戦争・平和関連

2020年7月 3日 (金)

オーストリア・スイス 現代史

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今から35年前の1985年、東欧革命より前の刊行なので、冷戦を背景とした歴史的な文献と言えるのかもしれない。
したがって、クルト・ヴァルトハイムは国際連合事務総長(1972年1月~1981年12月)として登場するが、1986年7月8日から1992年7月8日までの大統領であったことや戦前に突撃隊に所属していたことは、出てこない。
いまの大統領が緑の党出身であることなどは、当時は想像もできなかっただろう。

P.50の写真のキャプションは「暗殺直前のオーストリア皇太子夫妻」、そしてP.51に「一九一四年六月オーストリア皇太子夫妻がサライェボでボスニアの一青年に暗殺された・・・」とあるが、暗殺されたフランツ・フェルディナントはオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者(Thronfolger)と呼ばれるが、皇太子(Kronprinz)とは呼ばれないはず。

「国家喪失期のオーストリア」中、P.140からアンシュルス下のオーストリアの抵抗に触れているが、先日読んだ「Österreicher im zweiten Weltkrieg」でも、「ÖSTERREICHER IM WIDERSTAND / 抵抗するオーストリア人」と抵抗運動がとりあげられ、社会民主主義者、共産主義者、個人、カトリックなどの運動が紹介されていた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-dca8ed.html

そして、アンシュルスのもとで、SPÖもÖVPともに収容所に囚われたり抵抗運動を行なっていたことが相互理解をすすめ、。戦後の「大連立」時代を形作ったが、その経験は、21世紀には伝えられているのだろうか。

スイスとなると、政治的な歴史はほとんど知らないことがわかる。
婦人参政権が1971年と遅かったことは有名だが、それ以外の政治状況となると、1847年に内戦があったこと(P.279)、その後紆余曲折を経て1874年憲法が制定され、本書刊行当時もベースであったこと(現在は1999年憲法)、政治的にはかなり保守的であること(反動的と言ってもいいかもしれない)、は知らなかったし、ウィリアム・テル伝説や「永世中立」が一人歩きしてしまっているようだ。
「一国」としてのスイスは、かなり綱渡りの歴史だったようだ。
2002年9月10日に国民投票の結果を受けて国連に加盟したが、本書では当然触れられていない。

オーストリアとスイス
オーストリア
 ハプスブルク帝国期のオーストリア
 第1共和国の成立
 第1共和国の没落と合邦
 国家喪失期のオーストリア
 占領下のオーストリア
 独立と第二共和制の発展
スイス
 スイス連邦の成立まで
 スイス連邦の発展
 大戦間のスイス
 現代のスイス

矢田俊隆/著
田口晃/著
山川出版社
https://www.yamakawa.co.jp/product/42250

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2020年6月17日 (水)

夜・夜明け・昼

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アメリカでの差別と抵抗のみならず、この国での「差別」や「排除」を思いながら、読む。

ナチス・ドイツの時代、イスラエル建国直前の時代、建国後の朝鮮戦争後の時代。
それぞれの登場人物は別人(ただし名前は、「夜」のエリエゼル、「夜明け」のエリシャ、そして「昼」でふたたびエリエゼル)だが、共通するような経験を持っているようだ。
けれども、リアルな経験は次第に「死」と隣り合わせの幻想化された経験となっていく。

抑圧からの解放の歴史は、その後のさまざまな国々でも繰り返されてきた。
その歴史のなかに生きた人の苦難の体験も、本書の登場人物の経験と重なるのだろうか。

序文は、フランソワ・モーリアック。
現在は「夜」の新版が出ている。
https://www.msz.co.jp/book/detail/07524.html

エリ・ヴィーゼルは、1986年にノーベル平和賞を受賞した。
ただし、ヴィーゼルに対しては、パレスチナのハマスを批判しイスラエルを擁護したことへの批判があった。

エリ・ヴィーゼル/著
村上光彦/訳
みすず書房

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2020年6月13日 (土)

DDR Volksmarine Kampfschiffe 1949-1990

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2010年刊行の、東独海軍の装備カタログである。
東ドイツにとっての海はバルト海だけだから、基本的には沿岸警備ということになるのだろう。
そして、逃亡者監視が人民海軍の任務でもあった。

それにしても、揚陸船があったことにびっくり。
旧東ドイツが面していた海はバルト海だけで、どこの海岸に上陸作戦を行おうと考えていたのかしら。
ワルシャワ条約機構軍の一員としてバルト海より西側の海に出ようにも、デンマークとスウェーデンの間を抜けていくことは、相当困難だろうに。
巻末に年表があるのが興味深い。

目次を日本語にしてみたが、不正確かもしれない。

はじめに
用語集/略語
フリーゲート
沿岸警備 50型(リガ級)
沿岸警備艇 1159型(コニ級)
コルベット駆潜艇
 潜水艦防衛船 133.1型(パルチン級)
駆潜艇
 駆潜艇 201M型(SO-1級)
 駆潜艇 12.4M型(ハイ級)
ミサイル高速艇
 ミサイル高速艇 205型(オサ-I級)
 小型ミサイル船 1241RÄ型(タランタル-I級)
 ミサイル高速艇 151型(バルコム-10級)
高速魚雷艇
 高速魚雷艇 183型(P-6級)
 高速魚雷艇 206型(シェルシェン級)
 軽高速魚雷艇 63/イルティス型(イルティス-A級)
 軽高速魚雷艇 68/ヒドラ型(イルティス-B級)
 小型高速魚雷艇 131型(リベレ級)
揚陸船
 上陸用舟艇 46型(ラボ−100級)
 中型揚陸船 47型(ロッベ級)
 中型揚陸船 108型(フロッシュ-I級)
 戦闘供給船 109型(フロッシュ-II級)
機雷敷設船/掃海艇
 掃海艇 R218型(511級)
 掃海艇 8型(シュヴァルベ級)
 機雷敷設船と掃海船 1型(ハビフト級)
 機雷敷設船と掃海船 15型(クラーケ級)
 掃海艦 89.1型(コンドル-I級)
 掃海艦 89.2型(コンドル-II級)
監視船
 沿岸警備艇 沿岸警備艇I/II(シュペルバー級)
 港湾警備船 デルフィン型(デルフィン級)
 沿岸警備艇 ティムラー型I/II(ティムラー級)
訓練船
 訓練艇 フュルステンベルクとプレンツラウ 2型
 訓練艇 WB26 5型(FLB-V級)
 訓練艇 エルンスト・テールマン 3型
 訓練船 ヴィルヘルム・ピーク 888型(ウォドニック級)
偵察船
 観測船 水理学(オケアン級)
 小型偵察船 115型(コンドル級)
 偵察船 ヤスムント 602.137型(ダース級)
海上航空隊
 多目的ヘリコプター Mi-4A(ホウンド)
 UAW-ヘリコプター Mi-4M(ホウンドB)
 輸送ヘリコプター Mi-8T(ヒップ)
 戦闘ヘリコプター Mi-8TB(ヒップE)
 UAW-ヘリコプター Mi-14PL(ハゼA)
 MAW-ヘリコプター Mi-14BT(ハゼB)
 戦闘爆弾機 Su-22M4(フィッターK)
 訓練戦闘機 Su-22UM3K(フィッターG)
年表
海軍組織

Knut Schäfer/著
Motorbuch Verlag
https://www.motorbuch-versand.de/product_info.php/info/p4435_DDR-Volksmarine.html

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2020年5月30日 (土)

Österreicher im zweiten Weltkrieg / Krone Magazin Geschichte

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「第二次世界大戦のオーストリア人」、タイトルのとおり、第二次世界大戦下のオーストリア人のさまざまな経験が特集されている。
ÖSTERREICHER BEI DER WEHRMACHT(国防軍のオーストリア人)では、いろいろな映画などで描かれる「ドイツ軍」のなかには、オーストリア出身の兵士や将校たちがいたのかもしれない、いたはずだと、改めて考えた。
だとしたら、占領地での「ドイツ軍」の行為は、もしかしたら「オーストリア人」の行為だったのかもしれない、ということだ。
また、ドイツ国防軍の約2000人の将軍のうち、121人がアンシュルス後オーストリア軍から配置されたようだが、きっとここにトラップ大佐佐(トラップ氏はKorvettenkapitän=海軍少佐あるいはKapitän=艦長であって海軍大佐ではないのだが、"Kapitän"と呼ばれたことが、"Captain"=大佐と混同されたらしい))も呼ばれた、ということだろう。

そして、オーストリア人の「抵抗」についてもページを割いている。
これは、日本の文献ではあまり触れらられることはないようだが、対独レジスタンスの「戦死」あるいは「処刑」された人びとの確認可能数は(中略)オーストリアで一万八八〇〇」(「ドイツ史 3」、1997年、山川出版社、P.305)とあって、1938年3月12日のアンシュルス後の1938年4月10日の選挙で99.73%の賛成票であっても、それを是としない人たちが多くいたのだろう。

また、子供たちや若者のナチス・イデオロギーへの取り込みについても書かれている。

86ページの爆撃されている写真は、ウィーンの南ウィーナー・ノイシュタット、1911年にオーストリアで初めて飛行機が飛んだ飛行場がある。
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Wiener Neustädtの歴史
https://www.wiener-neustadt.at/de/stadt/geschichte

最後に、シュテファン寺院の再建についての記事がある。
シュテファン寺院の火災についてはこれまでも知ることができていたが、1945年4月10日にソ連軍とドイツ国防軍との「ウィーンの戦い」の最中、シュテファン寺院から白い旗が掲げられたこと、その報復としてシュテファン寺院の破壊を命じられたドイツ国防軍大尉が命令を拒否したことは、本書で初めて知った。
2019年にウィーンに行ったときにj、シュテファン寺院周辺では、修復のパネル展示が行われていた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-642d97.html

IMPRESSIONEN / 印象
写真での第二次世界大戦の道
ÖSTERREICHER BEI DER WEHRMACHT / 国防軍のオーストリア人
インタビュー:軍事史家M.クリスチャン・オルトナー
MUTTERKREUZ UND ARBEITSDIENST / 母親十字章と勤労奉仕
国家社会主義時代の女性の生活
HILERS "SOLDATEN DER ARBEIT" / ヒトラーの労働戦士
インタビュー:大学教授ローター・ホーベルト
「主要な要因としての反ユダヤ主義」
インタビュー:系図学者ゲオルク・ゴーグシュ
ZEITLEISTE ZWEITER WELTKRIEG / 第二次大戦年表
戦争の勃発からゼロ時まで
WER WAR IN DER PARTEI? / 党に参加したのは誰?
インタビュー:弁護士で歴史家のマイケル・ウラディカ
ÖSTERREICHER IM WIDERSTAND / 抵抗するオーストリア人
抵抗運動と抵抗戦士
"PIMPF" UND "JUNGMÄDEL" / 「少年」と「少女」
国家社会主義の子供時代
LUFTKRIEG ÜBER ÖSTERREICH / オーストリアの空中戦
連合国の爆撃機編隊の攻撃対象としてのオーストリア
SCHLACHT UM WIEN / ウィーンの戦い
赤軍はどのように数日でウィーンを占領したか
DER WIEDERAUFBAU BEGINNT / 再建が始まる
シンボルとしての聖シュテファン大聖堂の再建

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2020年5月22日 (金)

記憶せよ、抗議せよ、そして、生き延びよ 小森陽一対談集

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コロナ禍のさなか、「記憶せよ、抗議せよ、そして、生き延びよ」のフレーズが賑わった。
ということで、このタイトルの本書を読む。
2本書でも出てくる(P.19)のだが、2004年に著者が遅筆堂と対談したときに、遅筆堂からこの「記憶せよ、抗議せよ、そして、生き延びよ」が出てきたのだが、これは遅筆堂のオリジナルではなく、エドワード・トムソンの「抗議せよ、そして、生き延びよ」に遅筆堂が「記憶せよ」を加えたのだそうな。

本書で著者は、映画を切り口に八人の人たちと対談している。
語りの題材としての映画を知っているか対談相手を知っているときは、対談の進んでいく様子が理解できるのだが、知らない人や知らない映画だと、対談を読んでいても落ちてこない、当たり前だが。

気になったところのメモ(引用ではない)、括弧内は「対談相手/当該文言の発言者」。
自己責任論を打ち出した人たちにあるはずの罪悪感、罪悪感にフタをして自分たちは正しいと自己正当化するときに、「お前らが悪かったのだというふうに被害者である人たちに責任を擦り付けていく」(P.24、井上ひさし/小森)
大江健三郎の、「憲法九条と教育基本法の前文には「希求」という耳慣れない言葉がある」(P.56、黒木和雄/小森)
日本國憲法と教育基本法前文を書いておく。
・第九條 日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し、國權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(第2項は省略)
・(前略)我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。(後略)
自民党は、防衛庁・自衛隊を認めるために九条を変えようという改憲政党として誕生、総裁が総理大臣、でも総理大臣になると憲法九九条によって憲法を守らなければなたない、だから自民党に入り国会議員になると必ずウソ付きになる。(P.87~88、渡辺えり/小森)
まだ何も決まっていない高校生たちは、かなり真剣に考えている。(P.108、渡辺えり/小森)
この対談は2004年、その後「高校生」たちはどうしたか。
安全保障関連法の論議があった2015年のSEALDsのメンバーたちは、対談のときの「高校生」たちよりもあとの世代だろう。
飲み屋のおっちゃんの論議(P.165、井筒和幸)や配管工のおっちゃんの話。(P.166、井筒和幸/小森)
高校生のときの、文化祭の展示で「国連」をテーマにしたことがあったっけ。
ニューミュージックが個人的な世界に入っていく、私小説。(P.177、井筒和幸/井筒と小森)
きわめつけは、さだまさしだろう。
特にLP「随想録」で、そう思った。

間違いさがし。
「AIPEC」(P.107)とあるが、注で「APEC」とあるとおり。(Asia Pacific Economic Cooperation)。
「ダグラス・スミス」(P.133の写真キャプション)は、注で「ダグラス・ラミス」とあるとおり。

井上ひさし
黒木和雄
渡辺えり
ジャン・ユンカーマン
井筒和幸
高畑勲
班忠義
山田洋次
あとがき

シネ・フロント社

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2020年5月20日 (水)

ベトナム凛と 大石芳野写真集

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本書は20年前の刊行で、最初は図書館で読んだのだと思う。
去年、同じ著者の「戦禍の記憶 大石芳野写真集」を読んだのだが、原点である本書は、どうしても、所持しておきたかった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-5123ad.html

本書に収録荒れている写真は、1980年代からミレニアムまで、必ずしも年代順では無いが、その約20年のベトナムの変化もわかる。
それから現代までの20年間は、より速度の速い変化があったのだろう。
ベトナムに行って、ハノイ→フエ→ホーチミンと縦断したのは、20世紀が終わりになろうとする頃で、ベトナム解放25周年の直前だった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/vietnam-report.html
82年のクアンチ省の写真(P.133)に破壊された米軍戦車が写っている。
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省都のドンハに行ったが、道端に打ち捨てられた戦車の残骸は、まだあった。
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そして、82年のヒエルオン橋の写真(P.134)があるが、新しい橋はまだ架けられていない。
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クチ(P.139)。
当時のサイゴンの北西約70km、ここにNFLがトンネルを掘り米軍の爆撃に耐えながらゲリラ戦を展開していた。
フエの王宮(本書ではP.248~、89年代~90年代)では、おそらく枯葉剤を原因としたのだろうと思える障害者もいて、王宮に来る観光客相手の写真屋さんをやっていた。
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フエの王宮は、弾痕がたくさん残っていた。
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ティエン・ム寺(P.253、P.255)も行った。

序景
輝く瞳 子どもたち
都市の暮らし
豊かな食菜
実り多い田園の暮らし
戦争の傷跡
‘80年代の初めごろ
枯れ葉剤ダイオキシンの被害
明日に向かって
祈り
新しい潮流
ベトナムと大石芳野さん 日野啓三(作家)
わが内なるベトナム 大石芳野
ベトナム年表・地図

講談社
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2020年5月13日 (水)

Austro-Hungarian Cruisers and Destroyers 1914–18

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タイトルは「オーストリア・ハンガリーの巡洋艦と駆逐艦 19194-1918」、第一次世界大戦期の巡洋艦と駆逐艦の英語のブックレットである。
ウィーンの軍事史博物館で買ってきた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-a344d8.html

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世級防護巡洋艦は、「皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Kaiser Franz Joseph I)」と「皇后エリーザベト(Kaiserin Elisabeth)」の二隻で、「皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Kaiser Franz Joseph I)」は戦後回航途中に座礁沈没してしまった。
一方、「皇后エリーザベト(Kaiserin Elisabeth)」は青島に派遣されていて、青島のドイツ軍とともに日本軍と戦い、ドイツ銀行服の前に1914年11月2日に自沈処分された。
この艦は日本との因縁浅からぬものがあり、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が日本に来たときに乗船していた、横浜開港50周年記念祝典に参列するなど、何度も親善訪問している。
以前、まとめたことがある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/kaiserin-elisab.html
本書では、こうした経緯は書かれていない。

はじめに
二重帝国海軍の巡洋艦と駆逐艦
・皇帝フランツ・ヨーゼフ1世級防護巡洋艦
・SMS(Seine Majestät Schiff、皇帝陛下の艦)皇后にして国王マリア・テレジア
・ツェンタ級防護巡洋艦
・SMS皇帝カール6世
・SMSザンクト・ゲオルク6世
・フサール級駆逐艦
・SMSアドミラル・シュパウンとノヴァーラ級軽駆逐艦
・タトラ級とトリグラフ級駆逐艦
二重帝国海軍の巡洋艦と駆逐艦の第一次世界大戦での作戦
・アドリア海への最初の連合軍の前進を阻止する
・アドリア海北部および中央部の保護
・アドリア海南部の保護
・ロンドニ岬/ガルガーノの戦い、1915年12月28〜29日
・オトラント海峡
・オトラント海峡海戦、1917年5月14〜15日
・戦争の最終年
結論
書誌
索引

Ryan K.Noppen/著
Paul Wright/イラスト
Osprey Publishing
https://ospreypublishing.com/austro-hungarian-cruisers-and-destroyers-1914-18

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2020年4月23日 (木)

鉄道のドイツ史 帝国の形成からナチス時代、そして東西統一へ

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「鉄道のドイツ史」であって「ドイツの鉄道史」ではない。
鉄道をめぐる、ドイツの経済史であり社会史である。
以前「ハプスブルク帝国の鉄道と汽船」を読んだことがあって、そのドイツ版かと思ったのだが、違った。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-b7bc.html

「ドイツ」といっても、その実態は時代によって大きく変わるので、著者は「ドイツ語圏」と表現しているようだ。
ドイツに鉄道が開通したのは1835年、当時はオーストリア帝国、プロイセン王国、4のの帝国自由都市(リューベック、フランクフルト、ブレーメン、ハンブルク)その他の領邦からなる「ドイツ連邦」は存在していたが、統一された「ドイツ」という国はまだ登場していない。
その「ドイツ連邦」、普仏戦争で成立した「ドイツ帝国」、第一次世界大戦後の「ヴァイマル共和政のドイツ」、さらに第二次世界大戦後の東西ドイツ、1990年の再統一後のドイツ、それぞれの領土は、絶えず動いていた。
その「ドイツ」のつかみどころのなさを、本書「鉄道のドイツ史」でどのように伝えているか。
例えば、目次を見たところ、本書の記述は経年的になっているように思うのだが、実際は、各章の中でも歴史的に記述されていて、ある章からある章に移ったときに、前章の時代から記述が続いているわけではなく、再び以前の時代に戻り別のテーマで記述される。
そのテーマも多様だし、「ドイツ鉄道」とは直接関係のなさそうな記述も出てくる。
ドイツの鉄道は、最初から単一の「ドイツ鉄道」として発展してきたのではないことから、本書のテーマが多様さに満ちてしまうのは当然なのだが、ある意味では、本書そのものが、著者が伝えたい「ドイツ」のつかみどころのなさを表すことになったのだろう。

このことからか、本書の構成は、「ドイツ語圏」にある様々な国・領邦のそれぞれの産業の発展と諸国間の関係や鉄道へのかかわり、1871年の、プロイセン国王ヴィルヘルム1世をドイツ帝国皇帝とした統一国家を経ての鉄道、戦争、戦間期、そして戦争、東西分裂と再統一といった鉄道をめぐる190年ほどの歴史のなかで、1848年革命までが約半分、ライヒスバーンの成立(1920年)までの約90年についての記述が本書の三分の二以上のページを占めることになっている。
そのためか、WWIでの様子はあっけないほど少ないし、ライヒスバーン設立後の記述、WWII以後の記述も少ないように思う。
DDR時代の国鉄は「DR(Deutsche Reichsbahn)」との名称を使っていたが、帝国時代ナチス時代からの「Reich」をそのまま使用し続けたことにも触れている(P.254)のが興味深い。

P.141に、「一九八〇年代以降の欧米やそれに触発されたわが国のドイツ「三月革命」史研究が、従来の思考の固い枠組みを離れて着目したのは、もちろん市民ならざるものたちであった」という記述があり、続いて『「乱痴気」「向こう岸」といった印象的な単語が「三月革命」史に登場したとき、私たちの司会は一気に広がった』とある。
「乱痴気」「向う岸」と言えば、「青きドナウの乱痴気」「向う岸からの世界史」だろうし、良知力氏の名前が思い出される。
「乱痴気」「向う岸」もドイツ「三月革命」と同じ一八四八年革命の流れでの、ウィーンでの様相を言い表しているので、参考文献には出てきていない。
著者とは世代は異なるが、どこかで繋がりがあったのだろうか。

P.171に、ライプツィヒ-ドレスデン鉄道が1839年に全通したとの記述があるが、この路線は2018年にライプツィヒからドレスデンまで、ICEに乗って約1時間で走った。
そのときは、そんな古い歴史のある路線であることは、知らなかった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/8_5-von-leipzig.html

ドイツを鉄道で移動すると、大きな街からの出発であっても、列車はすぐに都市ではないところを走る。
都市、街、村は、それぞれが独立して存在している。
そうした景色を思い浮かべながら本書を読むと、つかみどころのない「ドイツ」の鉄道が、どのように現在の姿になったのかのイメージもつかめるように思う。

序章 ドイツ鉄道史ひと筆がき―「本書の構成」に代えて
第1章 鉄道建設の背景―ドイツをもとめて
第2章 鉄道時代のはじまり―一九世紀初頭~一八三〇年代
第3章 初期鉄道建設の担い手たち―一八三〇~四〇年代
第4章 鉄道の一九世紀ドイツ経済史
第5章 ドイツ的な、あまりにドイツ的な?―国家官僚制と鉄道
第6章 鉄道技師の世界、あるいは怪人vs役人
第7章 幕が下りてから―一八四八・四九年革命とその後
第8章 ドイツ・ライヒの鉄道
第9章 国際化と戦争と
第10章 共和国からナチス・ドイツへ―一九二〇年代後半~一九四五年
第11章 「時流が厳しく分けたもの」―二〇世紀後半のドイツ国鉄
終章 過去と未来の鉄道

鴋澤歩/著
中央公論社
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/03/102583.html

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2020年4月16日 (木)

ベトナム戦争と私 カメラマンの記録した戦場

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ベトナム戦争と私自身の成長期とは重なるので、様々な思いがある。
反戦集会などにも出かけたし、その後、様々なルポルタージュ、写真集などにも触れた。
当初は、本多勝一氏の「戦場の村」や「北爆の下」などを読んだ物だ。
写真では、キャパを筆頭に、沢田教一さんや岡村昭彦さん、一ノ瀬泰造さん、そして、大石芳野さんたち。
石川さんの写真も見ている。
石川さんは何度もベトナムを訪れていて、本多勝一氏と同行したこともあり、その時の記録は「ベンハイ川を越えて」(朝日新聞社/1974)として出版されている。
解放25終焉の一年前、ベトナムに行ったのだが、そのときホーチミン市の戦争証跡博物館にも行き、石川さんの写真を集めたコーナーがあったり、写真集や石川さんが使ったニコンFもいっしょに並んでいた。
石川さんのベトナムに関わる写真集や書籍は他にも読んでいるが、本書は、ベトナム戦争当時の報道カメラマンとしての動きがよくわかる。

沖縄出身の石川さんは、ベトナムと重ね合わせて、沖縄の市場の「風景はいま思うとベトナムの市場にとてもよく似ていた。私はベトナムへ来た時、沖縄はアジアだと思った。と記している(P.182)のだが、私の印象は、ベトナム音楽の旋律は沖縄音楽の旋律によく似ているというものだった。

石川さんが政府軍に従軍したときに政府軍が解放軍から鹵獲した大砲を「米国製75ミリ。日中戦争の時、アメリカから中国に譲渡された物」(P.200)あるが、P.119の写真を見ると、これは「M116 75mm榴弾砲」のようだ。
また、石川さんが行ったところで私も行ったことがあるところは、まず、ドンハ(P.256)。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/1999/04/vietnam-repo-14.html
そして、解放前は北と南を話で隔てていたベンハイ川に架かるヒエルオン橋、私が行ったときは新しい橋になっていたが、旧橋(P.339)もまだ残っていた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/1999/04/vietnam-repo-12.html
北ベトナム側の最前線だったヴィンリン地区で、ヴィンモック村のトンネルにも入った。(P.338)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/1999/04/vietnam-repo-13.html
南の「鉄の三角地帯」のクチ(P.379)。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/1999/05/vietnam-repor-5.html

VIETNAM REPORT
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/vietnam-report.html

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赤旗日曜版の3月29号から4月19日号まで、4回にわたっ「この人に聞きたい」の連載があった。
https://www.jcp.or.jp/akahata/web_weekly/cat1/cat821/
当時の石川さんの書籍を探してみよう。

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まえがき
第一章 「南ベトナム海兵大隊戦記」取材
第二章 南ベトナム政府軍の従軍
第三章 ベトナムに米軍がやって来た
第四章 メコンデルタの従軍
第五章 最大の激戦・ケサン基地攻防
第六章 南と北の両方からベトナム戦争を撮った
第七章 戦争終結
あとがき
年表
参考文献

石川文洋/著
朝日新聞出版
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=21710

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2020年3月14日 (土)

きらめく星座@紀伊國屋サザンシアター

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お昼をどうしようかと通りかかったのが、高野フルーツパーラーだった。

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当初は8日の日曜日に来ようと思っていた、こまつ座第131回公演「きらめく星座」、新型コロナウイルスの影響で5日の初日から8日までが休園となってしまい、こまつ座に電話して今日に振り替えてもらったのであった。
そんなわけで、ステージ上は防毒面、客席はマスクと、シュールなのである。

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前回見たのは、2017年の、小笠原正一を田代万里くんが正一を演じたとき。
その前に一度見たはずだが、いつだったか、公演記録はつぎのとおりなので、第106回公演だったのだろう。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-aaeb.html
第4回公演 紀伊國屋ホール 1985/9/5~21日 
第25回公演 紀伊國屋ホール 1992/2/20~3/10
第40回公演 東京芸術劇場中ホール 1996/3/8~17
第54回公演 紀伊國屋ホール 1999/10/22~11/3
特別公演 銀河劇場 2009/5/6~24
第106回公演 紀伊國屋サザンシアター 2014/9/8~10/5
第120回公演 紀伊國屋サザンシアター 2017/11/5~23

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チケットは、当初のチケットと引き換えである。
このとき、Sisiyさんは麻矢さんに声をかけられてしまうというハプニング。
なぜ?
いい機会なので、今回のような理由で公演中止となったときにチケットの返金を求めず、寄付にしてしまうのはアリかどうかを尋ねてみた。
というのも、チケットの事前購入の場合、主催者が前金として受けた料金は債務として計上されているので、返金手続きを放棄されても直ちには主催者の収益にはならないということを聞いていたからだ。
たぶん、どこでチケットを購入したかにもよるが、こまつ座の場合はこまつ座から直接買っているので、あえて聞いてみた。
麻矢さん曰く「気持ちだけでありがたいです」ということだったが、あえて返金を求めないのであれば、その旨連絡すれば良さそうだ。
今回のthe座は、麻矢さんと望月衣塑子さんとの対談が載っている。

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前回と同じキャストは三人(小笠原信吉、権藤三郎憲兵伍長、森本忠夫)で、あとは入れ替わっている。
小笠原信吉:久保酎吉
小笠原ふじ:松岡依都美(秋山菜津子)
小笠原正一:高橋光臣(田代万里生)
小笠原みさを:瀬戸さおり(深谷美歩)
源次郎:粟野史浩(山西惇)
竹田慶介:大鷹明良(木場勝己)
権藤三郎憲兵伍長:木村靖司
森本忠夫:後藤浩明
防共護國団団員/電報配達夫:高倉直人(阿岐之将一)
防共護國団団員/魚屋店員:村岡哲至(岩男海史)

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入りは、1/3ほどではなかろうか。
この作品でこの入りでは寂しい気がするが、イベントを自粛するよう要請されているなかでの公演なので、よくやったというべきだろう。
そのせいもあって、栗山さんの怒りがビシビシと伝わってくる。
ただ、前回のキャストたちのほうが、丁々発止のクセは強かったように思う。

カーテンコールは、2回あって、それでも拍手が鳴り止まなかったので、もう1回。
https://www.kinokuniya.co.jp/c/label/20191207133030.html

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