ドイツ関連

2021年3月 1日 (月)

ビーアマンは歌う

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ヴォルフ・ビーアマン(Wolf Biermann)は、ハンブルクに生まれたが、「一九五三年、一七歳のとき、社会主義への希望にもえたかれは、母と祖母をハンブルクに残してDDRに移住」(P.37)した。
本書の著者野村修氏は、1969年にビーアマンのもとを訪れ、以後、交友を続ける。
本書を初めて読んだのは、「壁」が崩壊した直後だったと思うが、この閉塞した21世紀にもう一度目を通してみる。

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ビーアマンが当時住んでいたのはベルリンのショセー街131号(4)、フリードリヒ通り駅(6)から北へ数百メートルのところだ。
ビーアマンは建物の三階に住んでいたとある(P.20)が、この「三階」が日本式の「三階」なのか、ドイツ式の「三階」なのかは、わからない。
近くには、スパルタクス・ブント(ドイツ共産党の前身)が創立されたところ(1)や、ブレヒトが住んでいた家(2)、ブレヒトの眠る墓地(3)もあって、野村氏は、ブレヒトの家を訪ねることを東ベルリンに入る理由にしたらしい。
本書には、ヴァイデンタンマー橋(5)で、欄干のプロイセンの鷲を前にした、まるで翼のある人物像然としたビーアマンの写真がある。(P.86)

1976年に教会のミサの説教者というかたちでビーアマンが登場し、非公式な演奏会が開かれたことについて、「DDRでは教会が、ささやかな自由な発言の場としての機能を、もちはじめているのだろうか?」(P.78)と書かれている。
その10年後に、教会が果たした役割は、すでに芽生えていたということだ。

本書から、経過をメモしておく。
1936年11月15日 ハンブルクで生まれる
1953年 ドイツ民主共和国に移住、ベルリン大学で経済学を学ぶ
1957年 ベルリーナ・アンサンブル(ブレヒト創設の劇団)で演出助手
1960年頃 歌作りを開始
1961年 自身作の「ベルリンの結婚物語」公演禁止、SED党員候補剥奪
1964年5月 ベルリンでの友好祭に出演、西ドイツに招かれる
1965年10月 公演活動と出版が禁止される
1965年12月 「ノイエス・ドイチュラント」による反ビーアマン・キャンペーン
1976年夏 非公式演奏会が教会で開催
1976年11月 西ドイツでの演奏が許可される
1976年11月17日 公民権剥奪

あわせて、ビーアマンの年長の友人ロベルト・ハーヴェマンの著作も、読んでみたい。
そして本書の装丁は、平野甲賀さん。

I ベルリン、ショセー街 一九六九
補章 「ぼくは象のように歌う」
II プロイセンのイカロス 一九七六
III ハンブルク 一九八二
あとがき
ビーアマン自筆楽譜

野村修/著
晶文社

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2021年2月27日 (土)

戦争は女の顔をしていない 2

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漫画化された「戦争は女の顔をしていない」第1巻に引き続き。
原作
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-3994e5.html
第1巻
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-c476c6.html
今回は、作者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの、執筆の動機、聞き取りしながら葛藤する様子も描かれている。

第8話 人間は戦争よりずっと大きい
第9話 狙撃兵マリヤ・イワーノヴナ・モローゾワ(イワーヌシュキナ)兵長の話
第10話 モスクワに向かう汽車の中にて
第11話 母のところに戻ったのは私一人だけ……
第12話 お母ちゃんお父ちゃんのこと

小梅けいと/著
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/原作
速水螺旋人/監修
角川書店
https://www.kadokawa.co.jp/product/322009000048/

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2021年2月24日 (水)

三毛猫ホームズの騎士道

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いまは行くことのできない欧州を舞台にしている、と言う理由で、ドイツのホームズを読む。
ホームズ嬢一行はデュッセルドルフからロマンチック街道に向かって古城に到着したわけだが、ローテンブルクの近くの古城だろうがどこの古城かは不明。

「鉄の処女」が登場するが、中世の処刑の道具あるいは拷問の道具としての説があるが、じっさいには存在せず後世につくられたという説、存在したとしても見せて脅すためのものだった、という説もあるようだ。
ザルツブルクのホーエンザルツブルク城塞に拷問部屋があったりするのだが、ガイドのお話ではじっさいに使われることはなかったそうで、「鉄の処女」も同様かもしれない。

赤川次郎/著
角川書店
https://www.kadokawa.co.jp/product/199999149788/

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2021年2月21日 (日)

劇画 ヒットラー

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ヒトラーと周囲の人たちとの関係が、本書が描いたような関係であったりやりとりが行われたりしたかどうかはともかく、周囲がヒトラーの妄想を支えていたのは確かだろう。
その妄想のなかにアーリア人を中心とする人種思想があったはずだが、本書ではユダヤ人根絶やスラヴ人奴隷化などはテーマとしては描かれていない。
戦争体験者たる水木氏に、ヒトラーの名で何が行われたのかを描くのではなく、むしろ、周囲の人たちとの関係を中心にヒトラーを描くという本書の描き方には、何か意図があったのだろうか。
飄々としつつ、一面では激昂するヒトラー、冒頭の黙示録の蒼褪めたる馬はヒトラーが連れてきたのか。

水木しげる/著
筑摩書房
https://www.chikumashobo.co.jp/special/hitler/

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2021年2月19日 (金)

ハイネ散文作品集 第2巻 「旅の絵」より

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以前、「チロルの悲劇 アンドレーアス・ホーファー」を読んだときに、ハイネがインスブルックの「金鷲亭(Zum Goldenen Adler)に泊まったようなことが書いてあったので、読んでみる。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-9b1fa1.html
すると、たしかに「ミュンヘンからジェノバへの旅」第七章に書かれている。(P.138)
また、ハイネはここでインマーマンに触れている。

それにしても、言葉の洪水であって、しかも改行がほとんどないので、いささか辟易する。

シシィは、いつの頃からハイネに傾倒していたのか。
シシィが生まれたのが1837年、ハイネが亡くなったのは1856年2月17日、シシィはその直前の1854年4月にFJの妻となっている。
本書の散文は、「ポーランドについて」が1822年、「イデーエン ル・グラン書」が1826年から27年、「ミュンヘンからジェノバへの旅」が1828年、「バーニ・ディ・ルッカ」が1829年だとすれば、読んだ可能性はなくはない。
ステージでは、コルフ島でシシィはハイネの霊を呼び出そうとして"Ich erwart dich, Heinrich Heine, bleib bei mir, enttäusch mich nicht! Komm und diktier mir noch ein Gedicht!"と歌うのだが、ここでは「詩」を待っていて、こうした散文を望んだのではなさそうだ。
出てきたのはマックス公の霊で、シシィはマックス公の霊にたしなめら、"Adieu, Sisi"と別れを告げられるのだが、マックス公が亡くなったのは1888年11月15日であるから、このシーンはそれ以後の時期ということになる。
また、結婚前のお転婆お嬢時代は、ハイネを求める理由はないだろうから、FJとの結婚と王室の旧弊たるしきたりとの葛藤のなかだろうから、1850年代以後なのだろう。
あくまでステージ上からの想像ではある。

消えたハイネ・・・金時鐘
ポーランドについて・・・木庭宏/訳
イデーエン ル・グラン書・・・木庭宏/訳
ミュンヘンからジェノバへの旅・・・鈴木謙三・鈴木和子/訳
バーニ・ディ・ルッカ・・・深見茂/訳
作品解題
解説

松籟社
http://www.shoraisha.com/main/book/9784879841131.html

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2021年2月14日 (日)

ヨーロッパ人の見た幕末使節団

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それまでに幕府と欧州各国との間で締結された修好条約に盛り込まれていた、新潟と兵庫開港および江戸と大坂の開市を延期する交渉、そしてロシアとの樺太国境画定交渉のため、1862年に江戸幕府がヨーロッパに派遣した文久使節団を、ヨーロッパ側の目にどう映ったのかを、諸国の新聞や雑誌に書かれた内容を紹介している。
P.100に、「ドイツの現地の新聞報道と日本側の日記等の記録とをつきあわせると興味深いことがいくつかみえてくる」とあるとおり、同じ対象を双方がそれぞれどう見たか、つきあわせてみたい。
「幕末遣欧使節団」が同じ講談社学術文庫から出ている。
ただし、紙版は絶版である。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151344
また、福沢諭吉が文久使節団に通訳として参加しており、福沢諭吉の日記「西航記」が、「福沢諭吉選集」第1巻、「福沢諭吉全集」第19巻(いずれも(岩波書店))に収められているらしい。

はしがき
使節団のメンバー
第一章 イギリスにおける使節団――「冷静で、礼儀正しく、威厳のある態度」(ポール・スノードン)
第二章 ドイツにおける使節団――好奇の目で迎えられる「異国の殿方たち」(鈴木健夫)
第三章 「ベルリンの日本人」――歓迎され、風刺された使節団(ギュンター・ツォーベル)
第四章 ロシア・ペテルブルクにおける使節団――真面目な守旧派と陽気な進歩派(鈴木健夫)
図版・写真出所一覧
あとがき

鈴木健夫/著
ポール・スノードン/著
ギュンター・ツォーベル/著
講談社
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151479

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2021年1月30日 (土)

僕の村は戦場だった Иваново детство

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前に観たのはいつだったのだろう。
タルコフスキー的白樺の林は、思い出す。

アルテリオシネマで、「ソビエト時代のタルコフスキー」開催中。
https://twitter.com/kaccinema/status/1355096675820339203

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2021年1月10日 (日)

完全版 世界の地下鉄

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なんで「ぎょうせい」から出ているのかと思ったら、そういうことだったのか。
なので、鉄道写真集ではない。
「完全版」と銘打ってあるが、記事として記載されているのは、世界の全部の地下鉄ではない。
記事化されなかった地下鉄は、最後にまとめてリストアップされている。
2015年の「世界の地下鉄 ビジュアルガイドブック」の改訂版。

記事には、都市、運行主体、URL、シンボルマーク、路線名と色のリスト、路線図、QRコード、海外にあっては人口・時差・為替レート、データ(開通年・営業キロ・路線数・駅数・運行時間・運賃制度・輸送人員・軌間・電気方式・集電方法・運転保安・最小運転間隔・列車運転線路・導入車両、一部が省略されている年もある)、いくつかの写真がある。
記事とならなかった地下鉄については、都市、運行主体、URL、シンボルマーク、QRコード、データ(開通年・営業キロ・路線数・駅数・運賃制度・輸送人員・軌間・電気方式・集電方法・列車運転路線)が一覧になっている。
加えて全地下鉄について、都市、運行主体、種別、乗務員、開通年、営業キロ、路線数、駅数、運賃制度、輸送人員、軌間、電気方式、集電方法、列車運転線路、掲載ページが表となっている。

このなかで、乗ったことのある地下鉄。
東京/大阪/名古屋/札幌/横浜/神戸/京都/福岡/広島/ロンドン/ベルリン/ハンブルク/ミュンヘン/ウィーン/プラハ/ストックホルム

【アジア】
東京/大阪/名古屋/札幌/横浜/神戸/京都/福岡/仙台/広島/ソウル・仁川/釜山/北京/上海/重慶/広州/香港/台北/台中/高雄/バンコク/クアラルンプール/シンガポール/デリー/ムンバイ/イスタンブール/ドバイ/ドーハ/シドニー
【ヨーロッパ&アフリカ】
ロンドン/パリ/ベルリン/ハンブルク/ミュンヘン/フランクフルト/マドリード/バルセロナ/リスボン/ローマ/ミラノ/アムステルダム/ブリュッセル/ウィーン/アテネ/ワルシャワ/プラハ/ブダペスト/オスロ/ストックホルム/コペンハーゲン/ヘルシンキ/モスクワ/サンクトペテルブルク/カイロ
【南北アメリカ】 ニューヨーク/ワシントン/ボストン/シカゴ/サンフランシスコ/ロサンゼルス/モントリオール/メキシコシティ/リオデジャネイロ/サンパウロ/ブエノスアイレス
103都市の地下鉄データ
世界の地下鉄データ一覧
世界の地下鉄トピックス:世界の地下鉄ランキング/日本製の電車が走る地下鉄/日本が経済・技術協力している地下鉄/リニアメトロ/無人運転(ドライバレス)の地下鉄/集電方式の異なる区間を直通できる地下鉄/剛体電車線/無線信号システム/操舵台車

日本地下鉄協会/著
ぎょうせい
https://shop.gyosei.jp/products/detail/10511

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2021年1月 6日 (水)

もっと知りたいバウハウス

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昨年東京ステーションギャラリーで開催された展覧会「開校100年 きたれ、バウハウス」の関連で読む。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-2ebec9.html

10年前、汐留で「バウハウス・テイスト バウハウス・キッチン展」も開催されていた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c118.html

Bauhausは、かつての学生寮に宿泊できるのだが、現在はコロナ禍で休止が続いている。
https://www.bauhaus-dessau.de/en/service/sleeping-at-bauhaus-1.html
またドイツに行くことがあったら、泊まらないまでも、ここには行ってみたい。

バウハウスとは何だったのか?
10のキーワードで知るバウハウス
作品が語るバウハウスの造形
バウハウスのデザインの秘密

杣田佳穂/著
東京美術
https://www.tokyo-bijutsu.co.jp/np/isbn/9784808711443/

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2021年1月 5日 (火)

戦後オーストリアにおける犠牲者ナショナリズム

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「オーストリアはナチスドイツによって最初に侵略された犠牲国である」史観は従前から知っていたが、その史観のなりたちと「オーストリア」国へのアイデンテティとを掘り下げた労作といえるだろう。
多民族国家オーストリア帝国は「大ドイツ主義」は望まなかったが、帝国が崩壊し、ハンガリーやチェコスロバキアが独立して、残ったところが「オーストリア」となり、「ドナウ連邦」や「ドイツとの統合」も視野に入ったが、連合国はそれを許さなかった。
さらに時代はドイツによる「アンシュルス」をもって独澳が一体化するのだが、第二次世界大戦後は米英仏ソの4ヵ国の分割管理下に置かれ、オーストリア国家条約で「独立」を回復することになる。
そうしたなかでの「独立国オーストリア」の拠って立つところは何か、
本書は、こうした戦後オーストリアの歴史における『「オーストリア国民」国家の形成のありようを明らかにする』ことを目的として編まれている。
著者は、日本の研究者である。

さて、「National」を日本語でどう表現するか、「国民」か「国家」か。
本書では「Nationalsozialismus」を「国民社会主義」としており、「国家社会主義」とはしていない。
さいきんは、こうなのかしら。

P.25の「注」で、「共和国建国一〇〇周年を記念して計画された「オーストリアの歴史の家」博物館」が「二〇一八年一一月一〇日、英雄広場の新王宮に開設された」とある。
今度ウィーンに行けたら、行ってみたい。
https://www.hdgoe.at/

第二次世界大戦後、オーストリアでは「ファシズムの犠牲者」「戦争犠牲者」への「扶助」「援護」が行われていったことが記述されている(用語の定義は、ここには書かない)が、たとえば「四五歳以上で子どもがいない寡婦Aは、仕事を持っていれば月々五〇シリングを受け取ることができ、「扶養年金」について「寡婦Aの例でみると、支給額は二三〇シリング」(いずれもP.82)、「戦争犠牲者援護政策に基づく年金の支給額は(中略)少なくとも月々数十シリング、多ければ一〇〇〇シリングを超える程度」(P.101)など、通貨単位シリングで表記されている。
これがいったいどの程度の貨幣価値を持っているのか、ヒントは「一九四六年当時、パンが一キロ四六グロッシェン、牛乳一リットルは五〇グロッシェン」(P.101)にある。
1シリング(Schilling)は100グロッシェン(Groschen)なので、パン1キロ0.46グシリング、牛乳1リットル0.5シリングということになる。
ユーロ導入にともない、2002年1月1日にシリングは廃止され、1ユーロは13.7603シリングで交換されたのだが、これは戦後のシリング の貨幣価値とは乖離しているだろう。
日本の例で試算してみると、パンは1斤2~300円、牛乳1リットルのパックで200円前後であることから、1シリングは400円から500円ということになるだろうか。
仮に1シリング500円とすると、寡婦Aは月々2万5千円の扶助、年金は11万5千円、戦争犠牲者援護政策に基づく年金は2万数千円から50万円程度ということになる。

P.151の『「アーリア化」によって没取された彼らの財産は、戦後はオーストリア国家の財産として押収され、元の持ち主に返還されることはなかった。ようやく二〇世紀も終わる頃になって、シーレやクリムトの絵画が一部、ナチの略奪美術品として認定され、返還訴訟に発展するなど新たな展開をみせた』は、映画「黄金のアデーレ」を思い出させる。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d7ca.html

P.279以降の「第10章 戦没者記念碑――戦争をめぐる記憶の相克」は、日本の各地にある「忠魂碑」や「靖國」を考えてしまう。
日本のような神格化ではないだろうが、「英雄」と括ることは、顕彰の形として通底するものがあるような気もする。

2019年にウィーンに行ったときに、「負の遺産」にまつわるところを歩いてみた。
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「Denkmal der Opfer der Gestapo」(ゲシュタポ犠牲者のための記念碑)(Schwedenplatz):1985年11月1日
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「Holocaust-Mahnmal」(ホローコースト記念碑)(Judenplatz):2000年10月25日
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「Denkmal für die Verfolgten der NS-Militärjustiz」(ナチ時代の澳人の脱走兵や兵役拒否者祈念の碑)(首相府と大統領府の前):2014年
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「Mahnmal gegen Krieg und Faschismus」(戦争とファシズムに反対する記念碑)(Helmut-Zilk-Plat):1988年
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http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-d261b3.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-7fdafb.html

P.288以降の、Burgtor(ブルク門)にある「「英雄記念碑」「オーストリア解放闘争で犠牲となった者を追悼する」記念碑は、Burgtorは何度も通るのだが、気づかなかった。
今度行ったら、よく見ておこう。

オーストリアに行きはじめたのは21世紀になってからで、すでに10回以上になるのfだが、何度もオーストリアに行って感じる「寛容」さ、とくに2015年に行ったときの、中央駅や西駅に集まった難民たちの間を歩き、カリタスが支援する姿を見たときの印象は、P.303からの、『二〇世紀後半の「オーストリア国民」を成り立たせていた排他的な価値は一九八〇年以降、第二の問題系を通じて批判的省察を迫られ、その結果他者に対する寛容の精神を醸成する、一見すると民主主義的な政治文化の進化につながったようにみえた。そしてその分だけ「オーストリア国民」としての成熟度もましたように感じられた』のだとしたら、やはり上っ面しか見ていなかった、ということでもある。
2019年に見た「負の遺産」の設置時期を見れば、その証左ともいえるかもしれない。
また、この時代において、ほんとうに「負の遺産」として存在しているのか、機能しているのか、という問いかけでもあるだろう。
そして、「第三帝国」のその後の歴史への向き合い方というところでは、ドイツの(西と東の時代も含めて)向き合い方と、さらに日本の私たちの向き合い方も含めて考えていかなければならないのだろう。

はじめに
序章 オーストリア国民をめぐる二つの問題系――「八」のつく年をめぐって
 1 ドイツ国民か、オーストリア国民か
 2 オーストリア・ファシズムからナチズムへ
 3 過去との付き合い方を問う視角
 4 犠牲者国民のスペクトラムと本書の構成
第I部 犠牲者国民という射程
第1章 第二共和国の誕生と「犠牲者テーゼ」――「オーストリア国民」意識の勝利
 1 「オーストリアの主権に関する宣言」と「モスクワ宣言」
 2 レンナー政府による国家再建の試み
 3 国家統一への道
 4 1955年以後の展開
第2章 「ファシズムの犠牲者」を創出する――抵抗運動の犠牲者
 1 顕彰制度にみる「犠牲者性」
 2 犠牲者を「扶助」すること
 3 権利の獲得に向かって
 4 政治的被迫害者同盟の全国組織化
第3章 「ファシズムの犠牲者」を周縁化する――人種・信仰・国民的帰属による迫害の犠牲者
 1 人種・信仰・国民的帰属が理由で迫害された人びとへの補償
 2 新犠牲者扶助法の制定にみる格差の論理
 3 犠牲者イメージのヴァリアント
 4 犠牲者の統合を求めて
 5 「加害者性」と「犠牲者性」の共存
第4章 「戦争犠牲者」をめぐる国民福祉の論理――「神話」と「実体」の間
 1 「戦争犠牲者」とは誰か
 2 戦争犠牲者援護法にみる国民福祉の領域
 3 犠牲者国民を創り出す
 4 競合する「犠牲者」たち
第II部 犠牲者ナショナリズムの陥穽
第5章 元ナチの再統合と「犠牲者国民」の形成――抑圧される記憶
 1 ナチズムの遺産
 2 フィーグル政権による「脱ナチ化」政策
 3 免罪される青年世代
 4 交錯する恩赦=忘却のディスコース
第6章 占領軍当局による戦犯追及――英、米、仏の実践
 1 四連合国占領下オーストリアにおける戦争犯罪者訴追
 2 米軍当局の訴追方針
 3 仏軍当局による戦犯訴追の実態
 4 英軍当局の戦犯訴追システム
第7章 オーストリア人民裁判による戦犯追及と国民の境界――内発的冷戦の構図から
 1 戦争犯罪の射程
 2 オーストリア人民裁判の制度と実践
 3 ナチ・戦争犯罪と国民的正義
 4 国家反逆罪をめぐる人民裁判
 5 新たな「国家反逆者」像の構築と冷戦
第III部 犠牲者国民の記憶空間
第8章 反ファシズム闘争をめぐる想起の文化――マウトハウゼンを例に
 1 抵抗運動の記憶?
 2 記念施設化されるマウトハウゼン
 3 記念される過去
 4 反ファシズムの記憶の周縁化
第9章 戦没者の記憶を継承する――オーストリア黒十字協会の活動を例に
 1 戦没者をめぐる記憶のポリティクス
 2 想起の文化の担い手「黒十字」
 3 戦間期黒十字の思想と活動
 4 1945年以後の黒十字と戦没者
 5 「戦争犠牲者」イメージの再構築
 6 「戦争犠牲者」観の変容
第10章 戦没者記念碑――戦争をめぐる記憶の相克
 1 戦間期における戦没者記念碑の建設
 2 国家による英雄顕彰
 3 「われわれの犠牲者」を想起する
 4 愛国的な兵士像
終章 終わりなき犠牲者ナショナリズム―― 第三の問題系に向けて
補論 ブルゲンラント・ロマ迫害の二重構造――近代=国民の境界をまたぐ人びと
 1 ブルゲンラント・ロマ――国民的ディスコースの再検討
 2  オーストリアにおけるロマの人びと
 3 ブルゲンラント・ロマの歴史
 4 「オーストリア国民」国家の中のロマ
 5 再生産される「異者」
おわりに
初出一覧
参考文献一覧
人名・事項索引

水野博子/著
ミネルヴァ書房
https://www.minervashobo.co.jp/book/b505233.html

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