東欧革命関連

2019年9月11日 (水)

スターリニズム

181210_001  181210_002
わかっているようで、しかし、それぞれの論者によって定義づけられているのでますますわかりにくくなっている「スターリニズム」、これはいったい何なのだ?
著者グレイム・ギルは、「スターリニズム」を「経済」「文化」「社会」「政治」の「四つの相貌」から、その起源や内実を論じ、コンパクトにまとめている。
ガチガチの全体主義だろうとの先入観であまり眼がいくことのなかった、中央と地方との関係、中央による地方や下部組織に対する統制の弱さという指摘は興味深い。
むろん中央の統制が弱いことが民主的だったとか自由だったとかいうことにはならず、地方は地方でミニ・スターリニズムの社会だったのだろう。
国土の広さとインフラの未発達が影響していたのかもしれない。
だとしたら、シベリア抑留でのそれぞれの地方での思惑とモスクワの思惑とは、どのようなものだったのだろうか。
そしてこの指摘は、「全体主義」を考える上で、ファシズムやナチズムと同じようにスターリニズムを置いていいのかという問題提起にもなるだろう。

この中央と地方との関係は、ベトナム戦争でも論じられたことがあることを思い出した。
「ハノイ対話」でのプレイク事件(1965年2月7日のベトナム中部のブレイク空軍基地に対する解放戦線による攻撃)をめぐるやりとりで、「我々はなぜ戦争をしたのか―米国・ベトナム 敵との対話」で触れられている。
アメリカ側は、ブレイク攻撃を北ベトナムによる挑発であり、ハノイからの指令に基づく攻撃であるととらえたのだが、「ハノイ対話」においてはベトナム側から現地司令官が計画し実行された作戦であると言明された。
当時の解放戦線側においては米軍が持っていたよう指揮命令系統・手段は整備されておらず、「自分たちと同じような指揮命令系統を解放戦線も持っていたはずで、すべてハノイからの指令によって作戦が行われた」とするアメリカの判断はとんでもない誤解であるというやりとりであった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-1d9f.html

スターリニズムの要素は、P.86に7点がまとめられている。
(1) 制度上は高度に中央集権化された司令経済システム。大衆動員と重工業発展の最大限の重視を特徴とする。
(2) 初期の段階では、大々的な流動を特徴とした社会構造。なかでも特筆すべきは、かつての下層階級を権力と特権ある地位に引き上げた高水準の社会的流動。その後、社会は安定し、等級や地位、厳格な上下関係が支配する社会構造へと帰結。
(3) 文化的、知的領域では、すべてが指導部の定める政治的目的に奉仕すべきであるとされ、文化的、知的活動の全分野が政治的監視を受けた状態に置かれる。
(4) 当地の手段としてテロルを用いた個人独裁。ここでは、政治組織はほとんど独裁者の道具以上の何物でもなかった。
(5) 国家にとって重要と見なされる限りで、あらゆる生活領域が政治化される。
(6) 権力の中央集権化と、その反面に見られた中央からの日常的統制の著しい弱さ。その結果、実際には日々の活動が厳格な統制を受けず、組織化もされていないシステムが出来上がった。
(7) 初期の革命的な価値規範は、保守的で現状維持の志向によって取って代わられた。
そして「四つの相貌すべてを備えたスターリニズムの登場にとって最も重要だったのは、一九二〇年代末から一九三〇年代初頭にかけての「上からの革命」と一九三〇年代後半のテロルであろう」(P.89~90)とする。
さらに「後進性」と「指導者たちの個人的選択」についての検討となる。

「大テロル」の論考で、NKBDに関して、「存在意義を強く主張しようと躍起になっていた」(P.44)ことで、「敵の摘発を通じて今まで以上に目立つ存在となるばかりか・・・大勢の指導機関として君臨できるから」(P.47)「大テロル」で役割を担ったというように記されているが、NKBD長官のエジョフやベリヤが「大勢の指導機関として君臨」することを考えていた、ということなのだろうか。

ソ連邦が崩壊しロシア連邦となったからといって、「スターリニズム」がなくなったわけではないだろう。
現代ロシアとスターリニズムとの関係も、考えていかなければならない課題なのだと思う。
そして、「経済」「文化」「社会」「政治」の「四つの相貌」から嫌韓な我が国を見たとき、どんな評価をすることができるだろうか。
さらに、奇しくもきょうは9.11。
以前ノーマンメイラーは、アメリカが全体主義に向かいつつあると言ったようだし、鶴見さんもどこかでアメリカの知人にそのようなことを言われたことがあるとか言っていたが、「アメリカ・ファースト」なアメリカは、どう評価できるだろうか。

第二版への序文
判例
第1章 スターリニズムの歴史的起源?
 1 ロシアの後進性
 2 レーニン主義
 3 人格的要因
第2章 スターリニズムの確立
 1 「上からの革命」
 2 文化革命
 4 社会的流動
 4 大テロル
 5 スターリニズムの政治
 6 外国の脅威?
第3章 大戦と盛期スターリニズム
 1 戦時経済
 2 文化的動員
 3 戦時の社会
 4 戦時の政治
 5 盛期スターリン経済
 6 戦後の社会
 7 戦後の文化
 8 政治的相貌
 9 国際的スターリニズム
第4章 スターリニズムの特質
 1 起源の問題
終章 スターリニズムの遺産
 1 公的な場でのスターリニズム
 2 スターリニズムの構造上の帰結)
訳者解説
参考文献・日本語文献案内
関連年表
索引

グレイム・ギル/著
内田健二/訳
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b257739.html

 

| | コメント (0)

2019年8月30日 (金)

加藤周一、米原万里と行くチェコの旅

190814_011  190814_012
オーストリアからチェコをめぐる旅の中で、加藤周一さんや米原万里さんをキーにして、小森陽一氏、金平茂紀氏、辛淑玉氏の各氏が語り対談した記録で、それぞれの地の様子は、ほとんど記述されないので、チェコの景色を期待してはいけない。
当然、日本の状況を重ね合わせた話になるので、社会批評でもあり、批判的立場にある人の内側も語られる。
本書を読みながら、ここ数年で、日本の狭さはますます進んだのだとひしひしと実感してしまう、ことに辛淑玉氏の語りでは。

P.25~26の「ハプスブルク家の夏の王宮でした。」は、「ハプスブルク家の夏の離宮でした。」でしょう。
P.26の写真にはちゃんと「離宮」となっているし、他のページでも「離宮」となっている。

ウィーンでは、1984年にも触れてほしかった。
展示となると、軍事史博物館にはあって見てきたけれど、他に展示されているかどうかは定かではない。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-e1a12b.html
今は改修で閉館だけど、ウィーンミュージアムの展示は、どうだろうか。

P.45、クーデルカの写真集、持って行ったのか。
先日、プラハから帰ってきてもう一度眺めてみた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-2c1ea7.html

P,180にカフカとチャペックが少し出てくるが、シュベイクについても触れてほしかったな。

小森氏も金平氏も、同世代。
加藤周一さんはむろんのこと父母か祖父母世代、米原万里さんは少し上の姉御の世代。

カラーグラビア
旅のはじめに
第1章 ハプスブルグ家に見る中欧の歴史
 1、ハプスブルグ家とウィーン
>2、権力の歴史から「主役は民」の時代へ
第2章 「プラハの春」と加藤周一
 1、加藤周一「言葉と戦車」と言葉の復権
 2、「言葉と戦車」の今日的な読み方
 3、加藤周一の文学的表現について
第3章 旅先で自らの半生を振り返る
 1、加藤周一と「九条の会」、そして私
 2、ニュースキャスターとして思うこと
 3、反転攻勢のために何が必要か
第4章 チェコの歴史と文化と闘い
 1、チェコの歴史を訪ねて
 2、チェコに見る文化の役割
第5章 米原万里とプラハ、そしてソ連崩壊
 1、プラハ時代の米原万里
 2、ソ連崩壊の過程での米原万里
 3、通訳者、小説家としての米原万里
第6章 中欧から見た日本と日本人
 1、世界から見た日本の教育
 2、リベラル左派の将来をどう考えるか
 3、日本の希望は沖縄にある
第7章 ドイツで自分の居場所を考えた
 1、ユダヤ人とテレジン収容所
 2、殺す側の理屈、殺される側の思い
旅のおわりに

小森陽一、金平茂紀、辛淑玉/著
かもがわ出版
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ka/1013.html

 

| | コメント (0)

2019年8月14日 (水)

わが青春の国際学連 プラハ1959~1968

181217_021  181217_022
「プラハの春」から51年、そしてこの春プラハを歩いたということで、読んでみる。
本当は、プラハに行く前に読んでおこうと考えていたのだが、結局、今の時期になってしまった。
米原万理さんがプラハで暮らしたのが1959年11月から1964年11月まで、著者のプラハ在住時期(1959年3月から1968年9月)とは重なっている。
しかし、年齢も離れているし、何より決定的に立場の違いが鮮明であるから、邂逅する機会はなかっただろう。

著者の立場はブントで(それは本書刊行当時も変わらないようだ)、日本共産党に対する姿勢は60年第70年代そのままであるが、本書を読むにあたっては全学連内部での争いは、背景として押さえておくべきだろう。
もっとも、ブントの分裂前に著者は日本を出ている。
一方で、ソ連型社会主義の批判者でありながら、ソ連型社会主義国のただなかでのソ連型社会主義を支える任務を持つ組織の一員としての活動記録、という内容も可能だったかもしれない。
しかし著者は、チェコ事件ののち、プラハを去らなければならなかった。
反スターリン主義の著者が長年プラハで活動できたのは、国際学連じたいがソ連型社会主義組織とは言い切れない側面を持っていた(著者も書いているが、国際学連は丸々ソ連の下請け機関というわけではなかったようで、68年後活動できなくなった)としても、プラハで、そして国際学連で、著者が何をしていたのか、どんな議論があったのか、また、国際学連がどのようなことをしていたのか、本書では何もわからない。
私はプラハに居ました、WPO軍を見ました、他の国にも行きました、プラハに居られなくなったのでドイツに行きました、以上報告終わり、であった。
それに、加藤周一氏は1969年にベルリン自由大学に赴任しているが、氏を招くにあたって著者が尽力したというエピソードが書かれているが、これはどういうことなのだろう?

そうしたことが目的で本書を読んだのではないからその点はいいとしても、50年前のプラハの様子や暮らしの様子は、著者が住んでいたあたりの平和広場の写真はあるが、よくわからなかった。
東大を去るにあたって学長に激励されたこと、十数年後に東大に復学できたことも、なぜ?と疑問符はついたままだ。

まえがき
第I部 医学連の活動、そしてプラハへ
 一 そのころ、自分のおかれた座標
 二 プラハへ出発(一九五九年二月)
 三 自己寸史「学生運動へのかかわり」――原水爆禁止のたたかい
 四 1960年代――世界と日本
 五 「冷戦」時代にみる「東側体制」をどう把握するか
第II部 国際学連書記局(プラハ)を舞台に
 一 国際学連(IUS)について
 二 1968年8月20日 チェコスロヴァキアの軍事制圧の現場
 三 国際学連内で日本全学連の占める確固たる位置
 四 世界各国歴訪
 五 プラハからベルリンへ
 六 国際活動で学んだこと
 七 その後の「身のふり方」――14年遅れ四〇歳で医者に
 八 21世紀の世界
書きおえて

石井保男/著
社会評論社
http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/shakaisyugi/ISBN978-4-7845-1479-3.php

 

| | コメント (0)

2019年7月 6日 (土)

プラハ侵攻1968

Books157
8年前に写真展があり、本書も刊行された。
そのときに入手し読んでいるが、先だってプラハに行って、この写真集に出ている場所も歩いてきたので、もう一度ページをめくることにした。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/1968-92cd.html

グーグルのストリートビューを利用すると、撮影した場所がかなり特定できる。
特定できた場所を、地図に落としてみよう。

Praha_1

Praha_2
P.10〜11:キャプションなし。写真展のリストでは「プラハの町を侵攻するワルシャワ条約機構群(ママ)の戦車、8月21日」:レヴォルチュニー通りを北へ向き、ヴルダヴァ川のシュテファーニクーク橋の手前、したがって戦車の砲塔の大砲は市内に向いていない。(1_praha_1)
P.21:ヴィノフラツカー大通りのラジオ局に向かう最初のデモ参加者:ヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)は、プラハ本駅の南側、国立博物館から東に延びる通り、チャペックの住居に行った時の地下鉄が、この通りの下を走っている。(2_praha_1)
P.22〜23:ČKDのプラハ工場の裏手、フロウビェチーンへと向かう車列(3_praha_2)
P.24〜25:フロウビェチーンへの道路:シェコダの工場はプラハの北東部にあり、その南東に地下鉄の「Hloubětín」駅がある。(3_praha_2)
P.26〜29:ヴィノフラディにて:ヴィノフラディ(Vinohrady)は、チェコの旧市街の東エリア、高級住宅街とされているようで、チャペックの住居もこのエリアにあるが、撮影場所は、わからない。(4_praha_1)
P.30:ソコロフスカー通り:ソコロフスカー通り(Sokolovská)はプラハ本駅の北とヴルダヴァ川の間を東方向に伸びる通りであるが、撮影場所は、わからない。(5_praha_1)
P.31:ヴァーツラフ広場とメジブランスカー通りの交差点:メジブランスカー通り(Mezibranská)は、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)が国立博物館前で交差し南に伸びる道路。(6_praha_1)
P.31:ツェレトナー通り:ツェレトナー通り(Celetná)は旧市街広場と火薬塔との間の通り。(7_praha_1)
P.32〜33:ヴァーツラフ広場とオプレタロヴァ通りの角にあるチェコスロヴァキア通信社に向かう戦車:オプレタロヴァ通り(Opletalova)は、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)が国立博物館寄りで交差し北東に伸びる道路。(8_praha_1)
P.36〜37:ヴィノフラディのマーネソヴァ通り:マーネソヴァ通り(Manesova)は、ヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)の一本北側の通り。(9_praha_1)
P.38〜41:キャプションなし。建物の形状からマーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.46〜47:キャプションなし。16枚の写真のうちの数枚は、建物の形状からマーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.48〜49:キャプションなし。ヴァーツラフ広場の国立博物館前。(6_praha_1)
P.52〜53:キャプションなし。16枚の写真のうちの数枚は、ヴァーツラフ広場。(6_praha_1)
P.58〜59:キャプションなし。背後の建物からヴィノフラツカー大通りのようだ。(13_praha_1)
P.64〜65:キャプションなし。背後の建物からヴルダヴァ川にかかるチェーホフ橋から北側を見ているようだ。(19_praha_1)
P.67:共産党中央委員会を監視する兵士たち:チェコスロヴァキア共産党(Komunistická strana Československa (KSČ))中央委員会本部は、現在のチェコ交通省ビル。(10_praha_1)
P.68:共産党中央委員会前にて(10_praha_1)
P.70〜71:党中央委員会前で国歌を歌う人々(10_praha_1)
P.74〜75:旧市街広場:ヤン・フス像、その奥にキンスキー宮殿、右に石の鐘の家、ティーン教会。(11_praha_1)
P.76〜77:ヴァーツラフ広場:広場の中央あたりで国立博物館を背にしての広場風景。(12_praha_1)
P.79:銃撃の証拠としての弾薬:背後の建物は国立博物館。(12_praha_1)
P.85:チェコスロヴァキア・ラジオ局に向かう装甲車に対する人々の反応(13_praha_1)
P.86〜87:チェコスロヴァキア・ラジオ局前での指示を出すロシア士官(13_praha_1)
P.88:ヴィノフラツカー大通りのチェコスロヴァキア・ラジオ局前(13_praha_1)
P.90〜91:ヴィノフラツカー大通りとイタルスカー通りの交差点:イタルスカー通り(Italská)は、プラハ本駅の東側を南北に通っており、写真の左上に写る特徴のある建物から撮影場所は国立博物館側からヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)を東に向きイタルスカー通り(Italská)との交差点の西側手前であることが特定でき、現在もチェコ放送(Český rozhlas、ČRo)がある。(13_praha_1)
P.96〜97:ヴァーツラフ広場:背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.98:ヴァーツラフ広場:国立博物館側からのヴァーツラフ広場。(12_praha_1)
P.100〜101:キャプションなし。国立博物館前とヴァーツラフ広場。(12_praha_1)
P.102〜103:共和国広場:市民会館に面した広場、建物の形状から広場の北側のようだ。(14_praha_1)
P.110〜111:キャプションなし。背後の建物からヴィノフラツカー大通りのようだ。(13_praha_1)
P.113:チェコスロヴァキア・ラジオ局の防衛(13_praha_1)
P.114〜115:キャプションなし。建物の形状からマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。1枚は市電の線路が見えるので、ヴィノフラツカー大通りかもしれない。 (13_praha_1)
P.116〜117:チェコスロヴァキア・ラジオ局のあるヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)
P.118〜119:キャプションなし。ヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)とマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。
P.120〜121:キャプションなし。ヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)とマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。
P.126〜127:ヴィノフラツカー大通り。放火された戦車から出てくる兵士たち(13_praha_1)
P.128〜129:キャプションなし。マーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.130〜131:キャプションなし。マーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.132〜133:チェコスロヴァキア・ラジオ局の占領に向かうロシア兵(13_praha_1)
P.144〜145:ヴィノフラツカー大通りの、銃撃を受けて出火した建物(13_praha_1)
P.152〜153:チェコスロヴァキア・ラジオ局での攻防の犠牲者(13_praha_1)
P.164:オルシャヌイ墓地近くでの葬送の行列:写真の右の木立が墓地、ちょうど現在の地下鉄Flora駅前で、このあたりはチャペックの住居に行ったときに歩いた。(15_praha_1)
P.164:侵攻による犠牲者の記念碑、ヴァーツラフ広場にて:国立博物館側を背後にした聖ヴァーツラフ像の前。(12_praha_1)
P.171:ヴァーツラフ広場:国立博物館方向。(12_praha_1)
P.174〜175:2度にわたり、人がいなくなったヴァーツラフ広場―8月22日、23日:ヴァーツラフ広場の北西端の建物の上から国立博物館を見ているようだ。(12_praha_1)
P.182〜183:ヴァーツラフ広場のソ連軍の戦車:ヴァーツラフ広場の北西端の建物の上から聖ヴァーツラフ像と国立博物館方向。(12_praha_1)
P.190:キャプションなし。背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.191:占領反対を訴える新聞の配布:背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.193:臨時党大会の準備がおこなわれているヴィソチャヌイの工場前:プラハ北東部に、Praha-Vysočany駅があるので、その辺りの工場なのだろう。(16_praha_2)
P.194〜195:共和国広場:市民会館前から北東方向。(14_praha_1)
P.196:ヴァーツラフ広場の聖ヴァーツラフ像(12_praha_1)
P.206〜207:ナ・プシーコビェにて:ナ・プシーコビェ(Na Příkopě)は、ヴァーツラフ広場の北西端から共和国広場に向かう大通り。(17_praha_1)
P.208〜209:キャプションなし。背後は聖ヴァーツラフ像。(12_praha_1)
P.211:聖ヴァーツラフ像の前の若者たち(12_praha_1)
P.212〜213:ナ・プシーコビェでのデモ:背後に見える建物はヴァーツラフ広場との角に立つ建物なので、ヴァーツラフ広場から共和国広場に向かって行進していることになる。(17_praha_1)
P.220〜221:すわり込みの抗議:国立博物館を背後に聖ヴァーツラフ像のまわりで人々が座り込んでいる。他の写真でもそうだが、当時は市電が聖ヴァーツラフ像のとこおまで走っていたようだ。(12_praha_1)
P.224〜225:ヴァーツラフ広場:国立博物館と聖ヴァーツラフ像との間。(12_praha_1)
P.228〜229:血のついた「ソヴボドネー・スロヴォ」紙を手にした新聞売り:国立博物館を背後に聖ヴァーツラフ像が見える。(12_praha_1)
P.230:ロシア語で「なぜ」のプラカード:共和国広場、市民会館前から北東方向。(14_praha_1)
P.231:インジシュスカー通り:ヴァーツラフ広場の中ほどから北東方向にプラハ本駅に至る通り。(18_praha_1)
P.231:ドゥプチェクの写真を掲げて抗議する人々。旧市街:ティーン教会を背後に旧市街広場の旧市庁舎前。(11_praha_1)
P.235:ヴィノフラディの墓場にて:オルシャヌイ墓地か。(4_praha_1)
P.250〜251:占領反対のスローガンが記されたトレーラ、ヴァーツラフ広場(12_praha_1)
P.268〜269:旧市街広場:ヤン・フス像、右に旧市庁舎が見えるので、北側から南方向を見ている。(11_praha_1)
P.270〜271:旧市街広場:ヤン・フス像、奥に聖ミクラーシュ教会が見えるので、ティーン教会の前から見ている。(11_praha_1)
P.272:キャプションなし。市民会館前の共和国広場。(14_praha_1)
P.273:キャプションなし。旧市庁舎前。(11_praha_1)
P.274:キャプションなし。ヤン・フス像の土台があるので旧市街広場。(11_praha_1)

「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」写真展展示リスト
https://topmuseum.jp/upload/3/1353/koudlka.pdf
http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-1353.html

 

ジョセフ・クーデルカ(Josef Koudelka)/著
阿部賢一/訳
平凡社
https://www.heibonsha.co.jp/book/b157734.html

 

| | コメント (0)

2019年4月19日 (金)

歴史としての社会主義 東ドイツの経験

190102_121 190102_122
2018年夏、ドイツを歩いてきて印象的だったことのひとつは、ドレスデンでのできごとである。
ドレスデンでは「ドイツ民主共和国の世界」(Die Welt der DDR)、つまりDDR博物館に行ってきたのだが、そこにはDDR時代の暮らしや仕事などの場が再現され、日常生活で使われた多くの道具類などの様々なモノたちが集められ展示されている。
学校の教室も再現されていて、そこでは若いホーネッカーの写真が掲げられ、テレビの画面からは1989年5月14日のパレードの映像が流れていた。
パレードでの自由ドイツ青年団(Freie Deutsche Jugend、FDJ)の映像で行進曲と歌が流れると、映像を見ていた年配男女が合わせて歌っている。
同時代の人たちなのだろうが、四半世紀が過ぎ、この映像を見てどのような思いを持っているのだろうかと思ったものだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/10_2-die-welt-d.html
Die Welt der DDR
https://www.weltderddr.de/

また、本書「第三章 農村の社会主義体験 土地改革から農業集団化へ(一九四五―一九六〇)」でバート・ドベラン郡の農村が取り上げられているが、ここにも2018年に行ってきた。
もっとも目的はモリー鉄道であるが、ロストックからバート・ドベランに向かうローカル線の車窓から、あるいはモリー鉄道の車窓から畑は見ているのだが、そのときはこの国の農村の歴史については頭をかすめなかった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_3-von-bad-dob.html
そして、この日の朝散歩したときに廃墟があって、何だろうと思ったことはある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_1-morgen-von.html
廃墟は、モリー鉄道の終点キュールングスボルンにもあった。
執筆者が行ったケーグスドルフ村は、キュールングスボルンよりさらに南西数キロのところに位置している。
ホーエンフェルデ村はバート・ドベランの南2キロのところにある村で、バート・ドベランに到着するときに車窓から見た景色がその一部だったのだろう。

学生の頃、何の授業でだったかは忘れたが、「東ドイツの労働者は、分業での単なる歯車的な存在ではなく、自分が担当する作業について、作業の全体を把握していてその中の任務を理解している」というようなことを教えられたことがある。
そのときは、ふうん、社会主義的人間とはそういうものかとして聞いたのだが、本書での「作業班」での作業が、もしかしたらその意味なのかもしれない。
それは本書に引用されている文献での「私たちの企業」、「自分が影響力をもっていると感じた」、「働きに行くのが好きだった」(P.88)といった労働者の思いとなっているのだろう。

「第五章 東ドイツでの余暇活動」の「3 「不測の社会」下における余暇」の「(2)消費財の「不足」と余暇」で語られる消費財の不足の状況は、「グッバイ・レーニン」でも描かれていた。

「第八章 東ドイツ「平和革命」と教会 建設兵士の活動を中心に」では、ライプツィヒのニコライ教会の活動が取り上げられているが、その「月曜デモ」などの活動は1989年に突然起こったのではなく、1981年9月13日の「平和の祈り」から始まったこと、以後の活動で「棲み分け」を求める教会指導部とも対立していったこと、1989年においても教会指導部と活動ウループトの間に揺れがあったことなど、その頃の様子をあらためて見ることができた。
この章のの「3 建設兵士らによる平和を求める活動」の「(3)徴兵制の変革を求める活動」での「剣を鍬に」運動で使用された図柄の原典となった「旧約聖書」の「ミカ書」4章3節は、注に一部が載っているが、全文は「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」である。

執筆陣の世代によって、「社会主義」への想いの差が表れているのは、1989年以降の歴史を物語っている。
そして、巻末の「東ドイツ史略年表」は、以前さまざまな文献や書籍から作成した年表「ドイツを中心とした東欧史」を補完してくれる。

ドイツを中心とした東欧史
(1)1945〜1946 (2)1947〜1949 (3)1950〜1954
(4)1955〜1957 (5)1958〜1963 (6)1964〜1967
(7)1968 (8)1969〜1970 (9)1971〜1972
(10)1973 (11)1974 (12)1975
(13)1976〜1978 (14)1979 (15)1980
(16)1981 (17)1982〜1983 (18)1984
(19)1985 (20)1986〜1987 (21)1988
(22)1989(1-8) (23)1989(9-12) (24)1990(1-5)
(25)1990(6-12) (26)1991〜1993 (27)1994〜1998
(28)1999〜2000 (29)2001〜2002 (30)2001〜2005

第I部 いまなぜ東ドイツか
 第一章 歴史としての東ドイツ
 第二章 東ドイツ研究の現在
第II部 東ドイツ社会を生きる
 第三章 農村の社会主義体験 土地改革から農業集団化へ(一九四五―一九六〇)
 第四章 職場における「つながり」 工業企業現場の実態
 第五章 東ドイツでの余暇活動 休暇旅行の実態から
 第六章 高齢者と社会
 第七章 東ドイツのポピュラー音楽の系譜
 第八章 東ドイツ「平和革命」と教会 建設兵士の活動を中心に
第III部 歴史としての社会主義
 第九章 思想としての社会主義/現に存在した社会主義
 第一〇章 東ドイツの「中間グループ」の役割
 第一一章 社会主義経済再考 東ドイツ計画経済の現実
あとがき
参考文献
東ドイツ史略年表
索引

川越修/編著
河合信晴/編著
ナカニシヤ出版
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b239954.html

| | コメント (0)

2018年10月28日 (日)

東西ベルリン動物園大戦争

181008_901  181008_902
ベルリンのツォーには行ったことがある。
この夏にもドイツに行き、ライプツィヒやドレスデンも歩いてきた。
プラン段階ではライプツィヒ動物園は行きたいところリストに載せていたのだが、実際には時間を取ることができずに行かなかった。
ドレスデン動物園は、行きたいところリストには載せていなかった。

「ワニのスープが動物園の腹ぺこの職員にふるまわれた」(P.30)で、「ベルリンは晴れているか」を思い出した。
職員ではないが、「ワニのスープ」が出てくる(「ベルリンは~」P.142あたり)し、それを怒る飼育員も登場する。
高射砲塔も、グスタフという名前で出てきた。
高射砲塔はウィーンには残っていて、アウガルテンにある塔は壊すに壊すことができないでそのまま、6区にある塔は水族館になっている。
ベルリン動物園の動物で生き延びたのは89頭とされていた(同P.152)が、本書によれば91頭だったようだ。(P.36)

「VEB」(P.86)を「国営企業」と訳してあるのだが、「Volkseigener Betrieb」の「Volks」に注目するなら「人民所有企業」「人民企業」のほうが「らしい」感じはする。
89年に「Wir sind das Volk」が叫ばれたように、「Volks」がついていても、実態は国営の一形態なのだろうが。

1989年に至って、ライプツィヒの幾つかの地名が出てくる。
ヨルク・アドラーが通っていたニコライ教会(P.309)には、二度行った。

アドラーが呼び出しをくらった内務局について、「ライプツィヒ市役所にあるシュタージの別名」(P.310)としているが、いまの旧国家保安省記念館(Gedenkstätte Museum in der „Runden Ecke“)とは別の場所なのだろうか。

そして1989年10月7日にアドラーがデモに参加して放水車の水を浴びた「カールマルクス広場(訳註 現在のアウグストゥス広場)とグリマーイッシュ通りが交わる角」(P.312)も、最初にニコライ教会に行くときにゲヴァントハウスの前から歩いたときの角だ。

登場人物が多いので、後半になるにつれて人間関係がだんだんわからなくなってしまう。
それにしてもいずれも強烈な個性の持ち主のようで、もともとそのような人物像だったのか、本書の中でそのような人物としてある程度デフォルメされて描かれたのかわからないけれど、この園長たちの下で働くのは大変そうだ。
もっとも、わからんちんの当局と渡り合うためには、そうしたキャラクターも必要だったということなのかもしれない。

戦後の動物園事情、動物たちに対する向き合い方などは疑問を抱いてしまうが、そういう時代だったのだろう。
1950年代後半から1960年代にかけて住んでいたところには阪神パークが、電車に乗って行ったところには須磨水族館があり、よく親に連れて行ってもらった。
阪神パークは「レオポン」(牡ヒョウと牝ライオンの子)を生んだのだが、今の動物飼育の基準からすると、あまり褒められたものではないのかもしれない。
レオポンは、かはくでの「人体」展で、剥製が展示されていた。

181031_z1
雑誌AERAのNo.50(’18,10,22)に掲載された書評。

181031_z2  181031_z3

181031_z4  181031_z5

181031_z6  181031_z7

プロローグ――動物園人
第1章 戦争とワニの尻尾のスープ
第2章 動物園フィーバー
第3章 第四の男
第4章 パンダと国家の威信
第5章 狩猟家と収集家
第6章 大きな計画、小さな魚
第7章 一つの島に二頭のクマ
第8章 灰色の巨人、倒れる
エピローグ――古い男たちと新しい時代
その後
謝辞
訳者あとがき
監修者解説

ヤン・モーンハウプト/著
黒鳥英俊/監修
赤坂桃子/訳
CCCメディアハウス

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月30日 (月)

ドイツ戦争責任論争―ドイツ「再」統一とナチズムの「過去」

180106_521  180106_522
ゴールドハーゲンの「普通のドイツ人とホロコースト――ヒトラーの自発的死刑執行人たち」をめぐる論争を契機として、目的意識的にあるいは結果的にナチスを免罪しようとするさまざまな思潮、ドイツの責任を矮小化・相対化しようとする論調を厳しく批判する。
その意味では、「戦争責任」を追求する内容ではない。
ゴールドハーゲンの著作は読んでいないので、その内容を前提とされてもちと困るのであるが。
民族と言語、文化などが入り混じっている大陸で「国家」を維持しなければならない国の責任ありようは、他の国と海で隔てられている、「ウチ」と「ソト」が自然に認識できる国土の日本にいたのでは想像できないのかもしれない。
こうしたこともまた「地政学」として批判の対象となるのかしら。

再三帝国あるいはナチズムの議論の変化を、著者は五つに絞る。
・比較による矮小化:ナチズムや第三帝国を、東ドイツや「共産主義」と比較することによる、ナチズムや第三帝国の犯罪の相対化・矮小化
・地理的位置による免責:統一ドイツの中欧や東欧における覇権の容認
・強いられた戦争:スターリンの戦争に対する先制、ルーズヴェルトこそが戦争の元凶、戦争開始の責任の相殺、責任の相対化
・近代化による相殺:アウトバーンなどいい面もあった
・過去の克服:「自信に満ちた国民」
こうした「修正」に対するゴールドハーゲンによる批判を、ゴールドハーゲンの論旨の問題点はありとしつつも、著者は擁護する。
この論点は、ドイツに限ることなく、わが国における「修正主義」についても、むろんそのままスライドするわけではないにしても、追求することができるだろう。

日本語版への序文 ヴォルフガング・ヴィッパーマン
序章 「要するにひどい本」をめぐって、なぜ大騒ぎになったのか?-ゴールドハーゲン論争から歴史家論争へ
第1章 「全体主義的な独裁制」か?-比較による矮小化
第2章 「悲劇的な中間位置」か?-ドイツの地理的位置による免責
第3章 「強いられた戦争」か?-相殺による正当化
第4章 「いい面もあったのでは」?-近代化による相対化
第5章 「ユダヤ人死刑執行人」か?-ゴールドハーゲンと「自信に満ちた国民」
終章 だれの責任なのか?-歴史家論争からゴールドハーゲン論争へ
文献解題
解説
索引

ヴォルフガング・ヴィッパーマン/著
増谷英樹/訳
未來社

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月 4日 (水)

8_4 Nikolaikirche, Hauptbahnhof / Deutsch 2018

20180704_b51
歩いていたら、ライプツィヒのマンホールがあった。

20180704_b61  20180704_b62  20180704_b63
ライプツィヒでの最後になるのは、ニコライ教会(Nikolaikirche)である。
いまさら言うまでもなく、ここで始まった平和運動が東西ドイツ統一のきっかけとなった。
毎週月曜日に開かれていた「平和の祈り(Friedensgebete)」が、言論や政治活動、出国の自由を求める人々によって次第に拡大し、教会外での月曜デモとなり、1989年10月9日、7万人による「我々が人民だ(Wir sind das Volk!)」と主張する大規模なデモが行われ、ホーネッカーの退陣、ベルリンの壁の崩壊、東西ドイツの再統一となっていった。

お御堂の入口を入ったところに、物乞い女性が地べたに座っている。
出で立ちはムスリム系っぽいのだが、入り口であるとはいえお御堂の中、ムスリムではないだろう。

20180704_b71  20180704_b72
こんな壁の建物、ホテルに連なる建物の壁面である。
時間があれば行こうかと思っていた、メンデルスゾーン・ハウス(Mendelssohn-Haus)、グラッシー博物館(Grassimuseum)、動物園(Zoo)は、今回はパスして、さて、一杯。

20180704_b81  20180704_b82
Hbf前にはStraßenbahnの停留所があるので、いきかうStraßenbahnをしばし観察。

20180704_b83  20180704_b84
タトラや低床車、さまざまである。

20180704_b85  20180704_b86
「Große Leipzig-Stadtrundfahrt mit der Straßenbahn」という催しもあるようだ。

20180704_b87  20180704_b91
Hbfに入る。

20180704_b92  20180704_c01
とってもトイレとは思えず何かのショップかと思ってしまったこのトイレは、予想どおり有料。
もう少し時間があるので、ホームにいる列車たちを見に行こう。

20180704_c02_1  20180704_c02_2
フランクフルトの南のヴィースバーデン行きICE-T。

20180704_c03_1  20180704_c03_2
ハンブルクの西のノルトダイヒ行き二階建て客車のIC。

20180704_c04_1  20180704_c04_2
フランクフルトの南のカールスルーエ行き客車のIC。

20180704_c05_1  20180704_c05_2
ハノーファー東のマグデブルク行きRE。

20180704_c06
行き先表示のないICE-T。

20180704_c07_1  20180704_c07_2
ニュルンベルク北のザールフェルトから到着したErfurter Bahnの列車。

20180704_c08  20180704_c09
構内にパトカーがいる。
地下には、Sバーンのホームがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8_3 Gedenkstätte Museum in der „Runden Ecke“ / Deutsch 2018

20180704_b01  20180704_b02
街を歩いていると、こんな装飾のある建物がある。
いまはCommerzbankが使っているようだが、歴史があるのかもしれない。

20180704_b11  20180704_b12
着いたところは、旧国家保安省記念館(Gedenkstätte Museum in der „Runden Ecke“)。

20180704_b13  20180704_b14
「Runden Ecke」、この建物の外観から、そう名付けられているのだろう。

20180704_b21  20180704_b22
中に入ると、「Dieses Gebäude wird im Auftrag der Regierung und des Bürgerkomitees durch die Volkspolizei gesichert!」と書かれた横断幕。
「この建物は、政府と市民委員会の指令で人民警察によって確保されている!」かな。
そして「秘密?」。

20180704_b23  20180704_b24
たくさんのカセットテープ、格子窓のあるたぶん取調室。

20180704_b25  20180704_b26  20180704_b27
国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit、略してStasi、シュタージ)のエンブレム、ライプツィヒにおける対象を落とした地図、拘置施設。

20180704_b28  20180704_b29
事務施設、背後の資料庫

20180704_b30  20180704_b31
さまざまな変装道具、「Dienstuniform eines Generalleutnants ohne Auszeichnungen」

20180704_b32  20180704_b33
「勲章の付いていない中将の制服」か。
拘置施設、たぶん当時の写真。

20180704_b34  20180704_b35
カード作成の道具、「善き人のためのソナタ」でも登場していたたくさんのカード

20180704_b36  20180704_b37
1989年の頃の映像でよく見た警察のヘルメットと盾、月曜デモの写真

20180704_b38
再びエントランス。

20180704_b41  20180704_b42
「Runden Ecke」すぐそばの「Stasi-Kinosaal」、シュタージ映画ホールでは、「WIR SIND DAS VOLK!」展が行われているので、こっちにも行ってきた。

20180704_b43  20180704_b44
あまりにも人口に膾炙した「WIR SIND DAS VOLK!」、そして、懐かしいギュンター・シャボウスキー(Günter Schabowski)のお顔。
あなたが、外国への旅行自由化の規則改正を1989年11月9日の記者会見で発表し、記者から「この新規則はいつ発効するのか」と質問されて、中身をろくすぽよんでいんかったものだから、「Sofort, unverzüglich」と答えてしまい、11月9日のベルリンの騒ぎになったのだよ。
もっとも、このやり取りはあらかじめ仕組まれていたシナリオだった、という説もありますがね。

20180704_b45  20180704_b46
左の、人で埋め尽くされたこの場所の、右に見える建物はライプツィヒ歌劇場、画像の外になるが左にはゲヴァントハウスがあり、ここはアウグストゥス広場(Augustusplatz)である。
右の画像、これは場所はよくわからないが、これだけの奥行きがあって幅がある場所となると、リンクのどこかなのだろう。

Gedenkstätte Museum in der „Runden Ecke“

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年7月 3日 (火)

7_6 Il-62, Gewandhaus, Nikolaikirche / Deutsch 2018

20180703_d41  20180703_d42
中央駅を探検してみる。

20180703_d43  20180703_d44
ホームは、2階にある。

20180703_d51  20180703_d52
券売機で1日券を購入、24時間使用できるので、明日1日もこれでOK。
さっそく中央駅から16番Straßenbahnに乗車。

20180703_d61  20180703_d62
15分ほど南郊外に行ったところの目的地のTriftweg停留所で下車し、Arno-Nitzsche-Straßeを西に少し歩くと、主翼の上にテーブルが並んでいる飛行機が見えてくるので、タラップを上がる。

20180703_d63  20180703_d64
イスクラさんおすすめの、Il-62である。
ちなみにIl-62は、旧ソ連が開発したソ連にとって初の大型ジェット旅客機で、日本にも乗り入れたことがある。
最近では、朝鮮民主主義人民共和国の金正恩朝鮮労働党委員長の専用機としても、映像が流れている。

20180703_d65  20180703_d66
胴体の中はイベントや貸切で利用できるらしい。
リアエンジンが間近に見える。

20180703_d67  20180703_d68
地上には、エンジンも置かれている。

20180703_d69  20180703_d71
ポリツァイが車を止めて何やらやっている間に、ビールがやってきた。

20180703_d72  20180703_d73
食事もできるので、ここで晩ごはんを済ませてしまうことにした。

20180703_d74  20180703_d75
豚肉の何チャラというのを頼んだのであった。
ビールは、お代わり。

20180703_d76  20180703_d81
最後にエスプレッソ、これで18弱だった。
周囲にはスーパーみたいなものしかないが、家族連れなどけっこう来ている。

20180703_d82  20180703_d83
地上に降りて、眺めてみよう。
尾部から補助輪が出ているのが見える。

20180703_d84  20180703_d85
Interflugの車も置かれているが、動くのかな?

20180703_d86  20180703_d87
機首を後部背面から見る。

20180703_d88  20180703_d89
機首方向から、機体前部、機体後部を見る。

20180703_d91  20180703_d92
近くにいたのでは全体像がわからないので、道路を渡って眺めてみる。

20180703_d93  20180703_d94
ちなみにIl-62は、全長53.12m、全幅43.20m、全高12.35m。
コックピットを見せてもらえるのか聞いたけれど、公開はしていないようだった。
でも、ここいらのドイツ語、あまり聞き取れない。

Il62

20180703_e01  20180703_e02
アンペルマンは、当たり前。

20180703_e11  20180703_e12
タトラ電車も、まだ現役なのか。
ごはんから戻るStraßenbahnで、検札が乗り込んできた。
むろん一日券は持っていたので、何事もなかった。

20180703_e21
旧市街に戻る電車は、タトラではなかった。

20180703_e22  20180703_e23
車椅子ボタンを押すと、低い床面がさらに低くなるのだろう。

20180703_e31
Augustusplatzで下車して、あの日、マズアが指揮していたゲヴァントハウス(Gewandhaus)、そしてすべてはここから始まったニコライ教会(Nikolaikirche)を回ってみた。

20180703_e41  20180703_e42  20180703_e43
ニコライ教会には、明日、ゆっくり来よう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧