ソ連・東欧関連

2019年10月12日 (土)

Das schweigende Klassenzimmer/沈黙する教室

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先日見た映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」の原作を、独語原著と翻訳とを同時進行で読む。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-371ced.html
原著のサブタイトルは「Eine wahre Geschichte über Mut, Zusammenhalt und den Kalten Krieg」、「勇気、結束、冷戦についての真実の物語」ってところか。
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邦訳本(本書)のサブタイトルは「1956年東ドイツ—自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語」。

映画と本書とでは、黙祷事件→調査→退学処分→西への逃亡という大筋のストーリーは同じだが、ひとつひとつのエピソードは異なっている。
映画でのような盛り上がりシーンは、ない。
また、映画の登場人物に相当するような人物は、本書には明確には登場しない。
そして、原著は発言をクォーテーションマークで囲んでいないので、発言なのか文章なのかが判然としないところが多々ある。
改行位置も、原著と訳書とでは異なっているところが多い。

そして、「全訳」(訳者あとがき、P.416)となっているが、ところどころ訳されていない文章がある。
●原文「...und im Rückspiel in Budapest mit 7 : 1 nach Hause schickte. Wir konnte die Spiele im DDR Rundfunk verfolgen. Dass diese ungarische Mannschaft im WM-Endspiel 1954 gegen Deutschland verloren hatten...」(P.34)は、「...さらにブダペストで行われた第二試合では、七対一の大差で勝利し、ホームへ送り返したのである。このハンガリーチームは一九五四年のW杯決勝でドイツに敗退したが...」(P.51)と、「Wir konnte die Spiele im DDR Rundfunk verfolgen.」(私たちは東独の放送で試合を追うことができた。)の訳文がない。
●本書P.102の「RIASがハンガリーの自由放送局による支援の呼びかけを流した。」の次の「Einigen von uns ruft er immer noch ins Ohr.」(P.64)が訳されていない。
訳されていない文章は、他にもあり。

また、この訳でいいのかしらと思うところもある。
本書P.18最終行「その三年前にあたる一九五三年六月十一日」、原文は「Drei Jahre zuvor, am 17. Juni 1953」(P.16)、「17」がなぜ「十一日」になった?。
当然「6月17日蜂起」(Aufstand des 17. Juni)であるなら「一九五三年六月十七日」でなきゃ。
本書P.266では「一九五三年六月十七日の暴動」となっている。

これは原著への疑問だが、本書P.27の2行目「それからカラシニコフを構えたロシア兵が穴に入ってきて」、原文は「Denn kam ein Soldat mit einer vorgehaltenen Kalaschnikow.」(P.21)とあるが、「カラシニコフ」が設計したAK-47がソ連で採用されたのは1949年で、ドイツに侵攻したソ連軍は、当時はまだ所持していなかったのではないか。
当時だと、ドラム型弾倉のPPSh-41、バラライカまたはマンドリンではなかったか。
本書P.35の歴史教科書について「(フォルク・ウントヴィセン社)、一九五三年。」とあるが、原文の「Volk und Wissen Volkseigener Verlag Berlin, 1953, das..」(P.25)は「(フォルク・ウントヴィセン社、一九五三年)」とする方がいいと思う。
「人と知識人民出版社」としてしまうかは別として。
なお、「Volk und Wissen Volkseigener Verlag」は再統一後民営化され、存続しているようだ。
https://www.cornelsen.de/empfehlungen/volk-und-wissen
本書p.37「領土の二万八千五百三ヘクタール」の原文は「Gebiet von 28.5 Millionen Hektar」(P.27)だから、「二千八百五十万ヘクタール」だろう。
本書P.65の市長フランツ・ベッカーのが書いた言葉の中に、学校が「民主主義と人文主義の、シンボル」とされている記述があるが、「ein Symbol der Demokratie und des Humanismus」(P.43)は、「人文主義」ではなく「ヒューマニズム」でいいのではないか。
本書P137「大臣にはすでに首謀者の検討がついていた。」は、「大臣にはすでに首謀者の見当がついていた。」
本書P.174「Sバーン」が2か所に出てくるが「(国営の都市近郊鉄道)」と注釈がついているのは、2度目の「Sバーン」、ホントは最初の「Sバーン」につけなきゃ。

以外にも、日本語としてこなれていない、意味不明な文章も多いと感じたのだが、原著著者じしんが文章を生業とする人ではないのだろうし、映画に合わせた突貫工事での翻訳だったであろうことは、想像できる。

シナリオ本もあるので、おいおい読んでみよう。

Dietrich Garstka/著
Ullstein Buchverlage GmbH, Berlin
https://www.ullstein-buchverlage.de/nc/buch/details/das-schweigende-klassenzimmer-9783548607696.html

ディートリッヒ・ガルスカ/著
大川珠季/訳
アルファベータブックス
https://ab-books.hondana.jp/book/b439134.html

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2019年9月16日 (月)

希望のかたわれ

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ひょんな経緯で、訳者から本書をいただくことになった。
内容は重たそうなのですぐには読まないでいたのだが、そういつまでも積ん読状態でいるのはいかがなものかということで読み始め、数多い(紹介ページは2ページにわたる)登場人物のことがおおむね理解できた中盤あたりから、一挙に読み進むことになってしまった。
時間軸と空間軸が交差しながら話が進行していく手法は本書ばかりではないが、本書ではさらに手記というかたちで「過去」が絡んでいる。
その「過去」も、現在進行形の話に収斂する。
チェルノブイリへの対応、モスクワがどこまで知っていてどのような対応を指示したのか、現地がどこまで状況を把握し対応しようとしたのか。
そして、モスクワや現地は、住民たちにどう対応したのか。
そこに、スターリン時代やブレジネフ時代の影響が残っていたのかどうか。
ブレジネフの死去が1982年11月10日、その後アンドロポフ、チェルネンコと短命の書記長が続き、ゴルバチョフの書記長就任が1985年3月11日。
チェルノブイリ原子力発電所の事故は、1986年4月26日。
当時、中央地方のほとんどの指導部の人たちの頭の中には、政治状況の揺り戻しについてチラチラしていたのではなかろうか。
そう思いながら、千葉や伊豆諸島での15号台風による被害、そして対応、「棄民」という言葉が頭のなかをぐるぐる回る。

ヨーロッパの街を歩くと、それらしきエリアがあったり女性が立っていたりするのをよく見ることがあるのだが、職業として認められているといっても、その背景にあるものを見ないで、認められているからOKではいかんのじゃないか。
韓国との問題にしても、強制か自由意志かの問題じゃない。
人として許せるの?、だと思うのだが。
西ヨーロッパにとっての東ヨーロッパは、日本にとってのアジアか。

「希望のかたわれ」、原著タイトルは「DIE ANDERE HÄLFTE DER HOFFNUNG」、直訳的には「べつの半分の希望」ということになるのだろうが、「かたわれ」にしても「べつの半分」にしても、それはなんだ?
手記には、いろいろなところで「希望」について書かれている。
数々の「希望」のうしろには数々の「絶望」があるのだろうが、もうすぐ観ることができる遅筆堂のお芝居には「絶望するな!」と叫ぶシーンがあって、「希望」には裏切られルカもしれないけれど、「絶望」だけは御免こうむりたい。

それにしても、まとまらない、まとめられない。
なので、「ロシア人の名前、覚えにくい」としておこう。

なお、萩尾望都さんが「私が薦める河出の本」に本書を書いている。
http://web.kawade.co.jp/sp130th/524/

メヒティルト・ボルマン/著
赤坂桃子/訳
河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309206813/

 

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2019年9月11日 (水)

スターリニズム

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わかっているようで、しかし、それぞれの論者によって定義づけられているのでますますわかりにくくなっている「スターリニズム」、これはいったい何なのだ?
著者グレイム・ギルは、「スターリニズム」を「経済」「文化」「社会」「政治」の「四つの相貌」から、その起源や内実を論じ、コンパクトにまとめている。
ガチガチの全体主義だろうとの先入観であまり眼がいくことのなかった、中央と地方との関係、中央による地方や下部組織に対する統制の弱さという指摘は興味深い。
むろん中央の統制が弱いことが民主的だったとか自由だったとかいうことにはならず、地方は地方でミニ・スターリニズムの社会だったのだろう。
国土の広さとインフラの未発達が影響していたのかもしれない。
だとしたら、シベリア抑留でのそれぞれの地方での思惑とモスクワの思惑とは、どのようなものだったのだろうか。
そしてこの指摘は、「全体主義」を考える上で、ファシズムやナチズムと同じようにスターリニズムを置いていいのかという問題提起にもなるだろう。

この中央と地方との関係は、ベトナム戦争でも論じられたことがあることを思い出した。
「ハノイ対話」でのプレイク事件(1965年2月7日のベトナム中部のブレイク空軍基地に対する解放戦線による攻撃)をめぐるやりとりで、「我々はなぜ戦争をしたのか―米国・ベトナム 敵との対話」で触れられている。
アメリカ側は、ブレイク攻撃を北ベトナムによる挑発であり、ハノイからの指令に基づく攻撃であるととらえたのだが、「ハノイ対話」においてはベトナム側から現地司令官が計画し実行された作戦であると言明された。
当時の解放戦線側においては米軍が持っていたよう指揮命令系統・手段は整備されておらず、「自分たちと同じような指揮命令系統を解放戦線も持っていたはずで、すべてハノイからの指令によって作戦が行われた」とするアメリカの判断はとんでもない誤解であるというやりとりであった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-1d9f.html

スターリニズムの要素は、P.86に7点がまとめられている。
(1) 制度上は高度に中央集権化された司令経済システム。大衆動員と重工業発展の最大限の重視を特徴とする。
(2) 初期の段階では、大々的な流動を特徴とした社会構造。なかでも特筆すべきは、かつての下層階級を権力と特権ある地位に引き上げた高水準の社会的流動。その後、社会は安定し、等級や地位、厳格な上下関係が支配する社会構造へと帰結。
(3) 文化的、知的領域では、すべてが指導部の定める政治的目的に奉仕すべきであるとされ、文化的、知的活動の全分野が政治的監視を受けた状態に置かれる。
(4) 当地の手段としてテロルを用いた個人独裁。ここでは、政治組織はほとんど独裁者の道具以上の何物でもなかった。
(5) 国家にとって重要と見なされる限りで、あらゆる生活領域が政治化される。
(6) 権力の中央集権化と、その反面に見られた中央からの日常的統制の著しい弱さ。その結果、実際には日々の活動が厳格な統制を受けず、組織化もされていないシステムが出来上がった。
(7) 初期の革命的な価値規範は、保守的で現状維持の志向によって取って代わられた。
そして「四つの相貌すべてを備えたスターリニズムの登場にとって最も重要だったのは、一九二〇年代末から一九三〇年代初頭にかけての「上からの革命」と一九三〇年代後半のテロルであろう」(P.89~90)とする。
さらに「後進性」と「指導者たちの個人的選択」についての検討となる。

「大テロル」の論考で、NKBDに関して、「存在意義を強く主張しようと躍起になっていた」(P.44)ことで、「敵の摘発を通じて今まで以上に目立つ存在となるばかりか・・・大勢の指導機関として君臨できるから」(P.47)「大テロル」で役割を担ったというように記されているが、NKBD長官のエジョフやベリヤが「大勢の指導機関として君臨」することを考えていた、ということなのだろうか。

ソ連邦が崩壊しロシア連邦となったからといって、「スターリニズム」がなくなったわけではないだろう。
現代ロシアとスターリニズムとの関係も、考えていかなければならない課題なのだと思う。
そして、「経済」「文化」「社会」「政治」の「四つの相貌」から嫌韓な我が国を見たとき、どんな評価をすることができるだろうか。
さらに、奇しくもきょうは9.11。
以前ノーマンメイラーは、アメリカが全体主義に向かいつつあると言ったようだし、鶴見さんもどこかでアメリカの知人にそのようなことを言われたことがあるとか言っていたが、「アメリカ・ファースト」なアメリカは、どう評価できるだろうか。

第二版への序文
判例
第1章 スターリニズムの歴史的起源?
 1 ロシアの後進性
 2 レーニン主義
 3 人格的要因
第2章 スターリニズムの確立
 1 「上からの革命」
 2 文化革命
 4 社会的流動
 4 大テロル
 5 スターリニズムの政治
 6 外国の脅威?
第3章 大戦と盛期スターリニズム
 1 戦時経済
 2 文化的動員
 3 戦時の社会
 4 戦時の政治
 5 盛期スターリン経済
 6 戦後の社会
 7 戦後の文化
 8 政治的相貌
 9 国際的スターリニズム
第4章 スターリニズムの特質
 1 起源の問題
終章 スターリニズムの遺産
 1 公的な場でのスターリニズム
 2 スターリニズムの構造上の帰結)
訳者解説
参考文献・日本語文献案内
関連年表
索引

グレイム・ギル/著
内田健二/訳
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b257739.html

 

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2019年8月30日 (金)

加藤周一、米原万里と行くチェコの旅

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オーストリアからチェコをめぐる旅の中で、加藤周一さんや米原万里さんをキーにして、小森陽一氏、金平茂紀氏、辛淑玉氏の各氏が語り対談した記録で、それぞれの地の様子は、ほとんど記述されないので、チェコの景色を期待してはいけない。
当然、日本の状況を重ね合わせた話になるので、社会批評でもあり、批判的立場にある人の内側も語られる。
本書を読みながら、ここ数年で、日本の狭さはますます進んだのだとひしひしと実感してしまう、ことに辛淑玉氏の語りでは。

P.25~26の「ハプスブルク家の夏の王宮でした。」は、「ハプスブルク家の夏の離宮でした。」でしょう。
P.26の写真にはちゃんと「離宮」となっているし、他のページでも「離宮」となっている。

ウィーンでは、1984年にも触れてほしかった。
展示となると、軍事史博物館にはあって見てきたけれど、他に展示されているかどうかは定かではない。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-e1a12b.html
今は改修で閉館だけど、ウィーンミュージアムの展示は、どうだろうか。

P.45、クーデルカの写真集、持って行ったのか。
先日、プラハから帰ってきてもう一度眺めてみた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-2c1ea7.html

P,180にカフカとチャペックが少し出てくるが、シュベイクについても触れてほしかったな。

小森氏も金平氏も、同世代。
加藤周一さんはむろんのこと父母か祖父母世代、米原万里さんは少し上の姉御の世代。

カラーグラビア
旅のはじめに
第1章 ハプスブルグ家に見る中欧の歴史
 1、ハプスブルグ家とウィーン
>2、権力の歴史から「主役は民」の時代へ
第2章 「プラハの春」と加藤周一
 1、加藤周一「言葉と戦車」と言葉の復権
 2、「言葉と戦車」の今日的な読み方
 3、加藤周一の文学的表現について
第3章 旅先で自らの半生を振り返る
 1、加藤周一と「九条の会」、そして私
 2、ニュースキャスターとして思うこと
 3、反転攻勢のために何が必要か
第4章 チェコの歴史と文化と闘い
 1、チェコの歴史を訪ねて
 2、チェコに見る文化の役割
第5章 米原万里とプラハ、そしてソ連崩壊
 1、プラハ時代の米原万里
 2、ソ連崩壊の過程での米原万里
 3、通訳者、小説家としての米原万里
第6章 中欧から見た日本と日本人
 1、世界から見た日本の教育
 2、リベラル左派の将来をどう考えるか
 3、日本の希望は沖縄にある
第7章 ドイツで自分の居場所を考えた
 1、ユダヤ人とテレジン収容所
 2、殺す側の理屈、殺される側の思い
旅のおわりに

小森陽一、金平茂紀、辛淑玉/著
かもがわ出版
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ka/1013.html

 

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2019年8月14日 (水)

わが青春の国際学連 プラハ1959~1968

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「プラハの春」から51年、そしてこの春プラハを歩いたということで、読んでみる。
本当は、プラハに行く前に読んでおこうと考えていたのだが、結局、今の時期になってしまった。
米原万理さんがプラハで暮らしたのが1959年11月から1964年11月まで、著者のプラハ在住時期(1959年3月から1968年9月)とは重なっている。
しかし、年齢も離れているし、何より決定的に立場の違いが鮮明であるから、邂逅する機会はなかっただろう。

著者の立場はブントで(それは本書刊行当時も変わらないようだ)、日本共産党に対する姿勢は60年第70年代そのままであるが、本書を読むにあたっては全学連内部での争いは、背景として押さえておくべきだろう。
もっとも、ブントの分裂前に著者は日本を出ている。
一方で、ソ連型社会主義の批判者でありながら、ソ連型社会主義国のただなかでのソ連型社会主義を支える任務を持つ組織の一員としての活動記録、という内容も可能だったかもしれない。
しかし著者は、チェコ事件ののち、プラハを去らなければならなかった。
反スターリン主義の著者が長年プラハで活動できたのは、国際学連じたいがソ連型社会主義組織とは言い切れない側面を持っていた(著者も書いているが、国際学連は丸々ソ連の下請け機関というわけではなかったようで、68年後活動できなくなった)としても、プラハで、そして国際学連で、著者が何をしていたのか、どんな議論があったのか、また、国際学連がどのようなことをしていたのか、本書では何もわからない。
私はプラハに居ました、WPO軍を見ました、他の国にも行きました、プラハに居られなくなったのでドイツに行きました、以上報告終わり、であった。
それに、加藤周一氏は1969年にベルリン自由大学に赴任しているが、氏を招くにあたって著者が尽力したというエピソードが書かれているが、これはどういうことなのだろう?

そうしたことが目的で本書を読んだのではないからその点はいいとしても、50年前のプラハの様子や暮らしの様子は、著者が住んでいたあたりの平和広場の写真はあるが、よくわからなかった。
東大を去るにあたって学長に激励されたこと、十数年後に東大に復学できたことも、なぜ?と疑問符はついたままだ。

まえがき
第I部 医学連の活動、そしてプラハへ
 一 そのころ、自分のおかれた座標
 二 プラハへ出発(一九五九年二月)
 三 自己寸史「学生運動へのかかわり」――原水爆禁止のたたかい
 四 1960年代――世界と日本
 五 「冷戦」時代にみる「東側体制」をどう把握するか
第II部 国際学連書記局(プラハ)を舞台に
 一 国際学連(IUS)について
 二 1968年8月20日 チェコスロヴァキアの軍事制圧の現場
 三 国際学連内で日本全学連の占める確固たる位置
 四 世界各国歴訪
 五 プラハからベルリンへ
 六 国際活動で学んだこと
 七 その後の「身のふり方」――14年遅れ四〇歳で医者に
 八 21世紀の世界
書きおえて

石井保男/著
社会評論社
http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/shakaisyugi/ISBN978-4-7845-1479-3.php

 

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2019年8月 6日 (火)

犬が星見た ロシア紀行

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ロシア絡みで読もうと思ったのは、昨年暮れの「ロマンティック・ロシア展」の影響である。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/bunkamura-c1ee.html
自分自身はロシアの上空は何度も飛んでいるが、ロシアの大地の上にいたのは、四半世紀前に北欧に行くときに成田を飛び立ったエアフラ機がシェレメチボ空港で給油したときだけで、危害には出られなかったから、大地の上に直接いたわけではない。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/1994/08/post-d5ed.html

1969年、このころナホトカ航路は流行りではあった。
横浜からバイカル号やハバロフスク号でナホトカへ、ナホトカからシベリア鉄道でハバロフスクへ、そしてハバロフスクから引き返す、プチ・シベリア鉄道旅ができたと記憶する。
本書であちこちで出てくる「うどん」、麺類はエライ。
そして、あちこちといえば絵葉書と酒を買う日々、その時に買いたいと思ったら買っておく、後では買えないは、海外旅行の鉄則ではある、特に、率いられて移動する団体ツァーにあっては。
また、プロペラ機は、イリューシンだろうな。

P.210に興味深い記述があった。
一行がレニングラードに行ったときのこと、地下鉄に乗るためにエスカレーターで降りていったのだが、「二人並べる幅のエスカレーターの右側に一列に並んで下って行く。左側はあけておくのだ。急いでいる人が、急降下するエスカレーターの左側を駆け降りて行く」のだそうだ。
最近はエスカレーターでは「歩かない、走らない」がトレンドであるが、50年前、すでに片側は歩く走る人用となっていたのであった。

ロシア旅から9年を経て書かれたものなので、思いつくまま書いていったのか、計算して表現したのか、わからない。
全く違った武田泰淳氏の姿、竹内好氏の姿に、笑える。
無頼を背負った、当時の「文化人」の姿ということか。
持参した「観光案内書」はどのような案内をしていたのだろうか。
「歩き方」は、まだ刊行されていない。

ルートをメモしておく。
6/10:横浜→ナホトカ航路
6/11:船上
6/12:ナホトカ→シベリヤ鉄道
6/13:シベリヤ鉄道→ハバロフスク
6/14:ハバロフスク→ノボシビルスク空港
6/15:ノボシビルスク空港→アルマ・アタ→タシケント
6/16:タシケント→サマルカンド
6/17:サマルカンド→ブハラ
6/18:ブハラ
6/19:ブハラ→タシケント
6/20:タシケント
6/21:タシケント→トビリシ
6/22:トビリシ→シンフェローボ空港→ヤルタ
6/23:ヤルタ
6/24:ヤルタ→シンフェローボ空港→レニングラード
6/25:レニングラード
6/26:レニングラード
6/27:レニングラード→モスクワ
6/28:モスクワ
6/29:モスクワ
6/30:モスクワ→ストックホルム
7/01:ストックホルム
7/02:ストックホルム→コペンハーゲン
7/03:コペンハーゲン
7/04:コペンハーゲン→アンカレッジ

武田百合子/著
中央公論新社
http://www.chuko.co.jp/bunko/2018/10/206651.html

 

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2019年7月20日 (土)

コメコンデザインシリーズ(9) 「在りし日の食堂で」社会主義食堂レシピ vol.4

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今回は、東ドイツ(2)、ハンガリー(1)、チェコ(1)、グルジア(1)、ウズベキスタン(1)、ウクライナ(1)、ソヴィエト(3)、ルーマニア(2)、バルカン諸国(1)、クロアチア(1)、アルメニア(1)。
巻末読み物は、極東ロシア。
そろそろ甘いものはどうかと、提案しておいた。

第1集
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/20vol1-9afd.html
第2集
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/22vol2-e41b.html
第3集
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/620vol3-3dca.html

イスクラ
http://iskra.ocnk.net/product/18797

 

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2019年7月 6日 (土)

モスクワの伯爵

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時代は、伯爵が32歳のときの1922年→(1年)→1923年→(1年)→1924年→(2年)→1926年→(4年)→1930年→(8年)→1938年→(8年)→1946年→(4年)→1950年→(2年)→1952年→(1年)→1953年→(1年)→1965年の32年間と、法則をもった間隔(じっさいは、1922年から1924年の間、1952年から1954年の間は、もっと短い期間が重なる)を経て展開している。
それぞれの時代におけるエピソードが繋がっていくので、ある意味では中短編の集積のようだが、エピソードとエピソードとの間に何があったのかは、すっ飛ばされている。
いかにもな文学的修辞、比喩的修辞が重ねられるのは、だんだんハナについてくる。
これは、一種の漂流譚であると思った。
現在の閉じられた環境(とはいえ、そこには物質的には一応何でも揃っているので、ロビンソン・クルーソーや2年間の休暇のような最初の苦労はないが))の中で暮らしを立てていく、過去を振り返りつつ過去を失わず与えられた境遇のなかでいかに生きるか。
けれども、「自由と平等の国」アメリカの、いささか憧れめいた「貴族」への夢でもなるのだろう。

名づけ親で、「不運は様々な形をとってあらわれる。自分が境遇の主人にならなければ、その人間は一生境遇の奴隷となる」との格言を示したデミドフ大公とは、大公とあるからには、皇帝の息子ということになるだろうが、誰のことだろうか。
三巨頭のうちの残った二巨頭と周囲の人たちは、その後の雪解け時代、そしてブレジネフ時代を、ホテルでどう過ごしただろうか。
そして、二人も、その後のの雪解け時代、そしてブレジネフ時代を、故郷でどう過ごしただろうか。
フルシチョフの失脚は、最終章の10年後である。

帯に「Amazon.comのレビュー10,000超え」とあるが、ほんとうだ。
けれど、星ひとつのレビューもあるので、そっちに注目してしまう。
https://www.amazon.com/A-Gentleman-in-Moscow/dp/0143110438/#customerReviews

エイモア・トールズ/著
宇佐川晶子/訳
早川書房
http://www.hayakawa-online.co.jp/shop/shopdetail.html?brandcode=000000014211

 

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プラハ侵攻1968

Books157
8年前に写真展があり、本書も刊行された。
そのときに入手し読んでいるが、先だってプラハに行って、この写真集に出ている場所も歩いてきたので、もう一度ページをめくることにした。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/1968-92cd.html

グーグルのストリートビューを利用すると、撮影した場所がかなり特定できる。
特定できた場所を、地図に落としてみよう。

Praha_1

Praha_2
P.10〜11:キャプションなし。写真展のリストでは「プラハの町を侵攻するワルシャワ条約機構群(ママ)の戦車、8月21日」:レヴォルチュニー通りを北へ向き、ヴルダヴァ川のシュテファーニクーク橋の手前、したがって戦車の砲塔の大砲は市内に向いていない。(1_praha_1)
P.21:ヴィノフラツカー大通りのラジオ局に向かう最初のデモ参加者:ヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)は、プラハ本駅の南側、国立博物館から東に延びる通り、チャペックの住居に行った時の地下鉄が、この通りの下を走っている。(2_praha_1)
P.22〜23:ČKDのプラハ工場の裏手、フロウビェチーンへと向かう車列(3_praha_2)
P.24〜25:フロウビェチーンへの道路:シェコダの工場はプラハの北東部にあり、その南東に地下鉄の「Hloubětín」駅がある。(3_praha_2)
P.26〜29:ヴィノフラディにて:ヴィノフラディ(Vinohrady)は、チェコの旧市街の東エリア、高級住宅街とされているようで、チャペックの住居もこのエリアにあるが、撮影場所は、わからない。(4_praha_1)
P.30:ソコロフスカー通り:ソコロフスカー通り(Sokolovská)はプラハ本駅の北とヴルダヴァ川の間を東方向に伸びる通りであるが、撮影場所は、わからない。(5_praha_1)
P.31:ヴァーツラフ広場とメジブランスカー通りの交差点:メジブランスカー通り(Mezibranská)は、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)が国立博物館前で交差し南に伸びる道路。(6_praha_1)
P.31:ツェレトナー通り:ツェレトナー通り(Celetná)は旧市街広場と火薬塔との間の通り。(7_praha_1)
P.32〜33:ヴァーツラフ広場とオプレタロヴァ通りの角にあるチェコスロヴァキア通信社に向かう戦車:オプレタロヴァ通り(Opletalova)は、ヴァーツラフ広場(Václavské náměstí)が国立博物館寄りで交差し北東に伸びる道路。(8_praha_1)
P.36〜37:ヴィノフラディのマーネソヴァ通り:マーネソヴァ通り(Manesova)は、ヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)の一本北側の通り。(9_praha_1)
P.38〜41:キャプションなし。建物の形状からマーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.46〜47:キャプションなし。16枚の写真のうちの数枚は、建物の形状からマーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.48〜49:キャプションなし。ヴァーツラフ広場の国立博物館前。(6_praha_1)
P.52〜53:キャプションなし。16枚の写真のうちの数枚は、ヴァーツラフ広場。(6_praha_1)
P.58〜59:キャプションなし。背後の建物からヴィノフラツカー大通りのようだ。(13_praha_1)
P.64〜65:キャプションなし。背後の建物からヴルダヴァ川にかかるチェーホフ橋から北側を見ているようだ。(19_praha_1)
P.67:共産党中央委員会を監視する兵士たち:チェコスロヴァキア共産党(Komunistická strana Československa (KSČ))中央委員会本部は、現在のチェコ交通省ビル。(10_praha_1)
P.68:共産党中央委員会前にて(10_praha_1)
P.70〜71:党中央委員会前で国歌を歌う人々(10_praha_1)
P.74〜75:旧市街広場:ヤン・フス像、その奥にキンスキー宮殿、右に石の鐘の家、ティーン教会。(11_praha_1)
P.76〜77:ヴァーツラフ広場:広場の中央あたりで国立博物館を背にしての広場風景。(12_praha_1)
P.79:銃撃の証拠としての弾薬:背後の建物は国立博物館。(12_praha_1)
P.85:チェコスロヴァキア・ラジオ局に向かう装甲車に対する人々の反応(13_praha_1)
P.86〜87:チェコスロヴァキア・ラジオ局前での指示を出すロシア士官(13_praha_1)
P.88:ヴィノフラツカー大通りのチェコスロヴァキア・ラジオ局前(13_praha_1)
P.90〜91:ヴィノフラツカー大通りとイタルスカー通りの交差点:イタルスカー通り(Italská)は、プラハ本駅の東側を南北に通っており、写真の左上に写る特徴のある建物から撮影場所は国立博物館側からヴィノフラツカー大通り(Vinohradská)を東に向きイタルスカー通り(Italská)との交差点の西側手前であることが特定でき、現在もチェコ放送(Český rozhlas、ČRo)がある。(13_praha_1)
P.96〜97:ヴァーツラフ広場:背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.98:ヴァーツラフ広場:国立博物館側からのヴァーツラフ広場。(12_praha_1)
P.100〜101:キャプションなし。国立博物館前とヴァーツラフ広場。(12_praha_1)
P.102〜103:共和国広場:市民会館に面した広場、建物の形状から広場の北側のようだ。(14_praha_1)
P.110〜111:キャプションなし。背後の建物からヴィノフラツカー大通りのようだ。(13_praha_1)
P.113:チェコスロヴァキア・ラジオ局の防衛(13_praha_1)
P.114〜115:キャプションなし。建物の形状からマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。1枚は市電の線路が見えるので、ヴィノフラツカー大通りかもしれない。 (13_praha_1)
P.116〜117:チェコスロヴァキア・ラジオ局のあるヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)
P.118〜119:キャプションなし。ヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)とマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。
P.120〜121:キャプションなし。ヴィノフラツカー大通り(13_praha_1)とマーネソヴァ通り(9_praha_1)のようだ。
P.126〜127:ヴィノフラツカー大通り。放火された戦車から出てくる兵士たち(13_praha_1)
P.128〜129:キャプションなし。マーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.130〜131:キャプションなし。マーネソヴァ通りのようだ。(9_praha_1)
P.132〜133:チェコスロヴァキア・ラジオ局の占領に向かうロシア兵(13_praha_1)
P.144〜145:ヴィノフラツカー大通りの、銃撃を受けて出火した建物(13_praha_1)
P.152〜153:チェコスロヴァキア・ラジオ局での攻防の犠牲者(13_praha_1)
P.164:オルシャヌイ墓地近くでの葬送の行列:写真の右の木立が墓地、ちょうど現在の地下鉄Flora駅前で、このあたりはチャペックの住居に行ったときに歩いた。(15_praha_1)
P.164:侵攻による犠牲者の記念碑、ヴァーツラフ広場にて:国立博物館側を背後にした聖ヴァーツラフ像の前。(12_praha_1)
P.171:ヴァーツラフ広場:国立博物館方向。(12_praha_1)
P.174〜175:2度にわたり、人がいなくなったヴァーツラフ広場―8月22日、23日:ヴァーツラフ広場の北西端の建物の上から国立博物館を見ているようだ。(12_praha_1)
P.182〜183:ヴァーツラフ広場のソ連軍の戦車:ヴァーツラフ広場の北西端の建物の上から聖ヴァーツラフ像と国立博物館方向。(12_praha_1)
P.190:キャプションなし。背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.191:占領反対を訴える新聞の配布:背後は国立博物館。(12_praha_1)
P.193:臨時党大会の準備がおこなわれているヴィソチャヌイの工場前:プラハ北東部に、Praha-Vysočany駅があるので、その辺りの工場なのだろう。(16_praha_2)
P.194〜195:共和国広場:市民会館前から北東方向。(14_praha_1)
P.196:ヴァーツラフ広場の聖ヴァーツラフ像(12_praha_1)
P.206〜207:ナ・プシーコビェにて:ナ・プシーコビェ(Na Příkopě)は、ヴァーツラフ広場の北西端から共和国広場に向かう大通り。(17_praha_1)
P.208〜209:キャプションなし。背後は聖ヴァーツラフ像。(12_praha_1)
P.211:聖ヴァーツラフ像の前の若者たち(12_praha_1)
P.212〜213:ナ・プシーコビェでのデモ:背後に見える建物はヴァーツラフ広場との角に立つ建物なので、ヴァーツラフ広場から共和国広場に向かって行進していることになる。(17_praha_1)
P.220〜221:すわり込みの抗議:国立博物館を背後に聖ヴァーツラフ像のまわりで人々が座り込んでいる。他の写真でもそうだが、当時は市電が聖ヴァーツラフ像のとこおまで走っていたようだ。(12_praha_1)
P.224〜225:ヴァーツラフ広場:国立博物館と聖ヴァーツラフ像との間。(12_praha_1)
P.228〜229:血のついた「ソヴボドネー・スロヴォ」紙を手にした新聞売り:国立博物館を背後に聖ヴァーツラフ像が見える。(12_praha_1)
P.230:ロシア語で「なぜ」のプラカード:共和国広場、市民会館前から北東方向。(14_praha_1)
P.231:インジシュスカー通り:ヴァーツラフ広場の中ほどから北東方向にプラハ本駅に至る通り。(18_praha_1)
P.231:ドゥプチェクの写真を掲げて抗議する人々。旧市街:ティーン教会を背後に旧市街広場の旧市庁舎前。(11_praha_1)
P.235:ヴィノフラディの墓場にて:オルシャヌイ墓地か。(4_praha_1)
P.250〜251:占領反対のスローガンが記されたトレーラ、ヴァーツラフ広場(12_praha_1)
P.268〜269:旧市街広場:ヤン・フス像、右に旧市庁舎が見えるので、北側から南方向を見ている。(11_praha_1)
P.270〜271:旧市街広場:ヤン・フス像、奥に聖ミクラーシュ教会が見えるので、ティーン教会の前から見ている。(11_praha_1)
P.272:キャプションなし。市民会館前の共和国広場。(14_praha_1)
P.273:キャプションなし。旧市庁舎前。(11_praha_1)
P.274:キャプションなし。ヤン・フス像の土台があるので旧市街広場。(11_praha_1)

「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」写真展展示リスト
https://topmuseum.jp/upload/3/1353/koudlka.pdf
http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-1353.html

 

ジョセフ・クーデルカ(Josef Koudelka)/著
阿部賢一/訳
平凡社
https://www.heibonsha.co.jp/book/b157734.html

 

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2019年4月19日 (金)

歴史としての社会主義 東ドイツの経験

190102_121 190102_122
2018年夏、ドイツを歩いてきて印象的だったことのひとつは、ドレスデンでのできごとである。
ドレスデンでは「ドイツ民主共和国の世界」(Die Welt der DDR)、つまりDDR博物館に行ってきたのだが、そこにはDDR時代の暮らしや仕事などの場が再現され、日常生活で使われた多くの道具類などの様々なモノたちが集められ展示されている。
学校の教室も再現されていて、そこでは若いホーネッカーの写真が掲げられ、テレビの画面からは1989年5月14日のパレードの映像が流れていた。
パレードでの自由ドイツ青年団(Freie Deutsche Jugend、FDJ)の映像で行進曲と歌が流れると、映像を見ていた年配男女が合わせて歌っている。
同時代の人たちなのだろうが、四半世紀が過ぎ、この映像を見てどのような思いを持っているのだろうかと思ったものだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/10_2-die-welt-d.html
Die Welt der DDR
https://www.weltderddr.de/

また、本書「第三章 農村の社会主義体験 土地改革から農業集団化へ(一九四五―一九六〇)」でバート・ドベラン郡の農村が取り上げられているが、ここにも2018年に行ってきた。
もっとも目的はモリー鉄道であるが、ロストックからバート・ドベランに向かうローカル線の車窓から、あるいはモリー鉄道の車窓から畑は見ているのだが、そのときはこの国の農村の歴史については頭をかすめなかった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_3-von-bad-dob.html
そして、この日の朝散歩したときに廃墟があって、何だろうと思ったことはある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_1-morgen-von.html
廃墟は、モリー鉄道の終点キュールングスボルンにもあった。
執筆者が行ったケーグスドルフ村は、キュールングスボルンよりさらに南西数キロのところに位置している。
ホーエンフェルデ村はバート・ドベランの南2キロのところにある村で、バート・ドベランに到着するときに車窓から見た景色がその一部だったのだろう。

学生の頃、何の授業でだったかは忘れたが、「東ドイツの労働者は、分業での単なる歯車的な存在ではなく、自分が担当する作業について、作業の全体を把握していてその中の任務を理解している」というようなことを教えられたことがある。
そのときは、ふうん、社会主義的人間とはそういうものかとして聞いたのだが、本書での「作業班」での作業が、もしかしたらその意味なのかもしれない。
それは本書に引用されている文献での「私たちの企業」、「自分が影響力をもっていると感じた」、「働きに行くのが好きだった」(P.88)といった労働者の思いとなっているのだろう。

「第五章 東ドイツでの余暇活動」の「3 「不測の社会」下における余暇」の「(2)消費財の「不足」と余暇」で語られる消費財の不足の状況は、「グッバイ・レーニン」でも描かれていた。

「第八章 東ドイツ「平和革命」と教会 建設兵士の活動を中心に」では、ライプツィヒのニコライ教会の活動が取り上げられているが、その「月曜デモ」などの活動は1989年に突然起こったのではなく、1981年9月13日の「平和の祈り」から始まったこと、以後の活動で「棲み分け」を求める教会指導部とも対立していったこと、1989年においても教会指導部と活動ウループトの間に揺れがあったことなど、その頃の様子をあらためて見ることができた。
この章のの「3 建設兵士らによる平和を求める活動」の「(3)徴兵制の変革を求める活動」での「剣を鍬に」運動で使用された図柄の原典となった「旧約聖書」の「ミカ書」4章3節は、注に一部が載っているが、全文は「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」である。

執筆陣の世代によって、「社会主義」への想いの差が表れているのは、1989年以降の歴史を物語っている。
そして、巻末の「東ドイツ史略年表」は、以前さまざまな文献や書籍から作成した年表「ドイツを中心とした東欧史」を補完してくれる。

ドイツを中心とした東欧史
(1)1945〜1946 (2)1947〜1949 (3)1950〜1954
(4)1955〜1957 (5)1958〜1963 (6)1964〜1967
(7)1968 (8)1969〜1970 (9)1971〜1972
(10)1973 (11)1974 (12)1975
(13)1976〜1978 (14)1979 (15)1980
(16)1981 (17)1982〜1983 (18)1984
(19)1985 (20)1986〜1987 (21)1988
(22)1989(1-8) (23)1989(9-12) (24)1990(1-5)
(25)1990(6-12) (26)1991〜1993 (27)1994〜1998
(28)1999〜2000 (29)2001〜2002 (30)2001〜2005

第I部 いまなぜ東ドイツか
 第一章 歴史としての東ドイツ
 第二章 東ドイツ研究の現在
第II部 東ドイツ社会を生きる
 第三章 農村の社会主義体験 土地改革から農業集団化へ(一九四五―一九六〇)
 第四章 職場における「つながり」 工業企業現場の実態
 第五章 東ドイツでの余暇活動 休暇旅行の実態から
 第六章 高齢者と社会
 第七章 東ドイツのポピュラー音楽の系譜
 第八章 東ドイツ「平和革命」と教会 建設兵士の活動を中心に
第III部 歴史としての社会主義
 第九章 思想としての社会主義/現に存在した社会主義
 第一〇章 東ドイツの「中間グループ」の役割
 第一一章 社会主義経済再考 東ドイツ計画経済の現実
あとがき
参考文献
東ドイツ史略年表
索引

川越修/編著
河合信晴/編著
ナカニシヤ出版
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b239954.html

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