戦争・平和関連

2020年9月15日 (火)

ナチスが恐れた義足の女スパイ 伝説の諜報部員ヴァージニア・ホール

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どこまでが事実なのかは確かめようがないが、あたかも映画を見ているような印象で読み進んだ。
外国勢力の支配に対する人々の抵抗は、アルジェリアやベトナムなど、フランスは逆の立場での経験もあるはずだが、そうしたフランスが逆の立場であったことを見たであろうヴァージニアは、そうしたフランスのありようを、どう考えていたのだろうか。
そして、戦後、「Collaboration」として断罪されたひとたちのなかに、もしかしたらヴァージニアとともにあった娼婦たちも、いたのかもしれないと思うと、フランスを別の角度からも見なければならないかもしれない。

たとえばP.171の「三階です」のように、建物の階を示している表現はいくつかあるが、この「三階」は、日本でいう「三階」なのか、フランスの「Rez-de-Chaussée」「Premier étage」「deuxième étage」「
Troisième étage」なのか、原文はどなっているのだろうか。

読売新聞書評
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20200725-OYT8T50110/

第一章 夢
第二章 機は熟せり
第三章 私のふしだらな友人たち
第四章 ディンディにさようなら
第五章 一二分、一二人
第六章 スパイたちの伏魔殿
第七章 非情の山
第八章 最重要指名手配エージェント
第九章 雪辱
第一〇章 山々の聖母マリア
第一一章 頭上の天空から
第一二章 CIAでの歳月

ソニア・パーネル/著
並木均/訳
中央公論新社
https://www.chuko.co.jp/tanko/2020/05/005307.html

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2020年8月27日 (木)

ソ連現代史 I ヨーロッパ地域(世界現代史 (29))

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本書は1980年の刊行で、ソ連ではブレジネフの停滞時代真っ盛りの時期である。
このころまでのソ連の戦後の歴史をざっくり見ると、
1947年9月 コミンフォルム結成
1953年3月 スターリン死去
1956年2月 ソ連共産党第20回大会、フルシチョフが「スターリン批判」
1964年10月 ブレジネフ体制
1968年8月 チェコスロバキア侵略
1979年12月 アフガニスタン侵略
という出来事があった。

この時代に書かれたソ連の歴史なので、ある意味では本書自体が「歴史的」である。
著者は2004年に亡くなっており、本書執筆後のソ連・ロシアの動きも見ていたはずなので、本書以後の、ペレストロイカの頃やソ連崩壊後を経てのソ連史の見方、著者自身の見方や著者以外の評価などと比べてみると面白いだろう。
たとえば、マルクスとナロードニキとの関係、ロシアの農村共同体、1906年から14年のロシアの状況、ロシアでの特殊な諸条件に制約されていたはずのロシア革命やソ連を普遍的なものであるとした認識など。

ナロードニキとの関係を巡って、本書では「共産党宣言」ロシア語版への序言の最後の文章が「ロシアの共同体は、たとえ太古の土地共有制の著しく崩壊した形態であるとしても、より高度の共産主義的な土地所有形態に直接移行しうるものなのか?・・・・・・もしもロシア革命が西ヨーロッパのプロレタリア革命に対する合図となるなら、そして両者が互いに補いあうならば、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となりうる」(P.86~87)。
この文章がどこから引用されてたのかは、明示されていない。
服部文男訳版(新日本出版社刊)の同じところを見てみよう。
ロシアのオープシチナ(農民共同体)は、たしかに原始的な集団的土地所有のすでにいちじるしく崩壊した形態ではあるが、いっそう高度の、共産主義的な土地所有の形態へ直接移行することが可能であろうか?(中略)もしもロシア革命が西ヨーロッパの老フォウ者革命の合図となり、それゆえにこの両者がたがいに補いあうならば、現代のロシアの土地所有は共産主義的発展の出発点となりうるであろう。(P.12)
https://www.shinnihon-net.co.jp/general/detail/code/978-4-406-02618-5/

農奴制から解放、ロシア革命、戦時共産主義、新経済政策、コルホーズやソホーズとたどったロシアの農村は、いま、どんな経営が行われているのだろうか。

本書では、文化的側面にはほとんど言及していない。
ロシア・アバンギャルドは、おそらく「さまざまの傾向の芸術活動もまだ許容されていた」(P.281)の一文のなかに含まれているのだろう。

ヨーロッパ=ロシア—自然と民族
I モスクワ=ロシアと西欧化
II 農奴解放とロシアの近代化
III 反体制の思想と運動
IV ロマノフ朝の崩壊
V 十月革命
VI ロシア革命の理想と現実
VII ボリシェビキの一党国家体制
VIII スターリンの独裁
IX 第二次世界大戦とソ連
X 戦後のソ連
エピローグ
付録

倉持俊一/著
山川出版社
https://www.yamakawa.co.jp/product/42290

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2020年8月23日 (日)

ゲッペルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白

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映画を見る機会はあったのだが、積極的な気持ちが湧いてこなかったので、見ていない。
映画を知ったのは、岩波ホールに別の映画を観に行ったときで、ポスターに書かれていた「なにも知らなかった 私に罪はない」というフレーズに、またか、と思って、見ようという気持ちにはならなかった。
https://www.iwanami-hall.com/movie/%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%A8%E7%A7%81

ポムゼルが語ったこと、ナチス体制に組み込まれなければ暮らしていくことが難しかったことは、当時のドイツの多くの人が程度の差はあれ、経験したことに違いない。
事前に映画や本について何も知らずに読むと、「へえ、大変な経験をしたのね」と、多くの「知らなかった」経験談を見聞きしたときと同じように、通り一遍の感想で終わってしまいそうだ。
その経験を語ってくれと言われて、知らなかった、仕方がなかったとすることも、自身の経験・記憶はおそらく、意識的にか、あるいは無意識的にかは問わず、ナチス体制が崩れたあとになって幾多の年月が過ぎる間に、本人のなかで「合理化」されていったと考えざるを得ない。
そうした「合理化」も、1930年代から戦後の時代を生き延びた多くのドイツ人には、大なり小なり共通していたのではないだろうか。
近所の人々がいなくなったこと、ヒトラーについて些細なことを言ったことで逮捕されてしまうことがあったこと、同僚が帰ってこないことなどを見聞きしたとしても、そこで「自分を守る」動きをしてしまうのも、ふつうのことだろう。
そして過去にとどまらず、「テレビをつければ、シリアで恐ろしい出来事が起きているのはわかる。たくさんの人々が海で溺れているのが報道される。でも、そのあとテレビではバラエティ・ショーが放映される。シリアのニュースを見たからといって、人々は生活を変えない」と現代を見ているポムゼルの話には、ふむふむと納得してしまうのである。
けれど、こうした態度が、ポムゼルがいた体制の、そしていま日本や世界を覆っている政治や情勢の思うツボなのだろうなと、本書を脇に置いたときに思い直す。

自分にとって受け入れることができない事象に対して「否」と声をあげることとは、何だろうか。
ナチス体制にどう向き合うかといった大きなことではなくても、たとえば、自分の仕事のなかで、他者から自分の仕事に対するクレームを受けたとき、しかもそのクレームになるほどねと思うような内容が含まれていたとき、仕事人としてクレームに向き合うか、市民としてクレームを聞くかという場面があるだろう。
先日の、「黒い雨」訴訟での、控訴しない意向であった広島県と広島市が、国とともに控訴することにしたことも、似ているかもしれない。
県か市かはさておいて、法制にかかわる部署にいる職員は、どんな思いで仕事をしているのだろうか。

「昨今の政治情勢という枠組みの中で個々人がいかなる責任を負うか」、「ものごとから目をそらすな」(P.14)は、本書後半のトーレ・D.・ハンゼンの「ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか」で示す警告として繰り返される。
この警告が問うのは、「無知、受動性、無関心、御都合主義」でいる「私」、あるいは知りつつ黙している「私」に対してだ、ということだが、「私」は、どこまで「無知、受動性、無関心、御都合主義」でおらずにいることができるだろうか。
白バラを語ったところで「私自身は抵抗運動に参加することなどできなかった。臆病者だから、そんなことはとてもできなかった」、『「ノー」というのは、命がけのことだった』(P.81)とある。
少なくともこの日本では、「ノー」というのは、「命がけ」にはならない。
冒頭に書いた「またか、と思って、見ようという気持ちにはならなかった」もまた、「無知、受動性、無関心、御都合主義」の陥穽だったも言える。

ここの考察が、興味深い。
https://young-germany.jp/2018/07/goebbels/

まえがき(トーレ・D.・ハンゼン)
「私たちは政治に無関心だった」―一九三〇年代ベルリンでの青春時代
「ヒトラーはともかく、新しかった」―国営放送局へ
「少しだけエリートな世界」―国民啓蒙宣伝省に入る
「破滅まで、忠誠を」―宣伝省最後の日々
「私たちは何も知らなかった」―抑留と、新たな出発
「私たちに罪はない」―一〇三歳の総括
ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか(トーレ・D.・ハンゼン)
謝辞
『ゲッペルスと私』刊行に寄せて(石田勇治)
原注
索引

ブルンヒルデ・ポムゼル/著
トーレ・D.・ハンゼン/著
石田勇治/監修
森内薫/訳
赤坂桃子/訳
紀伊國屋書店
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011600

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2020年8月10日 (月)

沈黙の子どもたち 軍はなぜ市民を大量殺害したか

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昨年入手してあったが、1年温め続けたので、8月6日を過ぎ15日を迎える前に、読む。

「はじめに──合理性と不条理の融合が生んだ市民の大量死」でドイツ軍人法の「非人道的な命令を軍人が拒絶しても罪に問わない」(P.8)規定について、そして「最終章 戦後の反省──ドイツと日本は、市民大量殺害とどう向き合ったか」でも『ドイツ連邦軍における「抗命権」とは』(P.266)が書かれているので、軍人法の関連規定の条文を引用しておこう。
軍人法(Gesetz über die Rechtsstellung der Soldaten)
§ 6 Staatsbürgerliche Rechte des Soldaten(市民と同じ公民権を有する規定)
Der Soldat hat die gleichen staatsbürgerlichen Rechte wie jeder andere Staatsbürger. Seine Rechte werden im Rahmen der Erfordernisse des militärischen Dienstes durch seine gesetzlich begründeten Pflichten beschränkt.
https://www.gesetze-im-internet.de/sg/__6.html
§ 11 Gehorsam(抗命権規定)
(1) Der Soldat muss seinen Vorgesetzten gehorchen. Er hat ihre Befehle nach besten Kräften vollständig, gewissenhaft und unverzüglich auszuführen. Ungehorsam liegt nicht vor, wenn ein Befehl nicht befolgt wird, der die Menschenwürde verletzt oder der nicht zu dienstlichen Zwecken erteilt worden ist; die irrige Annahme, es handele sich um einen solchen Befehl, befreit den Soldaten nur dann von der Verantwortung, wenn er den Irrtum nicht vermeiden konnte und ihm nach den ihm bekannten Umständen nicht zuzumuten war, sich mit Rechtsbehelfen gegen den Befehl zu wehren.
https://www.gesetze-im-internet.de/sg/__11.html

あわせて、抵抗権を定めたドイツ基本法第20条も、引用しておく。
ドイツ基本法(Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland)
Artikel 20 [Grundlagen staatlicher Ordnung, Widerstandsrecht]
(4) Gegen jeden, der es unternimmt, diese Ordnung zu beseitigen, haben alle Deutschen das Recht zum Widerstand, wenn andere Abhilfe nicht möglich ist.
https://www.bundestag.de/parlament/aufgaben/rechtsgrundlagen/grundgesetz/gg_02-245124

本書でとりあげられたところについて、スペイン、ポーランド、シンガポールには行ったことはないので省くとして、まず、「第二章 上海・南京/中国──兵站軽視と疑心暗鬼が生み出した市民の大量死」。
上海には行っているが、戦争は意識しておらず、戦争にかかわるものは見ていない。
南京には行っていないが、重慶には行き、日中戦争時代に重慶が中国の臨時首都だったとき、紅岩村の、中国共産党代表部でその後記念館となった建物が黒く塗られていたのは、空を飛ぶ爆撃機から目立たないようにするためだと聞いた。

「リディツェ」の市民の大量殺害については、本書の「主要参考文献」にはないが、早乙女勝元さんの「プラハの子ども像」がある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/post-da27.html
リディツェ虐殺という報復が行われることとなったのは、独占領下ベーメン・メーレン保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒ暗殺があったからだが、暗殺(このときは殺害されておらず、入院後死亡)のあと実行した亡命チェコ人たちグループがかくまわれ自決した聖キリルと聖メトドゥース教会(Kostel svatých Cyrila a Metoděje)には、行ってきた。
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ゲシュタポに包囲されたグループのメンバーが自決した地下室は、「ハイドリヒの英雄記念国立記念館(Národní památník hrdinů heydrichiády)」になっているが、その日は閉まっていた。
銃弾の穴が残る壁面に、花が置かれた碑がある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-0690b3.html

沖縄本島には何度か行ったが、戦争にまつわるところは、南部の戦跡に定期観光バスで訪れただけだ。

広島、長崎には何度か行っている。
最近の広島行きは昨年で、平和公園を歩いた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/20191123.html
平和公園には、2017年にも行っている。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/diamond-prin-10.html
このときは、江波に行ったのだった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/diamond-princ-8.html

長崎は、2018年の如己堂、2017年の平和公園など。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-65af.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/diamond-prin-19.html

広島と長崎の原爆投下をめぐっての、「米軍の日本本土上陸を回避して数十万あるいは百万人のアメリカ兵を救うためだった」(P.233)の信憑性については本書でも取り上げられている(P.252)が、8月5日、ロサンゼルス・タイムズ紙に「U.S. leaders knew we didn’t have to drop atomic bombs on Japan to win the war. We did it anyway」との記事が出た。
https://www.latimes.com/opinion/story/2020-08-05/hiroshima-anniversary-japan-atomic-bombs

戦前戦後の、広島と長崎の地図を載せておこう。
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広島
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長崎
さまざまな年代の地図を、『時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」』から確認できる。
http://ktgis.net/kjmapw/index.html

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赤旗日曜版の書評。

はじめに──合理性と不条理の融合が生んだ市民の大量死
第一章 ゲルニカ/スペイン──市街地へのじゅうたん爆撃による市民の大量死
第二章 上海・南京/中国──兵站軽視と疑心暗鬼が生み出した市民の大量死
第三章 アウシュヴィッツ/ポーランド──人間の尊厳を否定された市民
第四章 シンガポール/シンガポール──軍司令部の命令による市民殺害
第五章 リディツェ/チェコ──ナチ要人暗殺の報復で行われた市民の大量殺害
第六章 沖縄/日本──「国を守る」はずの自国の軍人に殺された市民の大量死
第七章 広島・長崎/日本──歴史上ただ二つの核攻撃による市民の大量死
最終章 戦後の反省──ドイツと日本は、市民大量殺害とどう向き合ったか

山崎雅弘/著
晶文社
https://www.shobunsha.co.jp/?p=5375

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2020年8月 6日 (木)

Der Weg zur Republik__Die Presse Geschichte Magazin

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今日は、広島の日。
「共和国への道」、1918年の第一次世界大戦の敗北による帝国の終焉と共和国の誕生、そして1938年のアンシュルス(合邦)による共和国の消滅までの20年の歴史を描く。
以下の目次を見れば、どのような内容が書かれているのか、ある程度わかる。

この王朝
 オーストリア・ハンガリーは運命の帝国だったのか?
 1918:オーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊
最後の救助の試み
 皇帝カールのハプスブルク帝国の連邦化の申し出が届いた。
 1918年10月16日:皇帝宣言「我が忠実なオーストリア国民へ!」
崩壊と始まり
 ハプスブルク家の君主制が終了で、共和国が形成された。
 1918年10月30日:ドイツ・オーストリア国会は政府の設立を発表した。
苦い終焉まで
 1918年は、皇后に関する噂や噂話が飛び交う中傷キャンペーンの年だ。
 1918年11月11日:「私は国事には一切の利害関係を放棄する」(皇帝カール1世)
シェーンブルンその後
 宮殿は国有地となり、戦争孤児が住む。
 1918年11月12日:皇帝カール一家がシェーンブルン宮殿を出て行く
カフカと革命
 フランツ・カフカは、プラハに新国家が誕生したとき、ベッドの上で重病に倒れていた。
 1918年10月28日:プラハのヴァーツラフ広場でチェコスロバキア共和国が宣言される。
「彼らはお互いを憎む」
 スロベニア、クロアチア人、セルビア人、そしてユーゴスラビア主義の夢。
 1918年12月1日:セルビア、クロアチア、スロベニアの王国が設立された。
軍は解散する
 オーストリア-ハンガリーの兵士たちは4年間戦っていた。
 1918年11月3日:オーストリアとイタリアの間の停戦協定が署名された。
共和国宣言
 新国家の正式な建国にはまだ儀式的な行為が必要だ。
 1918年11月12日:国会前でドイツ・オーストリア共和国を宣言。
革命?
 オーストリアは古典的な意味での革命を経験していない。
 1918年10月/11月:無血の移行が助け合う。
国の領土のために戦う
 この新しい国の境界線はどこにあるのだろうか?
 1920年10月1日:ブルゲンラントの統合。
 1920年10月10日:ケルンテンで国民投票。
合邦理念
 ドイツへの併合という考えは、小国オーストリアの万能薬になる。
 1918年19年:小さな国は、経済的には生き残れないと考えている。
革命の妖怪
 赤衛兵が恐れられ、ブルジョアジーは死後硬直状態が続いている。
 1918年11月:ロシアではボリシェビキが支配している。オーストリアではもうすぐ?
復帰を残念に思う
 囚われの身と兵士たちのトラウマ。
 1918年19年:ロシアからの帰国者は歓迎されているとは思えない。
創設者の死
 ビクトール・アドラーは共和国の宣言を見るまで生きていない。
 1918年12月11日:社会民主労働党のビクター・アドラー委員長が死去。
妥協のない批評家
 君主制の終わりとともに、カールク・ラウスは彼の根本的な批判が確認されたのを見た。
 1918年19年:「人類の最後の日。5五幕の悲劇」は、「トーチ」の4版に現れる。
パンデミック
 エゴン・シーレは、他の何百万人と同様に、スペイン風邪で死亡した。
 1918年10月31日:エゴン・シーレは28歳でウィーンで死んだ。
借りた解放
 戦争中女性は制度を維持した。
 1914年-1918年:武器産業の女性、ひとり親としての女性。
女性参政権
 それに反対する好奇心旺盛な議論と、それに反対する抗議が増えている-女性参政権。
 1919年2月19日:オーストリアで初めて女性に選挙権が与えられた。
軽蔑される少数派
 ユダヤ人は1918年の共和国を不安視している。
 1918年:ユダヤ人難民がウィーンに群がる。ジークムント・フロイトは共和国を歓迎する。
短命
 新しい民主主義の良い局面は短期間だけ続き、その後に危機が訪れる。
 1918年-1938年:共和国が民主的なのは16年だけで、1938年には消滅している。

Die Presse Verlags-Gesellschaft m.b.H. Co KG
https://shop.diepresse.com/die-presse-shop/geschichte-magazin-der-weg-zur-republik-1

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2020年7月22日 (水)

ドイツ史3 1890年~現在

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山川の「世界歴史大系」の「ドイツ史」全3巻のうちの第3巻で、ドイツの近現代史である。
ちなみに、第1巻は先史~1648年、第2巻は1648年~1890年までである。
1997年の刊行なので、記述もその頃までであるが、あらためてじっくり読んだ。
ドイツ近現代史の基礎的な事項は網羅されているので、ドイツ関連の書籍文献を読んでいて時代背景などを知りたいときに参考書として使える。

P.277に、ゲオルク・エルザーが、1939年11月8日に、ミュンヘンの「ビュルガーブロイケラー」でヒトラーを暗殺しようとしたが失敗した記述がある。
ミュンヘンには、彼を記念した広場があり、そこに行ってきたことがある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-16dc.html
ビュルガーブロイケラーは、現在はガスタイク文化センターになっている。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-72f2.html

第一章 ヴィルヘルム時代
第二章 第一次世界大戦下のドイツ
第三章 ヴァイマル共和国
第四章 第三帝国の編成
第五章 第三帝国と第二次世界大戦
第六章 ドイツ連邦共和国
第七章 ドイツ民主共和国
第八章 統一ドイツ
補説

木村靖二/著
望田幸男/著
芝健介/著
高橋進/著
平島健司/著
斉藤晢/著
山川出版社
https://www.yamakawa.co.jp/product/46140

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2020年7月21日 (火)

AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争

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本書を眺めていて感じたのは、モノクロ写真のカラー化は、映されて写真に固定された対象を、実際に知っているか知らないか、その情景に個人として記憶があるかないかによって、ずいぶん違うのだろうな、ということだ。
本書では、個人的な記憶を思い浮かべることができるであろう情景を撮った写真をカラー化しただけではなく、すでに公表されさまざまな媒体によってみることのできる写真もカラー化されている。
公表された写真のなかには、別のところで着色された状態で見た記憶のあるs多神もある。
このふたつの写真、個人的な情景の写真がカラー化された状態を見るのと、公表されてきた写真がカラー化された状態を見るのとでは、印象に差があるように感じた。

個人的な情景の写真については、『記憶の「解凍」』の字義どおり、その情景の記憶のある人がカラー化された写真を見て記憶が「解凍」されていくことは、ある程度想像できるが、それを「解凍」できる記憶を持っていない者が見るとき、「解凍」という感覚で見ることができるだろうか、ちょっと迷うところだ。
また、公表されていたモノクロ写真そのものに「記憶」がある者が、あらためてカラー化された写真を見て、それを新たに「記憶」として己の中にとどめたいと思うか、なおこれまでのモノクロ写真を「記憶」し続けたいと思うか、時にあえてモノクロで撮影することがある者としては、なんとも微妙なところがある。

モノクロ写真を着色することでは、横浜写真を思い出さなければならない。
横浜写真は、明治期に来日した外国人への土産物や輸出品として、日本の風景・風俗の写真に着色して販売したものなので、実際の色彩だったかどうかはわからないが、少なくとも『記憶の「解凍」』を目的としたものではなかった。
それはそれで味わい深いのではあるが。

マンザナ(本書ではマンザナー、Manzanar)の写真が何葉か収録されている。
ここに、ソフィア岡崎、オトメ天津、サチコ斎藤、リリアン竹内、ジョイス立花がいて、所長とやりあっていたのかと、感無量。
意味は違うが、『記憶の「解凍」』かもしれない。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e1f.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-3a60.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-40de.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0622.html

ページがふられていない。
掲載されている写真についてメモしておこうと思ったとき、ちょっと困った。
巻末に、リスト化されていればよかったかもしれない。

庭田杏珠/著
渡邉英徳/著

光文社
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334044817
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2020年7月11日 (土)

国際歴史教科書対話 ヨーロッパにおける「過去」の再編

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1998年刊行なので、今から読むと時代性は感じる。
刊行以後の、移民の増加、2015年のシリアなどからの難民の流入、イギリスのEU離脱など、ヨーロッパ内だけではすまされない課題に次から次に対応しなければならなくなり、「統一」にクエッションマークがちらちらするいヨーロッパとなってしまっている。
当時の状況について、P.220からP.221にかけて「いまなお民族の過去に自らの存在理由を見出している人々が多数存在していることを示唆してい」て、「旧ユーゴにおける民族浄化戦争、ヨーロッパ全域に蔓延する外国人排斥の動き、アメリカにおけるイングリッシュ・オンリー運動(中略)、そして日本における歴史の修正主義、(中略)それが注目すべき規模にまで発展した」と記述されているのだが、繰り返すが、これは1998年である。
壁が壊れてからの10年は、その後の20年に比べると、まだまだ「これから」を意識することができたのかもしれないが、当時でさえこう書かなければならなかった状況なのだが、著者は、現在の様相をどう記すのだろうか。
そして、いやでも、日中・日韓、そして日本とアジアのことを考えずにで読むことはできない。

冒頭(P.1)で、バートランド・ラッセルの「教育と社会体制」(1932らしい)からの文が引用されているので、ここでも引いておく。
(子どもたちは)自分たちの国家が行った戦争はことごとく防衛のための戦争で、外国が戦った戦争は侵略戦争なのだと思うように導かれる。予期に反して、自国が他国を征服するときは、文明を広めるために、福音の光をともすために、高い道徳や禁制やその他の同じような高貴なことを広めるためにそうしたのだと信じるように教育される。

こうした思いは我が国の憲法の前文にも謳われたはずなのだが、「この崇高な理想と目的を達成すること」はいつの間にか脇に追いやられ忘れ去られてしまったと思わざるを得ないのが、昨今の日々のさまざまなできごとだ。
7月5日、東京都知事は再選され、この人を批判して選挙戦に臨んだ人やその人に想いを託そうとした人たちにとっては残念な結果となってしまったが、それ以上に驚愕だったのは、明白なレイシズムを信条とする候補が前回比1.5倍以上の得票を得たことだ。
その得票数と有効投票数でみると、ざっと34人に1人くらいがこの候補に票を入れたことになる。
「身の回りの100人に1人以上が、私を殺そうと考えているのではないか」と掻いた、在日外国人もいたようだ。
この候補だけでなく、当選した人も根っこにこうした考え方があるのではないかと思うのは、例えば「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に歴代都知事が送ってきた追悼文を取りやめ、さらに今年には公園占有許可を出さないでいることにも見え隠れしているからだ。
前述の候補や当選した人に投票した人たちの、こうした考え方を気にしない、あるいは、もしかしたらそのような考え方に加担しているかのような風潮がこの国を覆っているのかもしれないと考えると、自分たちの歴史に向き合うことができなかった、向かうことをさせなかった戦後史は何だったのかと考えてしまう。
負の歴史に向き合うことを「自虐」としか見ることのできないことのほうがよっぽど「自虐」だと思うのだが、これは本書でも「自国の暗い過去を認める勇気を持つことが、そのような対話の前提となる。そもそも、負の遺産を排除することによって満たされるような国民的な誇りは、誇りという言葉をもって表現すべきないようではないであろう。」(P.214~215)と批判している。
負に向き合うことでエネルギーを費やすよりも、お山の大将でいることを選ぶ方が楽だし心地よいし、「安堵感」を持つことができるのだろう。
P.224に記された著者の考え方は、「民族」第一の考え方の人たちには相当カチンと来ることだろう。

「外国人」との関係をどうとるかについては、他人事ではない。
職場のカウンターには毎日100人前後の人たちが来るのだが、その中には「外国人」もいる。
職場の職員数は50人弱、単純に数字だけを見ると、1人か2人は例の候補に共鳴しているのかもしれないし、そこまでいかなくても、歴史に目を閉ざしても気にしない人が二桁はいる、ということになる。
そうした職員は、ガウンターで「外国人」に向くときに、心の奥底にどのような思いを持っているのだろうか。
カウンターで「外国人」にどのように接するか、あるいは「外国人」との共生について、職員に対する研修は、特別にはない。
人権研修のなかでまとめているのだろう。

P.11に引用されている、ダッハウで亡くなったラピエールの言葉。
人類の過ちは忍耐力がないこと、努力のあとすぎに効果を期待することにある。人類の進歩は一世代で達成されるものではなく、長い歴史のなかで達成されるものである。
地道に続けていくしかない、続けるべきだ、ということだろう。

「ドイツ・フランス共通歴史教科書」は、読んだ。
ドイツ・フランス共通歴史教科書【近現代史】 ウィーン会議から1945年までのヨーロッパと世界(2016年刊行)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/1945-0266.html
ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 1945年以後のヨーロッパと世界(2008年刊行)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/1945-9c1f.html

まえがき
序章 歴史教科書への問いかけ
第一部 過去の克服と教科書対話
 第一章 戦後ドイツにおける対話の再開
 第二章 鉄のカーテンを越えて―ドイツ・ポーランド教科書対話
 第三章 ドイツ・ポーランド教科書勧告の反響
第二部 ヨーロッパの統合と歴史教育
 第四章 歴史教育における“ヨーロッパ”への取り組み
 第五章 ヨーロッパの歴史?
 終章 国家観の変容と歴史の課題
あとがき
参考文献

近藤孝弘/著
中央公論社

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2020年7月 9日 (木)

In this corner of the world/この世界の片隅に 独語版 1 2 3

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「この世界の片隅に」上中下の、ドイツ語訳である。
タイトルがなぜ英語なのかは謎だが、すでにこの英語のタイトルで知られていたからなのかもしれない。
語り言葉の言い回しは、こんなふうなのかなと。

190816_2
「お世話になったおもな方々」「呉について」「広島について」「補足」「時代について」「あとがき」も、訳されている。
そして巻末に、用語の説明が付いている。
1巻:31項目
2巻:32項目
3巻:37項目
たとえば3巻最終場面で「DDTをまぶして貰うたらええわ」というセリフがあるが(独語:Die können sie mit DDT absprühen.)、この「DDT」に「*」がついていて、巻末の説明では、次のように書かれている。
DDT, Dichlordiphenyltrichlorethan, ist ein starkes Insektizid. Die Besatzungstruppen sprühten dieses zur Verbesserung der Hygienezustände direkt auf die Haut. Heutzutage ist der Einsatz von DDT in Japan, Deutschland und den meisten anderen Ländern der Erde verboten.

190816_3
von Fumiyo Kouno
übersetzt von Cordelia von Teichman
Carlsen Verlag GmbH
https://www.carlsen.de/softcover/in-this-corner-of-the-world-1/93662
https://www.carlsen.de/softcover/in-this-corner-of-the-world-2/93676
https://www.carlsen.de/softcover/in-this-corner-of-the-world-3/96242

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2020年7月 3日 (金)

オーストリア・スイス 現代史

20200624_001
今から35年前の1985年、東欧革命より前の刊行なので、冷戦を背景とした歴史的な文献と言えるのかもしれない。
したがって、クルト・ヴァルトハイムは国際連合事務総長(1972年1月~1981年12月)として登場するが、1986年7月8日から1992年7月8日までの大統領であったことや戦前に突撃隊に所属していたことは、出てこない。
いまの大統領が緑の党出身であることなどは、当時は想像もできなかっただろう。

P.50の写真のキャプションは「暗殺直前のオーストリア皇太子夫妻」、そしてP.51に「一九一四年六月オーストリア皇太子夫妻がサライェボでボスニアの一青年に暗殺された・・・」とあるが、暗殺されたフランツ・フェルディナントはオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者(Thronfolger)と呼ばれるが、皇太子(Kronprinz)とは呼ばれないはず。

「国家喪失期のオーストリア」中、P.140からアンシュルス下のオーストリアの抵抗に触れているが、先日読んだ「Österreicher im zweiten Weltkrieg」でも、「ÖSTERREICHER IM WIDERSTAND / 抵抗するオーストリア人」と抵抗運動がとりあげられ、社会民主主義者、共産主義者、個人、カトリックなどの運動が紹介されていた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-dca8ed.html

そして、アンシュルスのもとで、SPÖもÖVPともに収容所に囚われたり抵抗運動を行なっていたことが相互理解をすすめ、。戦後の「大連立」時代を形作ったが、その経験は、21世紀には伝えられているのだろうか。

スイスとなると、政治的な歴史はほとんど知らないことがわかる。
婦人参政権が1971年と遅かったことは有名だが、それ以外の政治状況となると、1847年に内戦があったこと(P.279)、その後紆余曲折を経て1874年憲法が制定され、本書刊行当時もベースであったこと(現在は1999年憲法)、政治的にはかなり保守的であること(反動的と言ってもいいかもしれない)、は知らなかったし、ウィリアム・テル伝説や「永世中立」が一人歩きしてしまっているようだ。
「一国」としてのスイスは、かなり綱渡りの歴史だったようだ。
2002年9月10日に国民投票の結果を受けて国連に加盟したが、本書では当然触れられていない。

オーストリアとスイス
オーストリア
 ハプスブルク帝国期のオーストリア
 第1共和国の成立
 第1共和国の没落と合邦
 国家喪失期のオーストリア
 占領下のオーストリア
 独立と第二共和制の発展
スイス
 スイス連邦の成立まで
 スイス連邦の発展
 大戦間のスイス
 現代のスイス

矢田俊隆/著
田口晃/著
山川出版社
https://www.yamakawa.co.jp/product/42250

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