ドイツ関連

2020年9月15日 (火)

ナチスが恐れた義足の女スパイ 伝説の諜報部員ヴァージニア・ホール

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どこまでが事実なのかは確かめようがないが、あたかも映画を見ているような印象で読み進んだ。
外国勢力の支配に対する人々の抵抗は、アルジェリアやベトナムなど、フランスは逆の立場での経験もあるはずだが、そうしたフランスが逆の立場であったことを見たであろうヴァージニアは、そうしたフランスのありようを、どう考えていたのだろうか。
そして、戦後、「Collaboration」として断罪されたひとたちのなかに、もしかしたらヴァージニアとともにあった娼婦たちも、いたのかもしれないと思うと、フランスを別の角度からも見なければならないかもしれない。

たとえばP.171の「三階です」のように、建物の階を示している表現はいくつかあるが、この「三階」は、日本でいう「三階」なのか、フランスの「Rez-de-Chaussée」「Premier étage」「deuxième étage」「
Troisième étage」なのか、原文はどなっているのだろうか。

読売新聞書評
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20200725-OYT8T50110/

第一章 夢
第二章 機は熟せり
第三章 私のふしだらな友人たち
第四章 ディンディにさようなら
第五章 一二分、一二人
第六章 スパイたちの伏魔殿
第七章 非情の山
第八章 最重要指名手配エージェント
第九章 雪辱
第一〇章 山々の聖母マリア
第一一章 頭上の天空から
第一二章 CIAでの歳月

ソニア・パーネル/著
並木均/訳
中央公論新社
https://www.chuko.co.jp/tanko/2020/05/005307.html

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2020年9月12日 (土)

豪華映画二本立て「17歳のウィーン フロイト教授 人生のレッスン」「バルーン 奇蹟の脱出飛行」

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相模大野の車庫に入っていたSEが、なぜか外に出ていた。

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さて、まずは「17歳のウィーン フロイト教授 人生のレッスン」である。

湖のあるHeimatから汽車に乗る駅は、SHÖRFLING、そこは、Attersee、Salzkammergut。
しかし、ロケはアッター湖ではなく、南チロルだったようだ。

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着いた駅は、ウィーン西駅(Wien Westbahnhof)だろうが、えらく小さい。
ロタンダが火事?

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フランツは、フロイト教授を訪ねる。
フロイトがウィーンで住んだところは、いま、フロイト博物館となっているが、映画での映画でのフロイト教授が住む建物は、別の建物のようだ。

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それで、フランツとフロイトが語り合うこのシーン。
アルベルティーナのテラスではないか。

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フランツがフロイト教授といっしょにいくカフェは、Café Landtmannっぽい。

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そして、ウィーンのゲシュタポの建物であるが、いまは存在しない。
その跡地には、「Denkmal der Opfer der Gestapo」(ゲシュタポ犠牲者のための記念碑)があるのみ。

映画は、う・・・・む、フロイトと17歳とくれば、「リビドー」に満ちた映画であった。

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プログラムは、買った。

「17歳のウィーン フロイト教授 人生のレッスン」公式
https://17wien.jp/

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続いて「バルーン 奇蹟の脱出飛行」。
DDRとくれば、このトートバッグでしょう。

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しかし、である。
冒頭で背景が語られるが、なんと、英語。
なぜ独語じゃないんだ?
そうか、この映画はUSAも関与していたのか。

学校の成年式での歌「Unsere Heimat)は、2018年のドイツ行きで、ドレスデンのDDR博物館で聞いた(もしかしたらライプツィヒのシュタージ博物館での「WIR SIND DAS VOLK!」展でだったかもしれない)。
https://www.youtube.com/watch?v=f5wQ1AQdjlQ

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電気技師ペーターは、Wartburg(ヴァルトブルク)を運転しているのだが、舞台がテューリンゲンだからアイゼナハで生産されていたWartburgで、Trabantではないのか。
型式は1956年に生産が始まった、Wartburg 311のようだ。
1965年にはWartburg 353にモデルチェンジしているので、入手はそれ以前なのだろう。
それにしても、1979年の脱出までよく走り続けたものだ。
もっともDDRでは車を自分で整備するのは当たり前だったので、電気技師であれば当然だったのかもしれない。
しかし、シュタージは、車を買った人物のチェックはしていないのだろうか。
ヴァルトブルクの持ち主を当たれ、というシーンは、なかった。

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「壁」のあるBrandenburger Torと、Unter den Lindenは、CGだろうな。

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ヘリコプターは、Mi-2だろう。

ペーターの家にあるラジオには、「REMA MON」とあったが、これだったか。
https://www.flickr.com/photos/gynti/4122835332

ペスネック(Pößneck)が舞台となるが、場所はライプツィヒの南西約80kmに位置している。
https://www.poessneck.de/de/landingpage.html
そして、脱出に成功する直前、ザイデル中佐のセリフに「ブランケンシュタイン(Blankenstein)」の地名が出てくる。
当時のDDRとBRDの国境沿いの、DDR側のエリアだ。
ただし、ロケ地はペスネック(Pößneck)ではなく、バイエルンのノルトハルベン((Nordhalben)。

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気球が飛んだのは、ツィーゲンリュック(Ziegenrück)、降りたのは、オーバーフランケン地方の街ナイラ(Naila)

映画としては、USAがからんだせいなのか、画面上はこれでもかこれでもかとスリルの連続である。
当時のDDRの閉塞感、重圧感を表現したかったのかもしれないが、たとえば、ペーター家の長男フランクがお向かいのバウマン家(親父のエリックはシュタージだと)の娘クララに宛てた手紙をポストから取り戻すときにいきなりワンコが吠えるのは、あまりにも唐突すぎる演出だと思った。
ほかでも、シュタージが呼び鈴を鳴らしたのがいかにもペーターの家だと思わせ、じつはフランクが帰ってきたのであったというシーンも、やり過ぎじゃないかと思った。
その意味では「僕たちは希望という名の列車に乗った」のほうが、控えた演出で臨場感をたっぷり味わうことができたと思う。

「善き人のためのソナタ」のヴィースラー大尉は左遷後は封書を開ける業務についていたが、シュトレルツィク家の家族とギュンター池の家族の逃亡を許してしまったザイデル中佐、お向かいのエリック・バウマンは、責任を問われたのか。

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プログラムは、買った。

「バルーン 奇蹟の脱出飛行」公式
https://balloon-movie.jp/

いずれも、アルテリオ映像館にて。
https://kac-cinema.jp/

映画の場面の画像は、トレーラーより。

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2020年8月23日 (日)

ゲッペルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白

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映画を見る機会はあったのだが、積極的な気持ちが湧いてこなかったので、見ていない。
映画を知ったのは、岩波ホールに別の映画を観に行ったときで、ポスターに書かれていた「なにも知らなかった 私に罪はない」というフレーズに、またか、と思って、見ようという気持ちにはならなかった。
https://www.iwanami-hall.com/movie/%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%A8%E7%A7%81

ポムゼルが語ったこと、ナチス体制に組み込まれなければ暮らしていくことが難しかったことは、当時のドイツの多くの人が程度の差はあれ、経験したことに違いない。
事前に映画や本について何も知らずに読むと、「へえ、大変な経験をしたのね」と、多くの「知らなかった」経験談を見聞きしたときと同じように、通り一遍の感想で終わってしまいそうだ。
その経験を語ってくれと言われて、知らなかった、仕方がなかったとすることも、自身の経験・記憶はおそらく、意識的にか、あるいは無意識的にかは問わず、ナチス体制が崩れたあとになって幾多の年月が過ぎる間に、本人のなかで「合理化」されていったと考えざるを得ない。
そうした「合理化」も、1930年代から戦後の時代を生き延びた多くのドイツ人には、大なり小なり共通していたのではないだろうか。
近所の人々がいなくなったこと、ヒトラーについて些細なことを言ったことで逮捕されてしまうことがあったこと、同僚が帰ってこないことなどを見聞きしたとしても、そこで「自分を守る」動きをしてしまうのも、ふつうのことだろう。
そして過去にとどまらず、「テレビをつければ、シリアで恐ろしい出来事が起きているのはわかる。たくさんの人々が海で溺れているのが報道される。でも、そのあとテレビではバラエティ・ショーが放映される。シリアのニュースを見たからといって、人々は生活を変えない」と現代を見ているポムゼルの話には、ふむふむと納得してしまうのである。
けれど、こうした態度が、ポムゼルがいた体制の、そしていま日本や世界を覆っている政治や情勢の思うツボなのだろうなと、本書を脇に置いたときに思い直す。

自分にとって受け入れることができない事象に対して「否」と声をあげることとは、何だろうか。
ナチス体制にどう向き合うかといった大きなことではなくても、たとえば、自分の仕事のなかで、他者から自分の仕事に対するクレームを受けたとき、しかもそのクレームになるほどねと思うような内容が含まれていたとき、仕事人としてクレームに向き合うか、市民としてクレームを聞くかという場面があるだろう。
先日の、「黒い雨」訴訟での、控訴しない意向であった広島県と広島市が、国とともに控訴することにしたことも、似ているかもしれない。
県か市かはさておいて、法制にかかわる部署にいる職員は、どんな思いで仕事をしているのだろうか。

「昨今の政治情勢という枠組みの中で個々人がいかなる責任を負うか」、「ものごとから目をそらすな」(P.14)は、本書後半のトーレ・D.・ハンゼンの「ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか」で示す警告として繰り返される。
この警告が問うのは、「無知、受動性、無関心、御都合主義」でいる「私」、あるいは知りつつ黙している「私」に対してだ、ということだが、「私」は、どこまで「無知、受動性、無関心、御都合主義」でおらずにいることができるだろうか。
白バラを語ったところで「私自身は抵抗運動に参加することなどできなかった。臆病者だから、そんなことはとてもできなかった」、『「ノー」というのは、命がけのことだった』(P.81)とある。
少なくともこの日本では、「ノー」というのは、「命がけ」にはならない。
冒頭に書いた「またか、と思って、見ようという気持ちにはならなかった」もまた、「無知、受動性、無関心、御都合主義」の陥穽だったも言える。

ここの考察が、興味深い。
https://young-germany.jp/2018/07/goebbels/

まえがき(トーレ・D.・ハンゼン)
「私たちは政治に無関心だった」―一九三〇年代ベルリンでの青春時代
「ヒトラーはともかく、新しかった」―国営放送局へ
「少しだけエリートな世界」―国民啓蒙宣伝省に入る
「破滅まで、忠誠を」―宣伝省最後の日々
「私たちは何も知らなかった」―抑留と、新たな出発
「私たちに罪はない」―一〇三歳の総括
ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか(トーレ・D.・ハンゼン)
謝辞
『ゲッペルスと私』刊行に寄せて(石田勇治)
原注
索引

ブルンヒルデ・ポムゼル/著
トーレ・D.・ハンゼン/著
石田勇治/監修
森内薫/訳
赤坂桃子/訳
紀伊國屋書店
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011600

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2020年8月 7日 (金)

ドイツ語 続コーヒー・ブレイク

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ドイツ語 コーヒー・ブレイクの続編。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-8c0626.html

「Entschuldigung」は実害のないときは使ってもよいが、実害があるとこには、これを言ったら負け。
以前ドイツで、明日は帰国という日の夜中にホテル内に火災警報が鳴り響き、宿泊客は外に出されたことがあった(それも真冬)が、翌日チェックアウトのとき、「昨晩、何があったの?」と聞いたところ、警報はバーの厨房で煙かなにかを感知したからだと教えてもらった。
「寝ていてびっくりした」と言ったら、珍しく「アイム、ソーリー」とも言われた。
そこまでのドイツ語hあしゃべれないから、英語で聞いたので、「Entschuldigung」は聞けなかったのだが、まあ、自分から率先して謝罪したんじゃなく言われたからの謝罪だけど、謝ったら負けのお国で謝ったということで許してあげようと思ったのであった。

旅行者としてはごく短い重要文型をいくつか、単語としては250語ぐらい正確に覚えておくとよろしいと思います。
長期滞在には単語数が最低800語ほど、できれば2000語ほど知っているとよろしいでしょう。
単語はアクセント、文はイントネイションが大事です。
(P.63)

I.ドイツへの旅
II.生活
III.ドイツ歳時記

小塩節/著
日本放送出版協会

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2020年7月31日 (金)

トニオ・クレエゲル

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21世紀、芸術と世俗との間に揺れるトニオ・クレエゲルを、どう読むか。
岩波文庫版は1952年が第1刷、以前読んだのは何刷目だったかはわからないが、最近入手したのは2016年の第12刷である。
実吉捷郎さんの訳が、ディレッタントなトニオ・クレエゲルらしい。
だが、今回の(ま、昔は本書は通過点であったわけで)視点は、そんなことではない。
前半の舞台、そしてトニオ・クレエゲルがデンマークに行く前に立ち寄ったところは、2年前歩いたリューベックなのである。
本書に出てくる地名は、次のとおり。
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ミュウレン土手(P.11、P.79)、ミューレン湖(Mühlenteich)あたりだろうか・・・・(1)
ホルステン土手(P.11、P.79)、ホルステン門(Holstentor)あたりあろうか・・・(2)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_7-holstentor.html
ミュウレン街(P.17)Mühlenstraße、市庁舎からBreite Str.を南に下り、Sandstraßeを通り抜けたKlingenbergplatzから伸びる通り・・・(3)
停車場(P.24)、リューベック中央駅だろう・・・(4)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_6-von-bad-dob.html
リンデン広場(P.79)Lindenpl.、リューベック中央駅からホルステン門(Holstentor)に至る通りのプッペン橋(Puppenbrücke)の手前の広場、ヴィルヘルム1世の像とビスマルクの像が立っている・・・(5)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/4_8-rathaus-dea.html
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ミュンヘンのシェリング街(P.46)Schellingstraße、オデオン広場(Odeonsplatz)から北に伸びるルートヴィヒ通り(Ludwigstraße)の、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(Ludwig-Maximilians-Universität München)の手前から西に伸びる通り・・・(6)

トオマス・マン/著
実吉捷郎/訳

岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b247754.html

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2020年7月23日 (木)

ノスタルジア食堂 労働者の在りし日の食卓

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イスクラさんから出た「社会主義食堂レシピ」シリーズから。
社会主義食堂レシピ20選 vol.1
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/20vol1-9afd.html
社会主義食堂レシピ22選 vol.2
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/22vol2-e41b.html
社会主義食堂レシピ20選 vol.3
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/620vol3-3dca.html
社会主義食堂レシピ vol.4
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-0264ad.html
社会主義食堂レシピ vol.5
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-c2a278.html

いずれも、特別な材料を必要とした料理ではないので、自作可能。

ズルチェ、カーラおばちゃんちに行ったとき、あれば食べる。
https://www.facebook.com/seacastlekamakura/
ウィーンはヘルメス・ヴィラに行ったときに冷たいターフェルシュピッツを食べたのだが、ほぼズルチェだったような記憶。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/im-wunderschn-6.html

巻末に、食堂の風景写真があるので、次回は探してみようという気分になる。
ドレスデンのKäseglockeは、Postplatzにあるので、立ち寄ってはいないけれど、前は何度か歩いた。
けれど、写真を撮ってないである。
近くの、1969年築のバリバリのDDR時代の多目的ホール「文化宮殿(Kulturpalast)」ばかりが目についた。
小さいけれど、社会主義建築でもあるので、撮っておけばよかった。
ドレスデンでは、ほかの社会主義建築も、見てはいるが撮っていなかったのが、つくづく残念。
バウムクーヘン、Konditorei & Café Müllerには行っていないが、Kreutzkammに行った。
DDR時代、Kreutzkammはどうしてたのだろう。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/8_6-kreutzkamm-.html
そして、ライプツィヒのIl62、ここにはイスクラさんに教わって行ってきた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/7_6-il-62-gewan.html

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この次に渡欧するときには、食堂に行って「これを食べたい」と指すために、持っていかなきゃ。

1 前菜 サラダとスープ
2 メインディッシュ 肉と卵の料理
2 米料理 ベーカリーフードとデザート
所変われば、呼び名も変わる
禁断の脂身「サーロ」
ソヴィエトの普段使いの食器
憧れの食堂を探しに
魅惑のストリートフード

イスクラ/著
グラフィック社
http://www.graphicsha.co.jp/detail.html?p=41319

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2020年7月22日 (水)

ドイツ史3 1890年~現在

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山川の「世界歴史大系」の「ドイツ史」全3巻のうちの第3巻で、ドイツの近現代史である。
ちなみに、第1巻は先史~1648年、第2巻は1648年~1890年までである。
1997年の刊行なので、記述もその頃までであるが、あらためてじっくり読んだ。
ドイツ近現代史の基礎的な事項は網羅されているので、ドイツ関連の書籍文献を読んでいて時代背景などを知りたいときに参考書として使える。

P.277に、ゲオルク・エルザーが、1939年11月8日に、ミュンヘンの「ビュルガーブロイケラー」でヒトラーを暗殺しようとしたが失敗した記述がある。
ミュンヘンには、彼を記念した広場があり、そこに行ってきたことがある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-16dc.html
ビュルガーブロイケラーは、現在はガスタイク文化センターになっている。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-72f2.html

第一章 ヴィルヘルム時代
第二章 第一次世界大戦下のドイツ
第三章 ヴァイマル共和国
第四章 第三帝国の編成
第五章 第三帝国と第二次世界大戦
第六章 ドイツ連邦共和国
第七章 ドイツ民主共和国
第八章 統一ドイツ
補説

木村靖二/著
望田幸男/著
芝健介/著
高橋進/著
平島健司/著
斉藤晢/著
山川出版社
https://www.yamakawa.co.jp/product/46140

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2020年7月19日 (日)

僕たちは希望という名の列車に乗った

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1年以上生ドイツ語を耳にしていないので、ドイツ語映画を見る。
聞き慣れたHochdeutschではないけれど。

映画は見た。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-371ced.html

独語版と翻訳版の原作も読んだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-b5ab06.html

舞台は、ドイツとポーランドとの国境であるオーデル川沿いのアイゼンヒュッテルシュタット(Eisenhüttenstadt)、1953年のスターリン死去を受けて「スターリンシュタット (Stalinstadt)」と名付けられたが、スターリン批判後の1961年に「アイゼンヒュッテンシュタット」に改称された。

トム・ハンクスも訪れたようだ。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=10&v=RDR_30M9d_E

そして、街を紹介しているサイト。
https://chikatravel.com/2017/03/17/eisenhuttenstadt/

実際の舞台は、ベルリン近郊のシュトルコー(Storkow)。
https://www.sueddeutsche.de/politik/kalter-krieg-so-floh-eine-schulklasse-aus-der-ddr-1.3295139

レオナルド・シャイヒャー:テオ・レムケ
トム・グラメンツ:クルト・ヴェヒター
レナ・クレンク:レナ
ヨナス・ダスラー:エリック・バビンスキー
イシャイア・ミカルスキ:パウル
ロナルト・ツェアフェルト:ヘルマン・レムケ、テオの父(東ベルリンから来た女、アイヒマンを追え)
フロリアン・ルーカス:シュヴァルツ校長(グッバイ、レーニン!)
ヨルディス・トリーベル:ケスラー郡視学官
ブルクハルト・クラウスナー:ランゲ国民教育大臣(グッバイ、レーニン!、リスボンに誘われて、アイヒマンを追え)
ミヒャエル・グヴィスデク:エドガー、パウルの大叔父(グッバイ、レーニン!)
マックス・ホップ:ハンス・ヴェヒター、クルトの父
ユーディット・エンゲル:アンナ・ヴェヒター、クルトの母
ゲッツ・シューベルト:メルツァー牧師、エリックの義父
ロルフ・カニース:ヴァルデツキ、射撃の教官

監督・脚本:ラース・クラウメ
原作:ディートリッヒ・ガルスカ

https://www.albatros-film.com/archives/11774

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2020年7月11日 (土)

国際歴史教科書対話 ヨーロッパにおける「過去」の再編

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1998年刊行なので、今から読むと時代性は感じる。
刊行以後の、移民の増加、2015年のシリアなどからの難民の流入、イギリスのEU離脱など、ヨーロッパ内だけではすまされない課題に次から次に対応しなければならなくなり、「統一」にクエッションマークがちらちらするいヨーロッパとなってしまっている。
当時の状況について、P.220からP.221にかけて「いまなお民族の過去に自らの存在理由を見出している人々が多数存在していることを示唆してい」て、「旧ユーゴにおける民族浄化戦争、ヨーロッパ全域に蔓延する外国人排斥の動き、アメリカにおけるイングリッシュ・オンリー運動(中略)、そして日本における歴史の修正主義、(中略)それが注目すべき規模にまで発展した」と記述されているのだが、繰り返すが、これは1998年である。
壁が壊れてからの10年は、その後の20年に比べると、まだまだ「これから」を意識することができたのかもしれないが、当時でさえこう書かなければならなかった状況なのだが、著者は、現在の様相をどう記すのだろうか。
そして、いやでも、日中・日韓、そして日本とアジアのことを考えずにで読むことはできない。

冒頭(P.1)で、バートランド・ラッセルの「教育と社会体制」(1932らしい)からの文が引用されているので、ここでも引いておく。
(子どもたちは)自分たちの国家が行った戦争はことごとく防衛のための戦争で、外国が戦った戦争は侵略戦争なのだと思うように導かれる。予期に反して、自国が他国を征服するときは、文明を広めるために、福音の光をともすために、高い道徳や禁制やその他の同じような高貴なことを広めるためにそうしたのだと信じるように教育される。

こうした思いは我が国の憲法の前文にも謳われたはずなのだが、「この崇高な理想と目的を達成すること」はいつの間にか脇に追いやられ忘れ去られてしまったと思わざるを得ないのが、昨今の日々のさまざまなできごとだ。
7月5日、東京都知事は再選され、この人を批判して選挙戦に臨んだ人やその人に想いを託そうとした人たちにとっては残念な結果となってしまったが、それ以上に驚愕だったのは、明白なレイシズムを信条とする候補が前回比1.5倍以上の得票を得たことだ。
その得票数と有効投票数でみると、ざっと34人に1人くらいがこの候補に票を入れたことになる。
「身の回りの100人に1人以上が、私を殺そうと考えているのではないか」と掻いた、在日外国人もいたようだ。
この候補だけでなく、当選した人も根っこにこうした考え方があるのではないかと思うのは、例えば「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に歴代都知事が送ってきた追悼文を取りやめ、さらに今年には公園占有許可を出さないでいることにも見え隠れしているからだ。
前述の候補や当選した人に投票した人たちの、こうした考え方を気にしない、あるいは、もしかしたらそのような考え方に加担しているかのような風潮がこの国を覆っているのかもしれないと考えると、自分たちの歴史に向き合うことができなかった、向かうことをさせなかった戦後史は何だったのかと考えてしまう。
負の歴史に向き合うことを「自虐」としか見ることのできないことのほうがよっぽど「自虐」だと思うのだが、これは本書でも「自国の暗い過去を認める勇気を持つことが、そのような対話の前提となる。そもそも、負の遺産を排除することによって満たされるような国民的な誇りは、誇りという言葉をもって表現すべきないようではないであろう。」(P.214~215)と批判している。
負に向き合うことでエネルギーを費やすよりも、お山の大将でいることを選ぶ方が楽だし心地よいし、「安堵感」を持つことができるのだろう。
P.224に記された著者の考え方は、「民族」第一の考え方の人たちには相当カチンと来ることだろう。

「外国人」との関係をどうとるかについては、他人事ではない。
職場のカウンターには毎日100人前後の人たちが来るのだが、その中には「外国人」もいる。
職場の職員数は50人弱、単純に数字だけを見ると、1人か2人は例の候補に共鳴しているのかもしれないし、そこまでいかなくても、歴史に目を閉ざしても気にしない人が二桁はいる、ということになる。
そうした職員は、ガウンターで「外国人」に向くときに、心の奥底にどのような思いを持っているのだろうか。
カウンターで「外国人」にどのように接するか、あるいは「外国人」との共生について、職員に対する研修は、特別にはない。
人権研修のなかでまとめているのだろう。

P.11に引用されている、ダッハウで亡くなったラピエールの言葉。
人類の過ちは忍耐力がないこと、努力のあとすぎに効果を期待することにある。人類の進歩は一世代で達成されるものではなく、長い歴史のなかで達成されるものである。
地道に続けていくしかない、続けるべきだ、ということだろう。

「ドイツ・フランス共通歴史教科書」は、読んだ。
ドイツ・フランス共通歴史教科書【近現代史】 ウィーン会議から1945年までのヨーロッパと世界(2016年刊行)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/1945-0266.html
ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 1945年以後のヨーロッパと世界(2008年刊行)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/1945-9c1f.html

まえがき
序章 歴史教科書への問いかけ
第一部 過去の克服と教科書対話
 第一章 戦後ドイツにおける対話の再開
 第二章 鉄のカーテンを越えて―ドイツ・ポーランド教科書対話
 第三章 ドイツ・ポーランド教科書勧告の反響
第二部 ヨーロッパの統合と歴史教育
 第四章 歴史教育における“ヨーロッパ”への取り組み
 第五章 ヨーロッパの歴史?
 終章 国家観の変容と歴史の課題
あとがき
参考文献

近藤孝弘/著
中央公論社

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2020年7月 9日 (木)

In this corner of the world/この世界の片隅に 独語版 1 2 3

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「この世界の片隅に」上中下の、ドイツ語訳である。
タイトルがなぜ英語なのかは謎だが、すでにこの英語のタイトルで知られていたからなのかもしれない。
語り言葉の言い回しは、こんなふうなのかなと。

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「お世話になったおもな方々」「呉について」「広島について」「補足」「時代について」「あとがき」も、訳されている。
そして巻末に、用語の説明が付いている。
1巻:31項目
2巻:32項目
3巻:37項目
たとえば3巻最終場面で「DDTをまぶして貰うたらええわ」というセリフがあるが(独語:Die können sie mit DDT absprühen.)、この「DDT」に「*」がついていて、巻末の説明では、次のように書かれている。
DDT, Dichlordiphenyltrichlorethan, ist ein starkes Insektizid. Die Besatzungstruppen sprühten dieses zur Verbesserung der Hygienezustände direkt auf die Haut. Heutzutage ist der Einsatz von DDT in Japan, Deutschland und den meisten anderen Ländern der Erde verboten.

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von Fumiyo Kouno
übersetzt von Cordelia von Teichman
Carlsen Verlag GmbH
https://www.carlsen.de/softcover/in-this-corner-of-the-world-1/93662
https://www.carlsen.de/softcover/in-this-corner-of-the-world-2/93676
https://www.carlsen.de/softcover/in-this-corner-of-the-world-3/96242

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