉館だけど、ウィーンミュージアムの展示は、どうだろうか。

P.45、クーデルカの写真集、持って行ったのか。
先日、プラハから帰ってきてもう一度眺めてみた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-2c1ea7.html

P,180にカフカとチャペックが少し出てくるが、シュベイクについても触れてほしかったな。

小森氏も金平氏も、同世代。
加藤周一さんはむろんのこと父母か祖父母世代、米原万里さんは少し上の姉御の世代。

カラーグラビア
旅のはじめに
第1章 ハプスブルグ家に見る中欧の歴史
 1、ハプスブルグ家とウィーン
>2、権力の歴史から「主役は民」の時代へ
第2章 「プラハの春」と加藤周一
 1、加藤周一「言葉と戦車」と言葉の復権
 2、「言葉と戦車」の今日的な読み方
 3、加藤周一の文学的表現について
第3章 旅先で自らの半生を振り返る
 1、加藤周一と「九条の会」、そして私
 2、ニュースキャスターとして思うこと
 3、反転攻勢のために何が必要か
第4章 チェコの歴史と文化と闘い
 1、チェコの歴史を訪ねて
 2、チェコに見る文化の役割
第5章 米原万里とプラハ、そしてソ連崩壊
 1、プラハ時代の米原万里
 2、ソ連崩壊の過程での米原万里
 3、通訳者、小説家としての米原万里
第6章 中欧から見た日本と日本人
 1、世界から見た日本の教育
 2、リベラル左派の将来をどう考えるか
 3、日本の希望は沖縄にある
第7章 ドイツで自分の居場所を考えた
 1、ユダヤ人とテレジン収容所
 2、殺す側の理屈、殺される側の思い
旅のおわりに

小森陽一、金平茂紀、辛淑玉/著
かもがわ出版
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ka/1013.html

 

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2019年8月14日 (水)

わが青春の国際学連 プラハ1959~1968

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「プラハの春」から51年、そしてこの春プラハを歩いたということで、読んでみる。
本当は、プラハに行く前に読んでおこうと考えていたのだが、結局、今の時期になってしまった。
米原万理さんがプラハで暮らしたのが1959年11月から1964年11月まで、著者のプラハ在住時期(1959年3月から1968年9月)とは重なっている。
しかし、年齢も離れているし、何より決定的に立場の違いが鮮明であるから、邂逅する機会はなかっただろう。

著者の立場はブントで(それは本書刊行当時も変わらないようだ)、日本共産党に対する姿勢は60年第70年代そのままであるが、本書を読むにあたっては全学連内部での争いは、背景として押さえておくべきだろう。
もっとも、ブントの分裂前に著者は日本を出ている。
一方で、ソ連型社会主義の批判者でありながら、ソ連型社会主義国のただなかでのソ連型社会主義を支える任務を持つ組織の一員としての活動記録、という内容も可能だったかもしれない。
しかし著者は、チェコ事件ののち、プラハを去らなければならなかった。
反スターリン主義の著者が長年プラハで活動できたのは、国際学連じたいがソ連型社会主義組織とは言い切れない側面を持っていた(著者も書いているが、国際学連は丸々ソ連の下請け機関というわけではなかったようで、68年後活動できなくなった)としても、プラハで、そして国際学連で、著者が何をしていたのか、どんな議論があったのか、また、国際学連がどのようなことをしていたのか、本書では何もわからない。
私はプラハに居ました、WPO軍を見ました、他の国にも行きました、プラハに居られなくなったのでドイツに行きました、以上報告終わり、であった。
それに、加藤周一氏は1969年にベルリン自由大学に赴任しているが、氏を招くにあたって著者が尽力したというエピソードが書かれているが、これはどういうことなのだろう?

そうしたことが目的で本書を読んだのではないからその点はいいとしても、50年前のプラハの様子や暮らしの様子は、著者が住んでいたあたりの平和広場の写真はあるが、よくわからなかった。
東大を去るにあたって学長に激励されたこと、十数年後に東大に復学できたことも、なぜ?と疑問符はついたままだ。

まえがき
第I部 医学連の活動、そしてプラハへ
 一 そのころ、自分のおかれた座標
 二 プラハへ出発(一九五九年二月)
 三 自己寸史「学生運動へのかかわり」――原水爆禁止のたたかい
 四 1960年代――世界と日本
 五 「冷戦」時代にみる「東側体制」をどう把握するか
第II部 国際学連書記局(プラハ)を舞台に
 一 国際学連(IUS)について
 二 1968年8月20日 チェコスロヴァキアの軍事制圧の現場
 三 国際学連内で日本全学連の占める確固たる位置
 四 世界各国歴訪
 五 プラハからベルリンへ
 六 国際活動で学んだこと
 七 その後の「身のふり方」――14年遅れ四〇歳で医者に
 八 21世紀の世界
書きおえて

石井保男/著
社会評論社
http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/shakaisyugi/ISBN978-4-7845-1479-3.php

 

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2019年7月21日 (日)

[共同研究]1848年革命

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1979年の刊行、40年前の知見であるという前提で、読む。
良知力さんが書いたのは49歳の頃、良知力さんらしさはまだ生まれていないようで、ずいぶん固い文章だし、分析も機械的な印象を受ける。
一八四八年革命というと、イタリア、フランス、オーストリア、ドイツといったところは様々な文献などで知る機会は多いが、本書でハンガリーやチェコの革命についても論考されているのが良かった。
ハンガリーについては、その後の第一次世界大戦後と第二次世界大戦後の動き、1956年、そして1989年と、歴史の前面に出てくる動きがあったが、そうした歴史の経験は、現代のハンガリーを規定しているのか規定していないのか。
チェコについては、GWにプラハの街を歩いたので、1848年当時とは街並みは異なっているだろうが、その街のバリケードが築かれたツェレトナー通りや広場などの景色を思い浮かべながら、本書を読み進めることができた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-17e252.html

民主主義と社会主義、独裁政治と立憲政治、そこに民族の問題が加わると、一挙に複雑な情勢となる。
それは、いまの日韓関係が、政治的経済的な課題の解決以上に、民族観、そして歴史認識との関係から解決に向けていかなければならないのと同じようなことが起きていたのだろう。
本書では、「ドイツ人民主主義者はドイツ国内では国家統一をめざし、国外では諸民族の解放を提唱していたにもかかわらず、プラハ蜂起を民族主義的陰謀と規定することによってその非「コスモポリタン」的性格をあらわにした。(中略)こうして反革命の台頭は、ドイツ人がボヘミアのこの時期の運動の内実を正しく評価しなかった点に一因があった」(P.335~336)とする一方、「チェコ人民主主義の運動は地域的であり(中略)、地域主義を前面に押し立てたへ個人の運動は、ドイツ人にとってなんら民主主義的なものではなく、たんなる民族主義的運動と映ったのである」(P.336)としている。
こうした評価は、現在ではどうなっているのだろうか。

5月にウィーンに行っときに軍事史博物館に行ったら、ウィーン1848革命の展示があった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-e1a12b.html
市民側のビラだか政府側の布告だか、これを読めればいいなあと思ったものだ。

良知力さんの著作は、オーストリア関連でずいぶん読んできた。
向う岸からの世界史 一つの四八年革命史論(1978年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-d888.html
1848年の社会史 ウィーンをめぐって(1986年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/1848-668b.html
女が銃をとるまで 若きマルクスとその時代(1986年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-079d.html
青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年(1985年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/1848-d245.html

あと、こうした著書がある。
ドイツ社会思想史研究
初期マルクス試論 現代マルクス主義の検討とあわせて
マルクスと批判者群像
魂の現象学 一社会思想家として
ヘーゲル左派論叢 第1,3,4巻
ヘーゲル左派と初期マルクス

増谷英樹さんの著書や訳書も読んでいる。
歴史のなかのウィーン―都市とユダヤと女たち(著書・1993年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-2237.html
図説 ウィーンの歴史
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-8f65.html
ビラの中の革命―ウィーン・1848年(著書・1987年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/1848-23d9.html
橋 ユダヤ混血少年の東部戦線(訳書・1990年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-1740.html
ドイツ戦争責任論争(訳書・1999年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-f14f.html
1848年 ウィーンのマルクス(訳書・1998年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/1848-a355.html

序論
 一八四八年革命の概観と研究の課題 増谷英樹
第一章 革命思想の構造
 マルクス=エンゲルスにおける四八年革命論の基礎構造 良知力
第二章 労働者の状態と運動
 革命前夜のベルリン労働者 川越修
 「フランクフルト労働協会」と九月蜂起 増谷英樹
第三章 民主主義者・共産主義者
 四八年革命における共産主義者同盟 松岡晋
 一八四九年バーデン革命の起点 上野卓郎
第四章 農村蜂起の性格
 オーデンヴァルト農村の運動 藤田幸一郎
第五章 民族運動の展開
 ハンガリーにおける四八年革命 南塚信吾
 プラハ六月蜂起とスラヴ民族主義 稲野強
文献・史料案内
あとがき
付録 一八四八年革命史年表

良知力/編
大月書店
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b51802.html

 

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2019年7月20日 (土)

コメコンデザインシリーズ(9) 「在りし日の食堂で」社会主義食堂レシピ vol.4

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今回は、東ドイツ(2)、ハンガリー(1)、チェコ(1)、グルジア(1)、ウズベキスタン(1)、ウクライナ(1)、ソヴィエト(3)、ルーマニア(2)、バルカン諸国(1)、クロアチア(1)、アルメニア(1)。
巻末読み物は、極東ロシア。
そろそろ甘いものはどうかと、提案しておいた。

第1集
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/20vol1-9afd.html
第2集
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/22vol2-e41b.html
第3集
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/620vol3-3dca.html

イスクラ
http://iskra.ocnk.net/product/18797

 

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2019年7月13日 (土)

赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD 5

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エリア・カザンの作品は何作も見ていて(ほとんどはテレビでだが、たまにリバイバル上映もあったっけ)、当時はすごい映画だなあと思ったものだが、HUACとカザンとの関係を知ったのは、そのあとのことだ。
鶴見俊輔さんのハーヴァード大学時代の同級生が戦後日本に来て鶴見さんを訪ねたときに、「米国はこれから全体主義になるだろう」ということを言ったようだ。(「思い出袋」鶴見俊輔・岩波新書、P.50,P.110)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-0013e5.html
鶴見さんがそのことを実感したのは、2001年の9.11のときに当時のブッシュ大統領が「私たちは十字軍だ」と言ったときと書いてあるが、赤狩り時代の米国については、鶴見さんはどこかで何か書いていただろうか。

山本おさむ/著
小学館
https://comics.shogakukan.co.jp/book?isbn=9784098602919

 

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2019年7月 6日 (土)

モスクワの伯爵

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時代は、伯爵が32歳のときの1922年→(1年)→1923年→(1年)→1924年→(2年)→1926年→(4年)→1930年→(8年)→1938年→(8年)→1946年→(4年)→1950年→(2年)→1952年→(1年)→1953年→(1年)→1965年の32年間と、法則をもった間隔(じっさいは、1922年から1924年の間、1952年から1954年の間は、もっと短い期間が重なる)を経て展開している。
それぞれの時代におけるエピソードが繋がっていくので、ある意味では中短編の集積のようだが、エピソードとエピソードとの間に何があったのかは、すっ飛ばされている。
いかにもな文学的修辞、比喩的修辞が重ねられるのは、だんだんハナについてくる。
これは、一種の漂流譚であると思った。
現在の閉じられた環境(とはいえ、そこには物質的には一応何でも揃っているので、ロビンソン・クルーソーや2年間の休暇のような最初の苦労はないが))の中で暮らしを立てていく、過去を振り返りつつ過去を失わず与えられた境遇のなかでいかに生きるか。
けれども、「自由と平等の国」アメリカの、いささか憧れめいた「貴族」への夢でもなるのだろう。

名づけ親で、「不運は様々な形をとってあらわれる。自分が境遇の主人にならなければ、その人間は一生境遇の奴隷となる」との格言を示したデミドフ大公とは、大公とあるからには、皇帝の息子ということになるだろうが、誰のことだろうか。
三巨頭のうちの残った二巨頭と周囲の人たちは、その後の雪解け時代、そしてブレジネフ時代を、ホテルでどう過ごしただろうか。
そして、二人も、その後のの雪解け時代、そしてブレジネフ時代を、故郷でどう過ごしただろうか。
フルシチョフの失脚は、最終章の10年後である。

帯に「Amazon.comのレビュー10,000超え」とあるが、ほんとうだ。
けれど、星ひとつのレビューもあるので、そっちに注目してしまう。
https://www.amazon.com/A-Gentleman-in-Moscow/dp/0143110438/#customerReviews

エイモア・トールズ/著
宇佐川晶子/訳
早川書房
http://www.hayakawa-online.co.jp/shop/shopdetail.html?brandcode=000000014211

 

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プラハ侵攻1968

Books157
8年前に写真展があり、本書も刊行された。
そのときに入手し読んでいるが、先だってプラハに行って、この写真集に出ている場所も歩いてきたので、もう一度ページをめくることにした。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/1968-92cd.html

グーグルのストリートビューを利用すると、撮影した場所がかなり特定できる。
特定できた場所を、地図に落としてみよう。

Praha_1

Praha_2
P.10〜11:キャプションなし。写真展のリストでは「プラハの町を侵攻するワルシャワ条約機構群(ママ)の戦車、8月21日」:レヴォルチュニー通りを北へ向き、ヴルダヴァ川のシュテファーニクーク橋の手前、したがって戦車の砲塔の大砲は市内に向いていない。(1_praha_1)
P.21:ヴィノフラツカー大通りのラジオ局に向かう最初のデモ参加者:ヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)は、プラハ本駅の南側、国立博物館から東に延びる通り、チャペックの住居に行った時の地下鉄が、この通りの下を走っている。(2_praha_1)
P.22〜23:ČKDのプラハ工場の裏手、フロウビェチーンへと向かう車列(3_praha_2)
P.24〜25:フロウビェチーンへの道路:シェコダの工場はプラハの北東部にあり、その南東に地下鉄の「Hloubětín」駅がある。(3_praha_2)
P.26〜29:ヴィノフラディにて:ヴィノフラディ(Vinohrady)は、チェコの旧市街の東エリア、高級住宅街とされているようで、チャペックの住居もこのエリアにあるが、撮影場所は、わからない。(4_praha_1)
P.30:ソコロフスカー通り:ソコロフスカー通り(Sokolovská)はプラハ本駅の北とヴルダヴァ川の間を東方向に伸びる通りであるが、撮影場所は、わからない。(5_praha_1)
P.31:ヴァーツラフ広場とメジブランスカー通りの交差点:メジブランスカー通り(Mezibranská)は、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)が国立博物館前で交差し南に伸びる道路。(6_praha_1)
P.31:ツェレトナー通り:ツェレトナー通り(Celetná)は旧市街広場と火薬塔との間の通り。(7_praha_1)
P.32〜33:ヴァーツラフ広場とオプレタロヴァ通りの角にあるチェコスロヴァキア通信社に向かう戦車:オプレタロヴァ通り(Opletalova)は、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)が国立博物館寄りで交差し北東に伸びる道路。(8_praha_1)
P.36〜37:ヴィノフラディのマーネソヴァ通り:マーネソヴァ通り(Manesova)は、ヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)の一本北側の通り。(9_praha_1)
P.38〜41:キャプションなし。建物の形状からマーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.46〜47:キャプションなし。16枚の写真のうちの数枚は、建物の形状からマーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.48〜49:キャプションなし。ヴァーツラフ広場の国立博物館前。(6_praha_1)
P.52〜53:キャプションなし。16枚の写真のうちの数枚は、ヴァーツラフ広場。(6_praha_1)
P.58〜59:キャプションなし。背後の建物からヴィノフラツカー大通りのようだ。(13_praha_1)
P.64〜65:キャプションなし。背後の建物からヴルダヴァ川にかかるチェーホフ橋から北側を見ているようだ。(19_praha_1)
P.67:共産党中央委員会を監視する兵士たち:チェコスロヴァキア共産党(Komunistická strana Československa (KSČ))中央委員会本部は、現在のチェコ交通省ビル。(10_praha_1)
P.68:共産党中央委員会前にて(10_praha_1)
P.70〜71:党中央委員会前で国歌を歌う人々(10_praha_1)
P.74〜75:旧市街広場:ヤン・フス像、その奥にキンスキー宮殿、右に石の鐘の家、ティーン教会。(11_praha_1)
P.76〜77:ヴァーツラフ広場:広場の中央あたりで国立博物館を背にしての広場風景。(12_praha_1)
P.79:銃撃の証拠としての弾薬:背後の建物は国立博物館。(12_praha_1)
P.85:チェコスロヴァキア・ラジオ局に向かう装甲車に対する人々の反応(13_praha_1)
P.86〜87:チェコスロヴァキア・ラジオ局前での指示を出すロシア士官(13_praha_1)
P.88:ヴィノフラツカー大通りのチェコスロヴァキア・ラジオ局前(13_praha_1)
P.90〜91:ヴィノフラツカー大通りとイタルスカー通りの交差点:イタルスカー通り(Italská)は、プラハ本駅の東側を南北に通っており、写真の左上に写る特徴のある建物から撮影場所は国立博物館側からヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)を東に向きイタルスカー通り(Italská)との交差点の西側手前であることが特定でき、現在もチェコ放送(Český rozhlas、ČRo)がある。(13_praha_1)
P.96〜97:ヴァーツラフ広場:背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.98:ヴァーツラフ広場:国立博物館側からのヴァーツラフ広場。(12_praha_1)
P.100〜101:キャプションなし。国立博物館前とヴァーツラフ広場。(12_praha_1)
P.102〜103:共和国広場:市民会館に面した広場、建物の形状から広場の北側のようだ。(14_praha_1)
P.110〜111:キャプションなし。背後の建物からヴィノフラツカー大通りのようだ。(13_praha_1)
P.113:チェコスロヴァキア・ラジオ局の防衛(13_praha_1)
P.114〜115:キャプションなし。建物の形状からマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。1枚は市電の線路が見えるので、ヴィノフラツカー大通りかもしれない。 (13_praha_1)
P.116〜117:チェコスロヴァキア・ラジオ局のあるヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)
P.118〜119:キャプションなし。ヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)とマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。
P.120〜121:キャプションなし。ヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)とマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。
P.126〜127:ヴィノフラツカー大通り。放火された戦車から出てくる兵士たち(13_praha_1)
P.128〜129:キャプションなし。マーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.130〜131:キャプションなし。マーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.132〜133:チェコスロヴァキア・ラジオ局の占領に向かうロシア兵(13_praha_1)
P.144〜145:ヴィノフラツカー大通りの、銃撃を受けて出火した建物(13_praha_1)
P.152〜153:チェコスロヴァキア・ラジオ局での攻防の犠牲者(13_praha_1)
P.164:オルシャヌイ墓地近くでの葬送の行列:写真の右の木立が墓地、ちょうど現在の地下鉄Flora駅前で、このあたりはチャペックの住居に行ったときに歩いた。(15_praha_1)
P.164:侵攻による犠牲者の記念碑、ヴァーツラフ広場にて:国立博物館側を背後にした聖ヴァーツラフ像の前。(12_praha_1)
P.171:ヴァーツラフ広場:国立博物館方向。(12_praha_1)
P.174〜175:2度にわたり、人がいなくなったヴァーツラフ広場―8月22日、23日:ヴァーツラフ広場の北西端の建物の上から国立博物館を見ているようだ。(12_praha_1)
P.182〜183:ヴァーツラフ広場のソ連軍の戦車:ヴァーツラフ広場の北西端の建物の上から聖ヴァーツラフ像と国立博物館方向。(12_praha_1)
P.190:キャプションなし。背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.191:占領反対を訴える新聞の配布:背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.193:臨時党大会の準備がおこなわれているヴィソチャヌイの工場前:プラハ北東部に、Praha-Vysočany駅があるので、その辺りの工場なのだろう。(16_praha_2)
P.194〜195:共和国広場:市民会館前から北東方向。(14_praha_1)
P.196:ヴァーツラフ広場の聖ヴァーツラフ像(12_praha_1)
P.206〜207:ナ・プシーコビェにて:ナ・プシーコビェ(Na Příkopě)は、ヴァーツラフ広場の北西端から共和国広場に向かう大通り。(17_praha_1)
P.208〜209:キャプションなし。背後は聖ヴァーツラフ像。(12_praha_1)
P.211:聖ヴァーツラフ像の前の若者たち(12_praha_1)
P.212〜213:ナ・プシーコビェでのデモ:背後に見える建物はヴァーツラフ広場との角に立つ建物なので、ヴァーツラフ広場から共和国広場に向かって行進していることになる。(17_praha_1)
P.220〜221:すわり込みの抗議:国立博物館を背後に聖ヴァーツラフ像のまわりで人々が座り込んでいる。他の写真でもそうだが、当時は市電が聖ヴァーツラフ像のとこおまで走っていたようだ。(12_praha_1)
P.224〜225:ヴァーツラフ広場:国立博物館と聖ヴァーツラフ像との間。(12_praha_1)
P.228〜229:血のついた「ソヴボドネー・スロヴォ」紙を手にした新聞売り:国立博物館を背後に聖ヴァーツラフ像が見える。(12_praha_1)
P.230:ロシア語で「なぜ」のプラカード:共和国広場、市民会館前から北東方向。(14_praha_1)
P.231:インジシュスカー通り:ヴァーツラフ広場の中ほどから北東方向にプラハ本駅に至る通り。(18_praha_1)
P.231:ドゥプチェクの写真を掲げて抗議する人々。旧市街:ティーン教会を背後に旧市街広場の旧市庁舎前。(11_praha_1)
P.235:ヴィノフラディの墓場にて:オルシャヌイ墓地か。(4_praha_1)
P.250〜251:占領反対のスローガンが記されたトレーラ、ヴァーツラフ広場(12_praha_1)
P.268〜269:旧市街広場:ヤン・フス像、右に旧市庁舎が見えるので、北側から南方向を見ている。(11_praha_1)
P.270〜271:旧市街広場:ヤン・フス像、奥に聖ミクラーシュ教会が見えるので、ティーン教会の前から見ている。(11_praha_1)
P.272:キャプションなし。市民会館前の共和国広場。(14_praha_1)
P.273:キャプションなし。旧市庁舎前。(11_praha_1)
P.274:キャプションなし。ヤン・フス像の土台があるので旧市街広場。(11_praha_1)

「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」写真展展示リスト
https://topmuseum.jp/upload/3/1353/koudlka.pdf
http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-1353.html

 

ジョセフ・クーデルカ(Josef Koudelka)/著
阿部賢一/訳
平凡社
https://www.heibonsha.co.jp/book/b157734.html

 

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2019年6月16日 (日)

敗北者たち 第一次世界大戦はなぜ終わり損ねたのか 1917-1923

190221_001  190221_002
本書は、第一次世界大戦は「終わり損ね」、ロシア革命を含めて「世界大戦から混沌に満ちた「平和」への暴力的な移行」(P.20)であったという提起が、本書のテーマである。
確かに、第一世界大戦が終わったからといって、武力を用いた紛争のすべてが終わったわけではないのは、ロシア革命とその後の内戦や諸国の干渉を思い起こせば明らかであるが、ロシア以外の地域でも暴力の連鎖が続いた。
ということは、ドイツ、ハプスブルク、ロシア、オスマンといった「帝国」が縛り付けていたタガが外れたことで、多くの混乱が生じたということだろう。
ウィルソン米大統領の示した「民族自決」が、「民族の牢獄」とされていたヨーロッパの複雑な民族構成とそれぞれの民族の居住エリアにおいて、どのように理解されたのか。
そして、「民族」が正面に立ったことで、戦争における「敵」概念は、戦闘員と非戦闘員との区別をなくし、同一民族であっても「裏切り者」は敵とされていったことは、ウィルソン米大統領の「民族自決」とはそもそも何だったのかと、考えさせる。
第一次世界大戦後の世界史の見方、第二次世界大戦との連続性に、あらたな視点を示してくれる。
加えて、第二次世界大戦が終わったのか終わり損ねているのかについても、思いは巡る。

しかし、のっけから訳者補足が多々入るのである。
書評のなかには、訳者の努力とするものもあったが、その数がどのくらいになるのかわからないが、何しろその数が多いので、本書そのものへの信頼を失ってしまう。

プロローグ
第一部 敗北
 第一章 春の列車旅行
 第二章 ロシア革命
 第三章 ブレスト=リトフスク
 第四章 勝利の味
 第五章 運勢の反転
第二部 革命と反革命
 第六章 戦争は終わらない
 第七章 ロシアの内戦
 第八章 民主主義の見せかけの勝利
 第九章 急進化
 第十章 ボリシェヴィズムの恐怖とファシズムの勃興
第三部 帝国の崩壊
 第十一章 パンドラの箱――パリと帝国問題
 第十二章 中東欧の再編
 第十三章 敗れたる者に災いあれ
 第十四章 フィウーメ
 第十五章 スミルナからローザンヌへ
エピローグ――「戦後」と二〇世紀半ばのヨーロッパの危機
謝辞
訳者解題
写真出典
原註
参考文献
事項索引
人名索引

ローベルト・ゲルヴァルト/著
小原淳/訳
みすず書房
https://www.msz.co.jp/book/detail/08761.html

 

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