東欧革命関連

2020年11月 7日 (土)

物語 東ドイツの歴史 分断国家の挑戦と挫折

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2018年のドイツ行きでは、東であったエリアに行ってきた。
東ドイツ時代はどんな街だったのだろうか、村だったのだろうかと思いながら景色を眺めていたものだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/deutsch-2018.html
そして、先日、「ドイツ統一」を読んだばかりである。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-44f087.html
「ドイツ統一」の著者の見方は、「西」のCDUの立ち位置からの東西両ドイツと「統一」後のドイツの通史ということができるだろう。
けれど、本書の東ドイツへの見方のほうが「ドイツ統一」よりもかなり辛辣であるとの印象が残った。
これは、ドイツ人が見た東ドイツと、ドイツとは一定の関係を持ってはいるが、日本人が見た東ドイツの違いなのだろうか。
とはいえ、著者の立ち位置は、いまひとつはっきりとしない。

P.72に「質の管理がなされていない商品が大量に出回るという計画経済の欠点」、P.73に「社会主義体制下では、消費財が必要なところに供給されずに不足しつつも、物資は退蔵されるという「不足の経済」が生じる」という記述がある。
「質の管理がなされていない商品が大量に出回る」ことや「不足しつつも、物資は退蔵される」ことが「計画経済」や「社会主義体制」の必然的結果のような記述だが、結果としてそうした現象はあったとしても、必然的結果と断定するのはどうなのだろうかと思う。
また、P.102にベルリンの壁が建設された頃の写真が二葉掲げられていて、上の写真は「自由への跳躍」(Sprung in die Freiheit)として有名な写真なのだが、これは「壁」建設が始まった2日後、まだ「壁」になる前の鉄条網で遮断されたときのできごとで、本文との関係からいえば、唐突すぎやしないかと思う。
こうしたことも、本書の著者の立ち位置が判然としないことを示しているのかもしれないし、「物語」であるのかもしれない。

私じしんは、いまだに東ドイツ、DDRを追っているのだが、東ドイツといえば、大学の授業で、「東ドイツの労働者は分業の一部を担っているが、分業での単なる歯車的な存在ではなく、自分が担当する作業について、作業の全体を把握していてその中の任務を理解していて、資本主義体制下の労働者のような歯車としての存在でしかないような労働者ではない」、ということを聞いていたことが始まりと言える。
当時は、日本でも東ドイツは東の優等生として語られていており、そうした見方は自分でも見聞きしていた。
これは、本書P.180の「一九七〇年代、東ドイツは外から見れば安定しており、世界で一〇指に入る先進工業国であるという評価」と重なる。
しかし、著者は、存在していた東ドイツを同時代的に実体験することは、年齢的に不可能だ。
また、1989年は、それまで自分のなかに積み重なっていたドイツだとか、社会主義、資本主義、民主主義だとかといったもろもろとの関係で見なおさなければならなかったし、そのプロセスである種の喪失感がともなったのだが、「一九八九年の変動を思春期に経験した」(P.271)著者は、どのような思いで1989年を見ていたのだろうか。
それはある意味、何にもとらわれないで東ドイツを記述できるということでもある。
であるとしても、実際に行ったわけではなく伝聞でしかないが、現在進行形で東ドイツを見聞きしていた体験がある者からすれば、残念ながら、本書の内容は自分の中に落ちてこないで読み終えてしまったのである。
同じ著者の「歴史としての社会主義 東ドイツの経験」も読んでいるが、本書ほどには落ちてこないということではなかったのは、「歴史としての社会主義 東ドイツの経験」が単著ではないからかしら。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-c5545b.html

「コラム(3) 映画のなかの東ドイツ」に出てくる映画は、「グッバイ・レーニン」「善き人のためのソナタ」「東ベルリンから来た女」「僕たちは希望という名の列車に乗った」「Sonnnenalle」の5本。
最後の「Sonnnenalle」以外は、映画も見たし、DVDも持っている。
「僕たちは希望という名の列車に乗った」は、原著がある。
「グッバイ・レーニン」「僕たちは希望という名の列車に乗った」は、いずれも独語のシナリオ本がある。
「グッバイ・レーニン」「善き人のためのソナタ」はノベライズ本があり、「グッバイ・レーニン」は和訳本、「善き人のためのソナタ」は独語。
「グッバイ・レーニン」
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/good-bye-lenin.html
「僕たちは希望という名の列車に乗った」
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-b5ab06.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-ac0753.html
「バルーン 奇蹟の脱出飛行」は、間に合わなかったか。

巻末の年表と文献は、整理しておこう。

はじめに
序章 東ドイツを知る意味
第1章 新しいドイツの模索―胎動 1945‐1949
第2章 冷戦と過去の重荷を背負って―建国 1949‐1961
コラム(1) オリンピックと東ドイツ
コラム(2) シュタージ
第3章 ウルブリヒトと「奇跡の経済」―安定 1961‐1972
コラム(3) 映画のなかの東ドイツ
コラム(4) 東ドイツ時代のメルケル
第4章 ホーネッカーの「後見社会国家」―繁栄から危機へ 1971‐1980
コラム(5) トラバントと「オスト・プロダクト」の今
コラム(6) 請願と日常生活の政治
第5章 労働者と農民の国の終焉―崩壊 1981‐1990
終章 統一後の矛盾と対峙
あとがき
参考文献
略語一覧
関連年表

河合信晴/著
中央公論新社
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/10/102615.html

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2020年10月13日 (火)

ドイツ統一

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1990年10月3日をはさんで、それまでの東西両ドイツ、「統一」後のドイツの、通史である。
あらたな事実はないが、30年経って当時を振り返るためにはとっつきやすい。
ただし、いくつか課題がある。
1989年10月9日のライプツィヒの月曜デモでの、クルト・マズアの役割は書かれていない。
SED機関紙「Neues Deutschland」を「新しいドイツ」と訳して表記しているが、訳語としてはそのとおりなのだが、「ノイエス・ドイチュラント」で通用するのではないか。
P.87に「一九八九年の秋にソヴィエト帝国が崩壊したとき」という記述があって、あれ、ソ連の崩壊は1991年12月だろうと思ったのだが、この「ソヴィエト帝国」は、ソ連を頂点として東欧諸国を含めた「東」を、著者のスタンスを表しているのだろう。
それはP.137でも同じ考え方で「ソヴィエト帝国」が使われている。

2018年にドイツに行ったとき、ドレスデンの「ドイツ民主共和国の世界」(Die Welt der DDR)という、DDR時代のさまざまなものが展示されている博物館に行ったのだが、教室が再現されているエリアで1989年5月14日のパレードの映像が流れていた。
そのとき、自由ドイツ青年団(Freie Deutsche Jugend、FDJ)の映像で行進曲と歌が流れると、映像を見ていた年配男女が合わせて歌っていた。
同時代の人たちなのだろうが、四半世紀が過ぎ、どのような思いを持っているのだろうか。
その人たちに尋ねることができれば訪ねたかったけれど、アジア人がそばにいるのに当時の歌を歌ってしまうのは、やはりオスタルギーの一面だったのだろうか。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/10_2-die-welt-d.html

P.115以降に旧ドイツ領のことがとりあげられている。
本書では、ポーランドとの国境確定での旧ドイツ領だけであるが、旧ドイツ領については、『旧ドイツ領全史 「国民史」において分断されてきた「境界地域」を読み解く』が詳しく取り扱っている。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-9ed135.html

原著は「Geschichte der deutschen Wiedervereinigung」(ドイツ再統一の歴史)であるが、あえて「統一」としたことについては、訳者がCDUに所属する保守派の著者の評価とともに、解説で詳しく書いている。

「読書案内」があるので、リストアップしておこう。
★は、既読。
また、本源的蓄積がすすむのだろうか。
図説 ドイツの歴史(河出書房新社)★
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-964d.html
ドイツの歴史を知るための50章(明石書店)
自由と統一への長い道(昭和堂)
二つのドイツ 1945-1990(岩波書店)★
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/1945-1990-9035.html
ベルリンの壁 ドイツ分断の歴史(洛北出版)★
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-6108.html
ヨーロッパに架ける橋 東西冷戦とドイツ外交(みすず書房)
東ドイツ史 1945-1990(白水社)
物語 東ドイツの歴史(中公新書・予定)
ゴルバチョフ その人生と時代(白水社)
冷戦終焉二十年 何がどのようにして終わったのか(勁草書房)
東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊(白水社)
1989 東ドイツ史(作品社)
われらが革命 1989年から90年 ライプチッヒ、ベルリン、そしてドイツの統一(彩流社)★
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/198990-cf8e.html
歴史としてのドイツ統一 指導者たちはどう動いたか(岩波書店)

第1章 革命前夜
第2章 平和革命
第3章 国民をめぐる転換
第4章 再統一と世界政治
第5章 編入による統一
結語
訳者解説
略語表
解題付き文献表
関連年譜
人名索引

アンドレアス・レダー/著
板橋拓己/訳
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b527921.html

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2020年7月22日 (水)

ドイツ史3 1890年~現在

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山川の「世界歴史大系」の「ドイツ史」全3巻のうちの第3巻で、ドイツの近現代史である。
ちなみに、第1巻は先史~1648年、第2巻は1648年~1890年までである。
1997年の刊行なので、記述もその頃までであるが、あらためてじっくり読んだ。
ドイツ近現代史の基礎的な事項は網羅されているので、ドイツ関連の書籍文献を読んでいて時代背景などを知りたいときに参考書として使える。

P.277に、ゲオルク・エルザーが、1939年11月8日に、ミュンヘンの「ビュルガーブロイケラー」でヒトラーを暗殺しようとしたが失敗した記述がある。
ミュンヘンには、彼を記念した広場があり、そこに行ってきたことがある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-16dc.html
ビュルガーブロイケラーは、現在はガスタイク文化センターになっている。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-72f2.html

第一章 ヴィルヘルム時代
第二章 第一次世界大戦下のドイツ
第三章 ヴァイマル共和国
第四章 第三帝国の編成
第五章 第三帝国と第二次世界大戦
第六章 ドイツ連邦共和国
第七章 ドイツ民主共和国
第八章 統一ドイツ
補説

木村靖二/著
望田幸男/著
芝健介/著
高橋進/著
平島健司/著
斉藤晢/著
山川出版社
https://www.yamakawa.co.jp/product/46140

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2019年10月12日 (土)

Das schweigende Klassenzimmer/沈黙する教室

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先日見た映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」の原作を、独語原著と翻訳とを同時進行で読む。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-371ced.html
原著のサブタイトルは「Eine wahre Geschichte über Mut, Zusammenhalt und den Kalten Krieg」、「勇気、結束、冷戦についての真実の物語」ってところか。
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邦訳本(本書)のサブタイトルは「1956年東ドイツ—自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語」。

映画と本書とでは、黙祷事件→調査→退学処分→西への逃亡という大筋のストーリーは同じだが、ひとつひとつのエピソードは異なっている。
映画でのような盛り上がりシーンは、ない。
また、映画の登場人物に相当するような人物は、本書には明確には登場しない。
そして、原著は発言をクォーテーションマークで囲んでいないので、発言なのか文章なのかが判然としないところが多々ある。
改行位置も、原著と訳書とでは異なっているところが多い。

そして、「全訳」(訳者あとがき、P.416)となっているが、ところどころ訳されていない文章がある。
●原文「...und im Rückspiel in Budapest mit 7 : 1 nach Hause schickte. Wir konnte die Spiele im DDR Rundfunk verfolgen. Dass diese ungarische Mannschaft im WM-Endspiel 1954 gegen Deutschland verloren hatten...」(P.34)は、「...さらにブダペストで行われた第二試合では、七対一の大差で勝利し、ホームへ送り返したのである。このハンガリーチームは一九五四年のW杯決勝でドイツに敗退したが...」(P.51)と、「Wir konnte die Spiele im DDR Rundfunk verfolgen.」(私たちは東独の放送で試合を追うことができた。)の訳文がない。
●本書P.102の「RIASがハンガリーの自由放送局による支援の呼びかけを流した。」の次の「Einigen von uns ruft er immer noch ins Ohr.」(P.64)が訳されていない。
訳されていない文章は、他にもあり。

また、この訳でいいのかしらと思うところもある。
本書P.18最終行「その三年前にあたる一九五三年六月十一日」、原文は「Drei Jahre zuvor, am 17. Juni 1953」(P.16)、「17」がなぜ「十一日」になった?。
当然「6月17日蜂起」(Aufstand des 17. Juni)であるなら「一九五三年六月十七日」でなきゃ。
本書P.266では「一九五三年六月十七日の暴動」となっている。

これは原著への疑問だが、本書P.27の2行目「それからカラシニコフを構えたロシア兵が穴に入ってきて」、原文は「Denn kam ein Soldat mit einer vorgehaltenen Kalaschnikow.」(P.21)とあるが、「カラシニコフ」が設計したAK-47がソ連で採用されたのは1949年で、ドイツに侵攻したソ連軍は、当時はまだ所持していなかったのではないか。
当時だと、ドラム型弾倉のPPSh-41、バラライカまたはマンドリンではなかったか。
本書P.35の歴史教科書について「(フォルク・ウントヴィセン社)、一九五三年。」とあるが、原文の「Volk und Wissen Volkseigener Verlag Berlin, 1953, das..」(P.25)は「(フォルク・ウントヴィセン社、一九五三年)」とする方がいいと思う。
「人と知識人民出版社」としてしまうかは別として。
なお、「Volk und Wissen Volkseigener Verlag」は再統一後民営化され、存続しているようだ。
https://www.cornelsen.de/empfehlungen/volk-und-wissen
本書p.37「領土の二万八千五百三ヘクタール」の原文は「Gebiet von 28.5 Millionen Hektar」(P.27)だから、「二千八百五十万ヘクタール」だろう。
本書P.65の市長フランツ・ベッカーのが書いた言葉の中に、学校が「民主主義と人文主義の、シンボル」とされている記述があるが、「ein Symbol der Demokratie und des Humanismus」(P.43)は、「人文主義」ではなく「ヒューマニズム」でいいのではないか。
本書P137「大臣にはすでに首謀者の検討がついていた。」は、「大臣にはすでに首謀者の見当がついていた。」
本書P.174「Sバーン」が2か所に出てくるが「(国営の都市近郊鉄道)」と注釈がついているのは、2度目の「Sバーン」、ホントは最初の「Sバーン」につけなきゃ。

以外にも、日本語としてこなれていない、意味不明な文章も多いと感じたのだが、原著著者じしんが文章を生業とする人ではないのだろうし、映画に合わせた突貫工事での翻訳だったであろうことは、想像できる。

シナリオ本もあるので、おいおい読んでみよう。

Dietrich Garstka/著
Ullstein Buchverlage GmbH, Berlin
https://www.ullstein-buchverlage.de/nc/buch/details/das-schweigende-klassenzimmer-9783548607696.html

ディートリッヒ・ガルスカ/著
大川珠季/訳
アルファベータブックス
https://ab-books.hondana.jp/book/b439134.html

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2019年9月11日 (水)

スターリニズム

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わかっているようで、しかし、それぞれの論者によって定義づけられているのでますますわかりにくくなっている「スターリニズム」、これはいったい何なのだ?
著者グレイム・ギルは、「スターリニズム」を「経済」「文化」「社会」「政治」の「四つの相貌」から、その起源や内実を論じ、コンパクトにまとめている。
ガチガチの全体主義だろうとの先入観であまり眼がいくことのなかった、中央と地方との関係、中央による地方や下部組織に対する統制の弱さという指摘は興味深い。
むろん中央の統制が弱いことが民主的だったとか自由だったとかいうことにはならず、地方は地方でミニ・スターリニズムの社会だったのだろう。
国土の広さとインフラの未発達が影響していたのかもしれない。
だとしたら、シベリア抑留でのそれぞれの地方での思惑とモスクワの思惑とは、どのようなものだったのだろうか。
そしてこの指摘は、「全体主義」を考える上で、ファシズムやナチズムと同じようにスターリニズムを置いていいのかという問題提起にもなるだろう。

この中央と地方との関係は、ベトナム戦争でも論じられたことがあることを思い出した。
「ハノイ対話」でのプレイク事件(1965年2月7日のベトナム中部のブレイク空軍基地に対する解放戦線による攻撃)をめぐるやりとりで、「我々はなぜ戦争をしたのか―米国・ベトナム 敵との対話」で触れられている。
アメリカ側は、ブレイク攻撃を北ベトナムによる挑発であり、ハノイからの指令に基づく攻撃であるととらえたのだが、「ハノイ対話」においてはベトナム側から現地司令官が計画し実行された作戦であると言明された。
当時の解放戦線側においては米軍が持っていたよう指揮命令系統・手段は整備されておらず、「自分たちと同じような指揮命令系統を解放戦線も持っていたはずで、すべてハノイからの指令によって作戦が行われた」とするアメリカの判断はとんでもない誤解であるというやりとりであった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-1d9f.html

スターリニズムの要素は、P.86に7点がまとめられている。
(1) 制度上は高度に中央集権化された司令経済システム。大衆動員と重工業発展の最大限の重視を特徴とする。
(2) 初期の段階では、大々的な流動を特徴とした社会構造。なかでも特筆すべきは、かつての下層階級を権力と特権ある地位に引き上げた高水準の社会的流動。その後、社会は安定し、等級や地位、厳格な上下関係が支配する社会構造へと帰結。
(3) 文化的、知的領域では、すべてが指導部の定める政治的目的に奉仕すべきであるとされ、文化的、知的活動の全分野が政治的監視を受けた状態に置かれる。
(4) 当地の手段としてテロルを用いた個人独裁。ここでは、政治組織はほとんど独裁者の道具以上の何物でもなかった。
(5) 国家にとって重要と見なされる限りで、あらゆる生活領域が政治化される。
(6) 権力の中央集権化と、その反面に見られた中央からの日常的統制の著しい弱さ。その結果、実際には日々の活動が厳格な統制を受けず、組織化もされていないシステムが出来上がった。
(7) 初期の革命的な価値規範は、保守的で現状維持の志向によって取って代わられた。
そして「四つの相貌すべてを備えたスターリニズムの登場にとって最も重要だったのは、一九二〇年代末から一九三〇年代初頭にかけての「上からの革命」と一九三〇年代後半のテロルであろう」(P.89~90)とする。
さらに「後進性」と「指導者たちの個人的選択」についての検討となる。

「大テロル」の論考で、NKBDに関して、「存在意義を強く主張しようと躍起になっていた」(P.44)ことで、「敵の摘発を通じて今まで以上に目立つ存在となるばかりか・・・大勢の指導機関として君臨できるから」(P.47)「大テロル」で役割を担ったというように記されているが、NKBD長官のエジョフやベリヤが「大勢の指導機関として君臨」することを考えていた、ということなのだろうか。

ソ連邦が崩壊しロシア連邦となったからといって、「スターリニズム」がなくなったわけではないだろう。
現代ロシアとスターリニズムとの関係も、考えていかなければならない課題なのだと思う。
そして、「経済」「文化」「社会」「政治」の「四つの相貌」から嫌韓な我が国を見たとき、どんな評価をすることができるだろうか。
さらに、奇しくもきょうは9.11。
以前ノーマンメイラーは、アメリカが全体主義に向かいつつあると言ったようだし、鶴見さんもどこかでアメリカの知人にそのようなことを言われたことがあるとか言っていたが、「アメリカ・ファースト」なアメリカは、どう評価できるだろうか。

第二版への序文
判例
第1章 スターリニズムの歴史的起源?
 1 ロシアの後進性
 2 レーニン主義
 3 人格的要因
第2章 スターリニズムの確立
 1 「上からの革命」
 2 文化革命
 4 社会的流動
 4 大テロル
 5 スターリニズムの政治
 6 外国の脅威?
第3章 大戦と盛期スターリニズム
 1 戦時経済
 2 文化的動員
 3 戦時の社会
 4 戦時の政治
 5 盛期スターリン経済
 6 戦後の社会
 7 戦後の文化
 8 政治的相貌
 9 国際的スターリニズム
第4章 スターリニズムの特質
 1 起源の問題
終章 スターリニズムの遺産
 1 公的な場でのスターリニズム
 2 スターリニズムの構造上の帰結)
訳者解説
参考文献・日本語文献案内
関連年表
索引

グレイム・ギル/著
内田健二/訳
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b257739.html

 

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2019年8月30日 (金)

加藤周一、米原万里と行くチェコの旅

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オーストリアからチェコをめぐる旅の中で、加藤周一さんや米原万里さんをキーにして、小森陽一氏、金平茂紀氏、辛淑玉氏の各氏が語り対談した記録で、それぞれの地の様子は、ほとんど記述されないので、チェコの景色を期待してはいけない。
当然、日本の状況を重ね合わせた話になるので、社会批評でもあり、批判的立場にある人の内側も語られる。
本書を読みながら、ここ数年で、日本の狭さはますます進んだのだとひしひしと実感してしまう、ことに辛淑玉氏の語りでは。

P.25~26の「ハプスブルク家の夏の王宮でした。」は、「ハプスブルク家の夏の離宮でした。」でしょう。
P.26の写真にはちゃんと「離宮」となっているし、他のページでも「離宮」となっている。

ウィーンでは、1984年にも触れてほしかった。
展示となると、軍事史博物館にはあって見てきたけれど、他に展示されているかどうかは定かではない。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-e1a12b.html
今は改修で閉館だけど、ウィーンミュージアムの展示は、どうだろうか。

P.45、クーデルカの写真集、持って行ったのか。
先日、プラハから帰ってきてもう一度眺めてみた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-2c1ea7.html

P,180にカフカとチャペックが少し出てくるが、シュベイクについても触れてほしかったな。

小森氏も金平氏も、同世代。
加藤周一さんはむろんのこと父母か祖父母世代、米原万里さんは少し上の姉御の世代。

カラーグラビア
旅のはじめに
第1章 ハプスブルグ家に見る中欧の歴史
 1、ハプスブルグ家とウィーン
>2、権力の歴史から「主役は民」の時代へ
第2章 「プラハの春」と加藤周一
 1、加藤周一「言葉と戦車」と言葉の復権
 2、「言葉と戦車」の今日的な読み方
 3、加藤周一の文学的表現について
第3章 旅先で自らの半生を振り返る
 1、加藤周一と「九条の会」、そして私
 2、ニュースキャスターとして思うこと
 3、反転攻勢のために何が必要か
第4章 チェコの歴史と文化と闘い
 1、チェコの歴史を訪ねて
 2、チェコに見る文化の役割
第5章 米原万里とプラハ、そしてソ連崩壊
 1、プラハ時代の米原万里
 2、ソ連崩壊の過程での米原万里
 3、通訳者、小説家としての米原万里
第6章 中欧から見た日本と日本人
 1、世界から見た日本の教育
 2、リベラル左派の将来をどう考えるか
 3、日本の希望は沖縄にある
第7章 ドイツで自分の居場所を考えた
 1、ユダヤ人とテレジン収容所
 2、殺す側の理屈、殺される側の思い
旅のおわりに

小森陽一、金平茂紀、辛淑玉/著
かもがわ出版
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ka/1013.html

 

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2019年8月14日 (水)

わが青春の国際学連 プラハ1959~1968

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「プラハの春」から51年、そしてこの春プラハを歩いたということで、読んでみる。
本当は、プラハに行く前に読んでおこうと考えていたのだが、結局、今の時期になってしまった。
米原万理さんがプラハで暮らしたのが1959年11月から1964年11月まで、著者のプラハ在住時期(1959年3月から1968年9月)とは重なっている。
しかし、年齢も離れているし、何より決定的に立場の違いが鮮明であるから、邂逅する機会はなかっただろう。

著者の立場はブントで(それは本書刊行当時も変わらないようだ)、日本共産党に対する姿勢は60年第70年代そのままであるが、本書を読むにあたっては全学連内部での争いは、背景として押さえておくべきだろう。
もっとも、ブントの分裂前に著者は日本を出ている。
一方で、ソ連型社会主義の批判者でありながら、ソ連型社会主義国のただなかでのソ連型社会主義を支える任務を持つ組織の一員としての活動記録、という内容も可能だったかもしれない。
しかし著者は、チェコ事件ののち、プラハを去らなければならなかった。
反スターリン主義の著者が長年プラハで活動できたのは、国際学連じたいがソ連型社会主義組織とは言い切れない側面を持っていた(著者も書いているが、国際学連は丸々ソ連の下請け機関というわけではなかったようで、68年後活動できなくなった)としても、プラハで、そして国際学連で、著者が何をしていたのか、どんな議論があったのか、また、国際学連がどのようなことをしていたのか、本書では何もわからない。
私はプラハに居ました、WPO軍を見ました、他の国にも行きました、プラハに居られなくなったのでドイツに行きました、以上報告終わり、であった。
それに、加藤周一氏は1969年にベルリン自由大学に赴任しているが、氏を招くにあたって著者が尽力したというエピソードが書かれているが、これはどういうことなのだろう?

そうしたことが目的で本書を読んだのではないからその点はいいとしても、50年前のプラハの様子や暮らしの様子は、著者が住んでいたあたりの平和広場の写真はあるが、よくわからなかった。
東大を去るにあたって学長に激励されたこと、十数年後に東大に復学できたことも、なぜ?と疑問符はついたままだ。

まえがき
第I部 医学連の活動、そしてプラハへ
 一 そのころ、自分のおかれた座標
 二 プラハへ出発(一九五九年二月)
 三 自己寸史「学生運動へのかかわり」――原水爆禁止のたたかい
 四 1960年代――世界と日本
 五 「冷戦」時代にみる「東側体制」をどう把握するか
第II部 国際学連書記局(プラハ)を舞台に
 一 国際学連(IUS)について
 二 1968年8月20日 チェコスロヴァキアの軍事制圧の現場
 三 国際学連内で日本全学連の占める確固たる位置
 四 世界各国歴訪
 五 プラハからベルリンへ
 六 国際活動で学んだこと
 七 その後の「身のふり方」――14年遅れ四〇歳で医者に
 八 21世紀の世界
書きおえて

石井保男/著
社会評論社
http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/shakaisyugi/ISBN978-4-7845-1479-3.php

 

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2019年7月 6日 (土)

プラハ侵攻1968

Books157
8年前に写真展があり、本書も刊行された。
そのときに入手し読んでいるが、先だってプラハに行って、この写真集に出ている場所も歩いてきたので、もう一度ページをめくることにした。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/1968-92cd.html

グーグルのストリートビューを利用すると、撮影した場所がかなり特定できる。
特定できた場所を、地図に落としてみよう。

Praha_1

Praha_2
P.10〜11:キャプションなし。写真展のリストでは「プラハの町を侵攻するワルシャワ条約機構群(ママ)の戦車、8月21日」:レヴォルチュニー通りを北へ向き、ヴルダヴァ川のシュテファーニクーク橋の手前、したがって戦車の砲塔の大砲は市内に向いていない。(1_praha_1)
P.21:ヴィノフラツカー大通りのラジオ局に向かう最初のデモ参加者:ヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)は、プラハ本駅の南側、国立博物館から東に延びる通り、チャペックの住居に行った時の地下鉄が、この通りの下を走っている。(2_praha_1)
P.22〜23:ČKDのプラハ工場の裏手、フロウビェチーンへと向かう車列(3_praha_2)
P.24〜25:フロウビェチーンへの道路:シェコダの工場はプラハの北東部にあり、その南東に地下鉄の「Hloubětín」駅がある。(3_praha_2)
P.26〜29:ヴィノフラディにて:ヴィノフラディ(Vinohrady)は、チェコの旧市街の東エリア、高級住宅街とされているようで、チャペックの住居もこのエリアにあるが、撮影場所は、わからない。(4_praha_1)
P.30:ソコロフスカー通り:ソコロフスカー通り(Sokolovská)はプラハ本駅の北とヴルダヴァ川の間を東方向に伸びる通りであるが、撮影場所は、わからない。(5_praha_1)
P.31:ヴァーツラフ広場とメジブランスカー通りの交差点:メジブランスカー通り(Mezibranská)は、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)が国立博物館前で交差し南に伸びる道路。(6_praha_1)
P.31:ツェレトナー通り:ツェレトナー通り(Celetná)は旧市街広場と火薬塔との間の通り。(7_praha_1)
P.32〜33:ヴァーツラフ広場とオプレタロヴァ通りの角にあるチェコスロヴァキア通信社に向かう戦車:オプレタロヴァ通り(Opletalova)は、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)が国立博物館寄りで交差し北東に伸びる道路。(8_praha_1)
P.36〜37:ヴィノフラディのマーネソヴァ通り:マーネソヴァ通り(Manesova)は、ヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)の一本北側の通り。(9_praha_1)
P.38〜41:キャプションなし。建物の形状からマーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.46〜47:キャプションなし。16枚の写真のうちの数枚は、建物の形状からマーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.48〜49:キャプションなし。ヴァーツラフ広場の国立博物館前。(6_praha_1)
P.52〜53:キャプションなし。16枚の写真のうちの数枚は、ヴァーツラフ広場。(6_praha_1)
P.58〜59:キャプションなし。背後の建物からヴィノフラツカー大通りのようだ。(13_praha_1)
P.64〜65:キャプションなし。背後の建物からヴルダヴァ川にかかるチェーホフ橋から北側を見ているようだ。(19_praha_1)
P.67:共産党中央委員会を監視する兵士たち:チェコスロヴァキア共産党(Komunistická strana Československa (KSČ))中央委員会本部は、現在のチェコ交通省ビル。(10_praha_1)
P.68:共産党中央委員会前にて(10_praha_1)
P.70〜71:党中央委員会前で国歌を歌う人々(10_praha_1)
P.74〜75:旧市街広場:ヤン・フス像、その奥にキンスキー宮殿、右に石の鐘の家、ティーン教会。(11_praha_1)
P.76〜77:ヴァーツラフ広場:広場の中央あたりで国立博物館を背にしての広場風景。(12_praha_1)
P.79:銃撃の証拠としての弾薬:背後の建物は国立博物館。(12_praha_1)
P.85:チェコスロヴァキア・ラジオ局に向かう装甲車に対する人々の反応(13_praha_1)
P.86〜87:チェコスロヴァキア・ラジオ局前での指示を出すロシア士官(13_praha_1)
P.88:ヴィノフラツカー大通りのチェコスロヴァキア・ラジオ局前(13_praha_1)
P.90〜91:ヴィノフラツカー大通りとイタルスカー通りの交差点:イタルスカー通り(Italská)は、プラハ本駅の東側を南北に通っており、写真の左上に写る特徴のある建物から撮影場所は国立博物館側からヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)を東に向きイタルスカー通り(Italská)との交差点の西側手前であることが特定でき、現在もチェコ放送(Český rozhlas、ČRo)がある。(13_praha_1)
P.96〜97:ヴァーツラフ広場:背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.98:ヴァーツラフ広場:国立博物館側からのヴァーツラフ広場。(12_praha_1)
P.100〜101:キャプションなし。国立博物館前とヴァーツラフ広場。(12_praha_1)
P.102〜103:共和国広場:市民会館に面した広場、建物の形状から広場の北側のようだ。(14_praha_1)
P.110〜111:キャプションなし。背後の建物からヴィノフラツカー大通りのようだ。(13_praha_1)
P.113:チェコスロヴァキア・ラジオ局の防衛(13_praha_1)
P.114〜115:キャプションなし。建物の形状からマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。1枚は市電の線路が見えるので、ヴィノフラツカー大通りかもしれない。 (13_praha_1)
P.116〜117:チェコスロヴァキア・ラジオ局のあるヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)
P.118〜119:キャプションなし。ヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)とマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。
P.120〜121:キャプションなし。ヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)とマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。
P.126〜127:ヴィノフラツカー大通り。放火された戦車から出てくる兵士たち(13_praha_1)
P.128〜129:キャプションなし。マーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.130〜131:キャプションなし。マーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.132〜133:チェコスロヴァキア・ラジオ局の占領に向かうロシア兵(13_praha_1)
P.144〜145:ヴィノフラツカー大通りの、銃撃を受けて出火した建物(13_praha_1)
P.152〜153:チェコスロヴァキア・ラジオ局での攻防の犠牲者(13_praha_1)
P.164:オルシャヌイ墓地近くでの葬送の行列:写真の右の木立が墓地、ちょうど現在の地下鉄Flora駅前で、このあたりはチャペックの住居に行ったときに歩いた。(15_praha_1)
P.164:侵攻による犠牲者の記念碑、ヴァーツラフ広場にて:国立博物館側を背後にした聖ヴァーツラフ像の前。(12_praha_1)
P.171:ヴァーツラフ広場:国立博物館方向。(12_praha_1)
P.174〜175:2度にわたり、人がいなくなったヴァーツラフ広場―8月22日、23日:ヴァーツラフ広場の北西端の建物の上から国立博物館を見ているようだ。(12_praha_1)
P.182〜183:ヴァーツラフ広場のソ連軍の戦車:ヴァーツラフ広場の北西端の建物の上から聖ヴァーツラフ像と国立博物館方向。(12_praha_1)
P.190:キャプションなし。背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.191:占領反対を訴える新聞の配布:背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.193:臨時党大会の準備がおこなわれているヴィソチャヌイの工場前:プラハ北東部に、Praha-Vysočany駅があるので、その辺りの工場なのだろう。(16_praha_2)
P.194〜195:共和国広場:市民会館前から北東方向。(14_praha_1)
P.196:ヴァーツラフ広場の聖ヴァーツラフ像(12_praha_1)
P.206〜207:ナ・プシーコビェにて:ナ・プシーコビェ(Na Příkopě)は、ヴァーツラフ広場の北西端から共和国広場に向かう大通り。(17_praha_1)
P.208〜209:キャプションなし。背後は聖ヴァーツラフ像。(12_praha_1)
P.211:聖ヴァーツラフ像の前の若者たち(12_praha_1)
P.212〜213:ナ・プシーコビェでのデモ:背後に見える建物はヴァーツラフ広場との角に立つ建物なので、ヴァーツラフ広場から共和国広場に向かって行進していることになる。(17_praha_1)
P.220〜221:すわり込みの抗議:国立博物館を背後に聖ヴァーツラフ像のまわりで人々が座り込んでいる。他の写真でもそうだが、当時は市電が聖ヴァーツラフ像のとこおまで走っていたようだ。(12_praha_1)
P.224〜225:ヴァーツラフ広場:国立博物館と聖ヴァーツラフ像との間。(12_praha_1)
P.228〜229:血のついた「ソヴボドネー・スロヴォ」紙を手にした新聞売り:国立博物館を背後に聖ヴァーツラフ像が見える。(12_praha_1)
P.230:ロシア語で「なぜ」のプラカード:共和国広場、市民会館前から北東方向。(14_praha_1)
P.231:インジシュスカー通り:ヴァーツラフ広場の中ほどから北東方向にプラハ本駅に至る通り。(18_praha_1)
P.231:ドゥプチェクの写真を掲げて抗議する人々。旧市街:ティーン教会を背後に旧市街広場の旧市庁舎前。(11_praha_1)
P.235:ヴィノフラディの墓場にて:オルシャヌイ墓地か。(4_praha_1)
P.250〜251:占領反対のスローガンが記されたトレーラ、ヴァーツラフ広場(12_praha_1)
P.268〜269:旧市街広場:ヤン・フス像、右に旧市庁舎が見えるので、北側から南方向を見ている。(11_praha_1)
P.270〜271:旧市街広場:ヤン・フス像、奥に聖ミクラーシュ教会が見えるので、ティーン教会の前から見ている。(11_praha_1)
P.272:キャプションなし。市民会館前の共和国広場。(14_praha_1)
P.273:キャプションなし。旧市庁舎前。(11_praha_1)
P.274:キャプションなし。ヤン・フス像の土台があるので旧市街広場。(11_praha_1)

「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」写真展展示リスト
https://topmuseum.jp/upload/3/1353/koudlka.pdf
http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-1353.html

 

ジョセフ・クーデルカ(Josef Koudelka)/著
阿部賢一/訳
平凡社
https://www.heibonsha.co.jp/book/b157734.html

 

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2019年4月19日 (金)

歴史としての社会主義 東ドイツの経験

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2018年夏、ドイツを歩いてきて印象的だったことのひとつは、ドレスデンでのできごとである。
ドレスデンでは「ドイツ民主共和国の世界」(Die Welt der DDR)、つまりDDR博物館に行ってきたのだが、そこにはDDR時代の暮らしや仕事などの場が再現され、日常生活で使われた多くの道具類などの様々なモノたちが集められ展示されている。
学校の教室も再現されていて、そこでは若いホーネッカーの写真が掲げられ、テレビの画面からは1989年5月14日のパレードの映像が流れていた。
パレードでの自由ドイツ青年団(Freie Deutsche Jugend、FDJ)の映像で行進曲と歌が流れると、映像を見ていた年配男女が合わせて歌っている。
同時代の人たちなのだろうが、四半世紀が過ぎ、この映像を見てどのような思いを持っているのだろうかと思ったものだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/10_2-die-welt-d.html
Die Welt der DDR
https://www.weltderddr.de/

また、本書「第三章 農村の社会主義体験 土地改革から農業集団化へ(一九四五―一九六〇)」でバート・ドベラン郡の農村が取り上げられているが、ここにも2018年に行ってきた。
もっとも目的はモリー鉄道であるが、ロストックからバート・ドベランに向かうローカル線の車窓から、あるいはモリー鉄道の車窓から畑は見ているのだが、そのときはこの国の農村の歴史については頭をかすめなかった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_3-von-bad-dob.html
そして、この日の朝散歩したときに廃墟があって、何だろうと思ったことはある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_1-morgen-von.html
廃墟は、モリー鉄道の終点キュールングスボルンにもあった。
執筆者が行ったケーグスドルフ村は、キュールングスボルンよりさらに南西数キロのところに位置している。
ホーエンフェルデ村はバート・ドベランの南2キロのところにある村で、バート・ドベランに到着するときに車窓から見た景色がその一部だったのだろう。

学生の頃、何の授業でだったかは忘れたが、「東ドイツの労働者は、分業での単なる歯車的な存在ではなく、自分が担当する作業について、作業の全体を把握していてその中の任務を理解している」というようなことを教えられたことがある。
そのときは、ふうん、社会主義的人間とはそういうものかとして聞いたのだが、本書での「作業班」での作業が、もしかしたらその意味なのかもしれない。
それは本書に引用されている文献での「私たちの企業」、「自分が影響力をもっていると感じた」、「働きに行くのが好きだった」(P.88)といった労働者の思いとなっているのだろう。

「第五章 東ドイツでの余暇活動」の「3 「不測の社会」下における余暇」の「(2)消費財の「不足」と余暇」で語られる消費財の不足の状況は、「グッバイ・レーニン」でも描かれていた。

「第八章 東ドイツ「平和革命」と教会 建設兵士の活動を中心に」では、ライプツィヒのニコライ教会の活動が取り上げられているが、その「月曜デモ」などの活動は1989年に突然起こったのではなく、1981年9月13日の「平和の祈り」から始まったこと、以後の活動で「棲み分け」を求める教会指導部とも対立していったこと、1989年においても教会指導部と活動ウループトの間に揺れがあったことなど、その頃の様子をあらためて見ることができた。
この章のの「3 建設兵士らによる平和を求める活動」の「(3)徴兵制の変革を求める活動」での「剣を鍬に」運動で使用された図柄の原典となった「旧約聖書」の「ミカ書」4章3節は、注に一部が載っているが、全文は「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」である。

執筆陣の世代によって、「社会主義」への想いの差が表れているのは、1989年以降の歴史を物語っている。
そして、巻末の「東ドイツ史略年表」は、以前さまざまな文献や書籍から作成した年表「ドイツを中心とした東欧史」を補完してくれる。

ドイツを中心とした東欧史
(1)1945〜1946 (2)1947〜1949 (3)1950〜1954
(4)1955〜1957 (5)1958〜1963 (6)1964〜1967
(7)1968 (8)1969〜1970 (9)1971〜1972
(10)1973 (11)1974 (12)1975
(13)1976〜1978 (14)1979 (15)1980
(16)1981 (17)1982〜1983 (18)1984
(19)1985 (20)1986〜1987 (21)1988
(22)1989(1-8) (23)1989(9-12) (24)1990(1-5)
(25)1990(6-12) (26)1991〜1993 (27)1994〜1998
(28)1999〜2000 (29)2001〜2002 (30)2001〜2005

第I部 いまなぜ東ドイツか
 第一章 歴史としての東ドイツ
 第二章 東ドイツ研究の現在
第II部 東ドイツ社会を生きる
 第三章 農村の社会主義体験 土地改革から農業集団化へ(一九四五―一九六〇)
 第四章 職場における「つながり」 工業企業現場の実態
 第五章 東ドイツでの余暇活動 休暇旅行の実態から
 第六章 高齢者と社会
 第七章 東ドイツのポピュラー音楽の系譜
 第八章 東ドイツ「平和革命」と教会 建設兵士の活動を中心に
第III部 歴史としての社会主義
 第九章 思想としての社会主義/現に存在した社会主義
 第一〇章 東ドイツの「中間グループ」の役割
 第一一章 社会主義経済再考 東ドイツ計画経済の現実
あとがき
参考文献
東ドイツ史略年表
索引

川越修/編著
河合信晴/編著
ナカニシヤ出版
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b239954.html

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2018年10月28日 (日)

東西ベルリン動物園大戦争

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ベルリンのツォーには行ったことがある。
この夏にもドイツに行き、ライプツィヒやドレスデンも歩いてきた。
プラン段階ではライプツィヒ動物園は行きたいところリストに載せていたのだが、実際には時間を取ることができずに行かなかった。
ドレスデン動物園は、行きたいところリストには載せていなかった。

「ワニのスープが動物園の腹ぺこの職員にふるまわれた」(P.30)で、「ベルリンは晴れているか」を思い出した。
職員ではないが、「ワニのスープ」が出てくる(「ベルリンは~」P.142あたり)し、それを怒る飼育員も登場する。
高射砲塔も、グスタフという名前で出てきた。
高射砲塔はウィーンには残っていて、アウガルテンにある塔は壊すに壊すことができないでそのまま、6区にある塔は水族館になっている。
ベルリン動物園の動物で生き延びたのは89頭とされていた(同P.152)が、本書によれば91頭だったようだ。(P.36)

「VEB」(P.86)を「国営企業」と訳してあるのだが、「Volkseigener Betrieb」の「Volks」に注目するなら「人民所有企業」「人民企業」のほうが「らしい」感じはする。
89年に「Wir sind das Volk」が叫ばれたように、「Volks」がついていても、実態は国営の一形態なのだろうが。

1989年に至って、ライプツィヒの幾つかの地名が出てくる。
ヨルク・アドラーが通っていたニコライ教会(P.309)には、二度行った。

アドラーが呼び出しをくらった内務局について、「ライプツィヒ市役所にあるシュタージの別名」(P.310)としているが、いまの旧国家保安省記念館(Gedenkstätte Museum in der „Runden Ecke“)とは別の場所なのだろうか。

そして1989年10月7日にアドラーがデモに参加して放水車の水を浴びた「カールマルクス広場(訳註 現在のアウグストゥス広場)とグリマーイッシュ通りが交わる角」(P.312)も、最初にニコライ教会に行くときにゲヴァントハウスの前から歩いたときの角だ。

登場人物が多いので、後半になるにつれて人間関係がだんだんわからなくなってしまう。
それにしてもいずれも強烈な個性の持ち主のようで、もともとそのような人物像だったのか、本書の中でそのような人物としてある程度デフォルメされて描かれたのかわからないけれど、この園長たちの下で働くのは大変そうだ。
もっとも、わからんちんの当局と渡り合うためには、そうしたキャラクターも必要だったということなのかもしれない。

戦後の動物園事情、動物たちに対する向き合い方などは疑問を抱いてしまうが、そういう時代だったのだろう。
1950年代後半から1960年代にかけて住んでいたところには阪神パークが、電車に乗って行ったところには須磨水族館があり、よく親に連れて行ってもらった。
阪神パークは「レオポン」(牡ヒョウと牝ライオンの子)を生んだのだが、今の動物飼育の基準からすると、あまり褒められたものではないのかもしれない。
レオポンは、かはくでの「人体」展で、剥製が展示されていた。

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雑誌AERAのNo.50(’18,10,22)に掲載された書評。

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プロローグ――動物園人
第1章 戦争とワニの尻尾のスープ
第2章 動物園フィーバー
第3章 第四の男
第4章 パンダと国家の威信
第5章 狩猟家と収集家
第6章 大きな計画、小さな魚
第7章 一つの島に二頭のクマ
第8章 灰色の巨人、倒れる
エピローグ――古い男たちと新しい時代
その後
謝辞
訳者あとがき
監修者解説

ヤン・モーンハウプト/著
黒鳥英俊/監修
赤坂桃子/訳
CCCメディアハウス

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