ドイツ関連

2020年11月17日 (火)

East German Modern

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記述は英語である。
ドイツ民主共和国時代に建設された建物の写真集で、29の都市の120以上の施設・建物が掲載されている。
スターリン様式などのソ連的な建築物はない。
「東ドイツの現代建築」というタイトルに、「東ドイツモダニズム」というような意味合いを持たせたのかもしれない。

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しかし、東独時代の建物の名称と所在する都市の名称はあるが、詳しい所在地はないので、建物の名称を使って地図でなどで検索してみた。
すでに取り壊されてしまった建物も含んでいるので、検索できない建物もある。

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本文は写真と建物名と都市名のみの記載で、巻末に、建築年、設計者(と思う)氏名、簡単な解説が記されている。

掲載ページ、都市名、名称、所在地を一覧にしておく。

前文
4/ベルリン/国際映画館/Karl-Marx-Allee 33
4/ベルリン/教師の家/Alexanderstraße 9
6/ベルリン/住宅宮殿/Karl-Marx-Allee 83
6/ベルリン/カール・マルクス書店があった建物/Karl-Marx-Allee 78
6/ノイシュトレーリッツ/劇場/
7/ベルリン/レストラン・モスクワのロビー/Karl-Marx-Allee 34
7/ポツダム/プール/
8/ベルリン/国際映画館/Karl-Marx-Allee 33
9/ベルリン/会議ホールのロビーにある階段/Alexanderstraße 11
9/ライプツィヒ/オペラハウス/Augustusplatz 12
10/ベルリン/レストラン「アホルンブラット」/
10/ゲーラ/文化の家のロビーにあるレリーフ「リート・デ・レーベン」/
11/ベルリン/教師の家/Alexanderstraße 9
11/ベルリン/会議ホール/Alexanderstraße 11
12/ドレスデン/中央百貨店/
12/ドレスデン/レストラン・バスタイ/
13/ハレ/革命的ドイツ労働者の運動の碑/Riebeckplatz
14/ドレスデン/ルンド映画館/Prager Str. 6
14/ベルリン/ハウス・デス・ライゼン/Alexanderstraße 7
14/ベルリン/ベルリンテレビ塔/Panoramastraße 1A
本文
17/バート・フランケンハウゼン/パノラマ博物館/Am Schlachtberg 9
18/ライプツィヒ/新ゲヴァントハウス/Augustusplatz 8
20/ライプツィヒ/オペラハウス/Augustusplatz 12
21/ライプツィヒ/Wintergartenhochhaus/Wintergartenstraße 2
22/ライプツィヒ/Europahaus/Augustusplatz 7
23/ライプツィヒ/Bowlingtreff/Wilhelm-Leuschner-Platz
25/ライプツィヒ/ドイツ体育大学(DHfK)/Jahnallee 59
27/ライプツィヒ/エルンスト・グルーベ・ホール/Jahnallee 59
29/ライプツィヒ/水泳施設/Mainzer Str. 4
30/ライプツィヒ/大学高層ビル/Augustusplatz 9
31/ザンガーハウゼン/円形駅売店/
33/ザンガーハウゼン/駅ビル/
34/コトブス/ブランデンブルク工科大学の教育棟/Universitätsstraße 18あたり
35/コトブス/第32工科高校/Theodor-Storm-Straße 22
36/コトブス/宇宙飛行プラネタリウム・ユーリ・ガガーリン/Lindenpl. 21
37/コトブス/市役所/Berliner Pl. 6
38/イエナ/大学高層ビル/Leutragraben 1
41/オーバーホーフ/インターホテル・パノラマ/Dr, Theo-Neubauer-Straße 29
42/アイゼンヒュッテルシュタット/オートパビリオン/Lindenallee 17
43/アイゼンヒュッテルシュタット/スポワ小売店/Lindenallee 26あたり
44/アイゼンヒュッテルシュタット/Magnet Department Store/Lindenallee
45/アイゼンヒュッテルシュタット/美容院/
47/アイゼンヒュッテルシュタット/マギスタル薬局/Lindenallee 13
48/アイゼンヒュッテルシュタット/ショッピングセンター・フィックス/Lindenallee 20あたり
49/アイゼンヒュッテルシュタット/家具屋/Lindenallee 24
50/アイゼンヒュッテルシュタット/ゲストハウス/Karl-Marx-Straße 37
52/アイゼンヒュッテルシュタット/集合住宅II/Pawlowallee
53/アイゼンヒュッテルシュタット/保育園/Erich-Weinert-Allee 3
54/アイゼンヒュッテルシュタット/集合住宅II/Pawlowallee
55/アイゼンヒュッテルシュタット/集合住宅II、ブロック51/53/Pawlowallee
57/ピルナ/人民企業飛行機タービン工場の食堂/Dr.-Benno-Scholze-Straße
58/ロストック/カトリック教会/äktweg 4–6
60/ロストック/カモメハウスとヴァーノフ薬局/Lange Str. 6
61/ロストック/旧市街北の家々/Grapengießerstraße
63/ロストック/カフェバー・コスモス/Nobelstraße 50
64/ロストック/クンストハレ/Hamburger Str. 40
65/ロストック/ネプチューン水泳プール施設/Kopernikusstraße 17
67/ロストック/マーブルホール、ネプチューン水泳プール施設/Kopernikusstraße 17
68/ロストック/ひまわり住宅/Mecklenburger Allee 19
69/ロストック/段々とした高層住宅/Bertolt-Brecht-Straße
71/フランクフルト(オーダー)/プラッテンバウ、P2型/
72/フランクフルト(オーダー)/オーダー塔/Logenstraße 8, Oderturm, 10
73/フランクフルト(オーダー)/若者の映画館/Heilbronner Str. 18
74/ザスニッツ/音楽パビリオン/Strandpromenade 6
76/ケムニッツ/ナツィオネン通りの建物/Str. der Nationen 48
77/ケムニッツ/ナツィオネン通りの建物/Str. der Nationen 48
78/ケムニッツ/ナツィオネン通りの建物/Str. der Nationen 46
79/ケムニッツ/ナツィオネン通りの建物/Brückenstraße 8
80/ケムニッツ/州機関の建物と党の建物/Brückenstraße 12
83/ケムニッツ/カール・マルクス像/Brückenstraße 10
84/ケムニッツ/市庁舎と議会ホテル/Theaterstraße 3
85/ケムニッツ/バスターミナル/Str. der Nationen 33
87/ヴァーネミュンデ/海岸レストランティーポット/Am Leuchtturm
88/ポツダム/中央駅/Zum Bahnhof Pirschheide 1
89/ポツダム/カフェ・ゼーローゼ/Breite Str. 24
90/ポツダム/データ処理センター/Dortustraße 46
91/ポツダム/スタウデンホフの住宅アパート/Am Kanal 49
93/エアフルト/円形パビリオン/Gothaer Str. 38
94/エアフルト/フリッツ・グレマーの彫刻「建設助手」/
95/エアフルト/グロッセ・ヴィーゼのパビリオン/Gothaer Strasse 38
96/エアフルト/SED地区党校/Werner-Seelenbinder-Strasse 14
98/エアフルト/ビリニュス・パサージュ/Mainzer Str. 36-37
99/エアフルト/管理棟/Jürgen-Fuchs-Straße 1
100/マグデブルク/中央デパート/Breiter Weg 128
102/マグデブルク/ローテホルン市立公園多目的ホール/Heinrich-Heine-Weg
105/ホイエルスヴェルダ/中央デパート/Lausitzer Pl. 1-3
106/ビンツ/沿岸監視塔/Strandpromenade
107/ビンツ/バス停の屋根/
108/ベルリン/カール・マルクス・アレー、ブロックC北/Karl-Marx-Allee 71〜91
110/ベルリン/高層建築、シュトラウスベルガー・プラッツ/Strausberger Pl.
111/ベルリン/Café Sibylle/Karl-Marx-Allee 72
112/ベルリン/フランクフルト門/Frankfurter Tor 1、Frankfurter Tor 9
113/ベルリン/バルコニーアクセス住宅/Karl-Marx-Allee 130, あたり
114/ベルリン/ブロックC南のポータル/Karl-Marx-Allee 72〜90
115/ベルリン/子供の家/Strausberger Pl. 19
116/ベルリン/テレビ塔/Panoramastraße 1A
118/ベルリン/統計の家/Karl-Marx-Allee 1
119/ベルリン/旅行の家/Alexanderstraße 7
120/ベルリン/会議ホール/Alexanderstraße 11
121/ベルリン/教師の家/Alexanderstraße 9
122/ベルリン/家の中の芸術ギャラリー・パビリオン/Karl-Marx-Allee 45
123/ベルリン/インターフロア花店/Karl-Marx-Allee 35
125/ベルリン/国際映画館/Karl-Marx-Allee 33
126/ベルリン/ベルト・ヘラーの壁画「ソビエト連邦の人々の生活から」、レストラン・モスクワ/Karl-Marx-Allee 34
127/ベルリン/レストラン・モスクワ/Karl-Marx-Allee 34
128/ベルリン/映画館コスモス/Karl-Marx-Allee 131A
129/ベルリン/バベッテ美容院/Karl-Marx-Allee 36
130/ベルリン/放送局/Nalepastraße 18
131/ベルリン/チェコ大使館/Wilhelmstraße 44
133/ベルリン/ディナモ・スポーツセンター/Weißenseer Weg 53
134/ベルリン/トレーニング・ホール、スポーツフォーラム/Weißenseer Weg 53
135/ベルリン/スポーツとレクリエーションセンター/Landsberger Allee 77
136/ベルリン/ミュッゲルタワー/Str. zum Müggelturm 1
137/ベルリン/プレンツラウアーベルクのツァイスの大きなプラネタリウム/Prenzlauer Allee 80
138/ベルリン/国連広場/Platz der Vereinten Nationen 1
139/ベルリン/フリードリヒ通り駅の出入国管理会館/涙の宮殿/Reichstagufer 17
140/ベルリン/ノイエス・ドイッチェラント出版社/Franz-Mehring-Platz 1
141/ベルリン/フリードリヒシュタットパラスト/Friedrichstraße 107
142/ベルリン/ハインリッヒ-ハイネ地区/Heinrich-Heine-Straße 2
144/ベルリン/移動可能拡張ホール/Kopenhagener Str. 17
145/ベルリン/フォルクスビューネ/Linienstraße 227
146/ベルリン/ライップツィヒ通り住宅街/Leipziger Str. 43
147/ベルリン/シュピッテレック/Seydelstraße 37
149/オーシャッツ/ロネヴィッツ・サービスセンター/Lonnewitz
150/ハレ/ドーム広場の住宅/
151/ハレ/壁画「原子エネルギーの平和利用」/Magdeburger Str. 36
152/シュヴェリーン/パノラマレストラン/Johannes-Brahms-Straße 65
153/シュヴェリーン/スポーツと会議ホール/Wittenburger Str. 118
155/ヘリングスドルフ/アートパビリオン/Auf der am Rosengarten, Promenade
156/ワイマール/キオスク/Coudraystraße 3
157/ワイマール/公園のカフェテリア/Marienstraße 15b
158/ノイブランデンブルク/文化教育の家/Marktpl. 1
159/ノイブランデンブルク/文化教育の家/Marktpl. 1
160/ゲーラ/文化と会議センター/Schloßstraße 1
163/バーベ/島の楽園/Am Inselparadies 1
164/ドレスデン/人民企業ターボエンジン/Königsbrücker Str. 96
166/ドレスデン/人民企業ターボエンジン/Königsbrücker Str. 96
167/ドレスデン/人民企業ターボエンジン/Königsbrücker Str. 96
168/ドレスデン/ロボトロン研究センター/Grunaer Str. 2
169/ドレスデン/ロボトロン研究センター/Grunaer Str. 2
170/ドレスデン/ロボトロン研究センター/Lingnerallee 3
172/ドレスデン/ロボトロン研究センター/Zinzendorfstraße 5
173/ドレスデン/ロボトロン研究センター/Lingnerallee 3
175/ドレスデン/ノイシュタットの郵便局/Königsbrücker Str. 21
176/ドレスデン/ノイシュタットの郵便局/Königsbrücker Str. 21
178/ドレスデン/住宅用高層ビル/Grunaer Str. 5
179/ドレスデン/事務所および商業ビル/Wilsdruffer Str. 3
181/ドレスデン/円形映画館/Prager Str. 6
182/ドレスデン/交通工学大学/Strehlener Pl. 2
183/ドレスデン/技術大学学生寮/
184/ドレスデン/文化宮殿/Schloßstraße 2
185/ドレスデン/ブラセウィッツ漕艇センター/Ferdinand-Avenarius-Straße 4
186/ドレスデン/労働安全中央研究所/Gerhart-Hauptmann-Straße 1

Hans Engels/著
Prestel
https://prestelpublishing.randomhouse.de/book/East-German-Modern/Hans-Engels/Prestel-com/e552265.rhd

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2020年11月 7日 (土)

物語 東ドイツの歴史 分断国家の挑戦と挫折

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2018年のドイツ行きでは、東であったエリアに行ってきた。
東ドイツ時代はどんな街だったのだろうか、村だったのだろうかと思いながら景色を眺めていたものだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/deutsch-2018.html
そして、先日、「ドイツ統一」を読んだばかりである。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/10/post-44f087.html
「ドイツ統一」の著者の見方は、「西」のCDUの立ち位置からの東西両ドイツと「統一」後のドイツの通史ということができるだろう。
けれど、本書の東ドイツへの見方のほうが「ドイツ統一」よりもかなり辛辣であるとの印象が残った。
これは、ドイツ人が見た東ドイツと、ドイツとは一定の関係を持ってはいるが、日本人が見た東ドイツの違いなのだろうか。
とはいえ、著者の立ち位置は、いまひとつはっきりとしない。

P.72に「質の管理がなされていない商品が大量に出回るという計画経済の欠点」、P.73に「社会主義体制下では、消費財が必要なところに供給されずに不足しつつも、物資は退蔵されるという「不足の経済」が生じる」という記述がある。
「質の管理がなされていない商品が大量に出回る」ことや「不足しつつも、物資は退蔵される」ことが「計画経済」や「社会主義体制」の必然的結果のような記述だが、結果としてそうした現象はあったとしても、必然的結果と断定するのはどうなのだろうかと思う。
また、P.102にベルリンの壁が建設された頃の写真が二葉掲げられていて、上の写真は「自由への跳躍」(Sprung in die Freiheit)として有名な写真なのだが、これは「壁」建設が始まった2日後、まだ「壁」になる前の鉄条網で遮断されたときのできごとで、本文との関係からいえば、唐突すぎやしないかと思う。
こうしたことも、本書の著者の立ち位置が判然としないことを示しているのかもしれないし、「物語」であるのかもしれない。

私じしんは、いまだに東ドイツ、DDRを追っているのだが、東ドイツといえば、大学の授業で、「東ドイツの労働者は分業の一部を担っているが、分業での単なる歯車的な存在ではなく、自分が担当する作業について、作業の全体を把握していてその中の任務を理解していて、資本主義体制下の労働者のような歯車としての存在でしかないような労働者ではない」、ということを聞いていたことが始まりと言える。
当時は、日本でも東ドイツは東の優等生として語られていており、そうした見方は自分でも見聞きしていた。
これは、本書P.180の「一九七〇年代、東ドイツは外から見れば安定しており、世界で一〇指に入る先進工業国であるという評価」と重なる。
しかし、著者は、存在していた東ドイツを同時代的に実体験することは、年齢的に不可能だ。
また、1989年は、それまで自分のなかに積み重なっていたドイツだとか、社会主義、資本主義、民主主義だとかといったもろもろとの関係で見なおさなければならなかったし、そのプロセスである種の喪失感がともなったのだが、「一九八九年の変動を思春期に経験した」(P.271)著者は、どのような思いで1989年を見ていたのだろうか。
それはある意味、何にもとらわれないで東ドイツを記述できるということでもある。
であるとしても、実際に行ったわけではなく伝聞でしかないが、現在進行形で東ドイツを見聞きしていた体験がある者からすれば、残念ながら、本書の内容は自分の中に落ちてこないで読み終えてしまったのである。
同じ著者の「歴史としての社会主義 東ドイツの経験」も読んでいるが、本書ほどには落ちてこないということではなかったのは、「歴史としての社会主義 東ドイツの経験」が単著ではないからかしら。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-c5545b.html

「コラム(3) 映画のなかの東ドイツ」に出てくる映画は、「グッバイ・レーニン」「善き人のためのソナタ」「東ベルリンから来た女」「僕たちは希望という名の列車に乗った」「Sonnnenalle」の5本。
最後の「Sonnnenalle」以外は、映画も見たし、DVDも持っている。
「僕たちは希望という名の列車に乗った」は、原著がある。
「グッバイ・レーニン」「僕たちは希望という名の列車に乗った」は、いずれも独語のシナリオ本がある。
「グッバイ・レーニン」「善き人のためのソナタ」はノベライズ本があり、「グッバイ・レーニン」は和訳本、「善き人のためのソナタ」は独語。
「グッバイ・レーニン」
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/good-bye-lenin.html
「僕たちは希望という名の列車に乗った」
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-b5ab06.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-ac0753.html
「バルーン 奇蹟の脱出飛行」は、間に合わなかったか。

巻末の年表と文献は、整理しておこう。

はじめに
序章 東ドイツを知る意味
第1章 新しいドイツの模索―胎動 1945‐1949
第2章 冷戦と過去の重荷を背負って―建国 1949‐1961
コラム(1) オリンピックと東ドイツ
コラム(2) シュタージ
第3章 ウルブリヒトと「奇跡の経済」―安定 1961‐1972
コラム(3) 映画のなかの東ドイツ
コラム(4) 東ドイツ時代のメルケル
第4章 ホーネッカーの「後見社会国家」―繁栄から危機へ 1971‐1980
コラム(5) トラバントと「オスト・プロダクト」の今
コラム(6) 請願と日常生活の政治
第5章 労働者と農民の国の終焉―崩壊 1981‐1990
終章 統一後の矛盾と対峙
あとがき
参考文献
略語一覧
関連年表

河合信晴/著
中央公論新社
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/10/102615.html

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2020年10月13日 (火)

ドイツ統一

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1990年10月3日をはさんで、それまでの東西両ドイツ、「統一」後のドイツの、通史である。
あらたな事実はないが、30年経って当時を振り返るためにはとっつきやすい。
ただし、いくつか課題がある。
1989年10月9日のライプツィヒの月曜デモでの、クルト・マズアの役割は書かれていない。
SED機関紙「Neues Deutschland」を「新しいドイツ」と訳して表記しているが、訳語としてはそのとおりなのだが、「ノイエス・ドイチュラント」で通用するのではないか。
P.87に「一九八九年の秋にソヴィエト帝国が崩壊したとき」という記述があって、あれ、ソ連の崩壊は1991年12月だろうと思ったのだが、この「ソヴィエト帝国」は、ソ連を頂点として東欧諸国を含めた「東」を、著者のスタンスを表しているのだろう。
それはP.137でも同じ考え方で「ソヴィエト帝国」が使われている。

2018年にドイツに行ったとき、ドレスデンの「ドイツ民主共和国の世界」(Die Welt der DDR)という、DDR時代のさまざまなものが展示されている博物館に行ったのだが、教室が再現されているエリアで1989年5月14日のパレードの映像が流れていた。
そのとき、自由ドイツ青年団(Freie Deutsche Jugend、FDJ)の映像で行進曲と歌が流れると、映像を見ていた年配男女が合わせて歌っていた。
同時代の人たちなのだろうが、四半世紀が過ぎ、どのような思いを持っているのだろうか。
その人たちに尋ねることができれば訪ねたかったけれど、アジア人がそばにいるのに当時の歌を歌ってしまうのは、やはりオスタルギーの一面だったのだろうか。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/10_2-die-welt-d.html

P.115以降に旧ドイツ領のことがとりあげられている。
本書では、ポーランドとの国境確定での旧ドイツ領だけであるが、旧ドイツ領については、『旧ドイツ領全史 「国民史」において分断されてきた「境界地域」を読み解く』が詳しく取り扱っている。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-9ed135.html

原著は「Geschichte der deutschen Wiedervereinigung」(ドイツ再統一の歴史)であるが、あえて「統一」としたことについては、訳者がCDUに所属する保守派の著者の評価とともに、解説で詳しく書いている。

「読書案内」があるので、リストアップしておこう。
★は、既読。
また、本源的蓄積がすすむのだろうか。
図説 ドイツの歴史(河出書房新社)★
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-964d.html
ドイツの歴史を知るための50章(明石書店)
自由と統一への長い道(昭和堂)
二つのドイツ 1945-1990(岩波書店)★
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/1945-1990-9035.html
ベルリンの壁 ドイツ分断の歴史(洛北出版)★
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-6108.html
ヨーロッパに架ける橋 東西冷戦とドイツ外交(みすず書房)
東ドイツ史 1945-1990(白水社)
物語 東ドイツの歴史(中公新書・予定)
ゴルバチョフ その人生と時代(白水社)
冷戦終焉二十年 何がどのようにして終わったのか(勁草書房)
東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊(白水社)
1989 東ドイツ史(作品社)
われらが革命 1989年から90年 ライプチッヒ、ベルリン、そしてドイツの統一(彩流社)★
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/198990-cf8e.html
歴史としてのドイツ統一 指導者たちはどう動いたか(岩波書店)

第1章 革命前夜
第2章 平和革命
第3章 国民をめぐる転換
第4章 再統一と世界政治
第5章 編入による統一
結語
訳者解説
略語表
解題付き文献表
関連年譜
人名索引

アンドレアス・レダー/著
板橋拓己/訳
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b527921.html

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2020年10月10日 (土)

戦争は女の顔をしていない

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多くの女性が前線に行っていたことは、「英雄譚」としては、フィクション・ノンフィクションにかかわらずこれまでもさまざまな媒体で示されていたのだが、そうした「英雄譚」ではない、一人の人としての視点で自分のまわりに起きたできごとを語ることが戦後はタブーとされていたことは、戦後の帰還兵たちの処遇と同じように、文中にもあったが「スターリンは人々を信用していなかった」ということだろう。
「国家」に役立つ「体験談」だけが許された時代、社会主義革命後のソ連でも、旧来のジェンダー構造が連綿と続いていたことが示される。
また、本書に出てくる人たちの周囲の男の兵士たちの姿は、一方では占領地での占領軍兵士たちでもあったわけで、その落差は何なのだろう。
本書の証言にも出てくるが、その証言は「私自身だって、奴らが痛い目に遭えばいいと思っていたわ・・・」と、「ドイツ憎し」。
そこまでの思いをもたらしたドイツの侵攻だったのだろうし、「大祖国戦争」的なナショナリズムによるものだったのかもしれない。
逆に、ジレンマを抱えながらドイツ兵の命を救った証言もある。
下部構造が変わってもあらたな上部構造は一朝一夕にはつくられていかないのか、下部構造は変わっていなかったのか、なんてことも考えてしまう。
証言のなかには、「ソ連」やスターリンを信じ続けている人たちがいるし、批判を声に出す人たちもいる。
長年にわたる証言の集積だから、時代とともに雰囲気は変わったのかもしれない。
負の歴史を表にだすことを嫌うひとたち、ベラルーシ大統領もそのひとりだが、日本でも同じように負の歴史は隠しておきたいひとたちが多いようだ。

男の兵士たちであっても、日常に目を向けていた人はいたと思うのだが、やはり「沽券」に支配されて今うのだろうか。

P.114で、ウィーンまで来た人の話が出てくる。
その時に行った動物園は、シェーンブルン動物園だったのだろうな。

原題は、「У войны не женское лицо」。
1983年に書かれ、1984年に雑誌「10月」に最初に掲載され、雑誌「ネマン」にさらにいくつかの章が掲載されたが、検閲官によって、あるいは著者自身によっていくつかの回想録は削除された。
ペレストロイカ後1985年に刊行、邦訳は2008年、著者のノーベル文学賞受賞は、2015年。
元の出版社の版権が消失したが、2016年現代文庫から刊行された。
http://www.gunzosha.com/20151021message.html
2019年から「ComicWalker」で漫画化され連載、単行本も出た。
https://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_AM00000019010000_68/

人間は戦争よりずっと大きい(執筆日誌一九七八年から一九八五年より)
思い出したくない
お嬢ちゃんたち、まだねんねじゃないか
恐怖の臭いと鞄いっぱいのチョコレート菓子
しきたりと生活
母のところに戻ったのはわたし一人だけ……
わが家には二つの戦争が同居してるの
受話器は弾丸を発しない
私たちの褒美は小さなメダルだった
お人形とライフル
死について、そして死を前にしたときの驚きについて
馬や小鳥たちの思い出
あれは私じゃないわ
あの目を今でも憶えています……
私たちは銃を撃ってたんじゃない
特別な石けん「K」と営倉について
焼き付いた軸受けメタルとロシア式の汚い言葉のこと
兵隊であることが求められたけれど、かわいい女の子でもいたかった
甲高い乙女の「ソプラノ」と水兵の迷信
工兵小隊長ってものは二ヶ月しか生きていられないんですよ、お嬢さん方!
いまいましい女と五月のバラの花
空を前にした時の不思議な静けさと失われた指輪のこと
人間の孤独と弾丸
家畜のエサにしかならないこまっかいクズジャガイモまでだしてくれた
お母ちゃんお父ちゃんのこと
ちっぽけな人生と大きな理念について
子供の入浴とお父さんのようなお母さんについて
赤ずきんちゃんのこと、戦地で猫が見つかる喜びのこと
ひそひそ声と叫び声
その人は心臓のあたりに手をあてて……
間違いだらけの作文とコメディー映画のこと
ふと、生きていたいと猛烈に思った
訳者あとがき
解説 著者と訳者のこと 澤地久枝

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(Святла́на Алякса́ндраўна Алексіе́віч)/著
三浦みどり/訳
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b256544.html

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2020年9月26日 (土)

旧ドイツ領全史 「国民史」において分断されてきた「境界地域」を読み解く

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本書が対象としている「旧ドイツ領」は、「1871年に成立するドイツ帝国以来の〈ドイツ統一国家〉に属したが、そののちにその領域から切り離された諸地域」であるとしている(P.2)。
それぞれの地域について、「ドイツ領となるまで」「ドイツ領の中の○○○○」「その後」「テーマ史」「著名出身者」と同じテーマで詳述されている。
実際にドイツ領であった地域の歴史なので、フランクフルト国民会議での「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」や、グリム兄弟の弟ヴィルヘルムがフランクフルトでのゲルマニスト会議で考えた「スイスの山奥からバルト海地方まで、ライン河からオーデル河まで」というふうに「ドイツ語を話す人が暮らすところがドイツ」としたような「ドイツ」についてどう考えるかは、本書では触れていない。

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P.429以降で、ドイツ領内で現在も路線部分がベルギー領となっている「フェン鉄道」について書かれている。
フェン鉄道そのものは廃線となっているのだが、一部はサイクリングロードとなっているらしい。

「境界地域 border land」は、他国との境界を視認できない海に囲まれた「島国日本」では、凡そ想像すらできない感覚なのかもしれない。
歴史の動きによって、境界が動き、あるときはこの国、別のときには別の国に属すると言われても、そこに暮らす人たちは境界の動きにあわせて「自分の国」を追って移動はできない。
移動するとすれば、それは自らの意思とは別の力によるものだ。

地図が多いのは嬉しいのだが、基本的にグレーの濃淡のみでの表現で、都市の位置と名称でどのあたりの地図であるのかの見当はつくのだが、もう少しわかりやすい表現ができれば良かったと思う。

校正漏れもあった。
たとえば、P.23、「カリーニングラード旧市庁舎」の写真説明、P.132右の3行目から4行目、P.168左下から3行目。

はじめに
 「分断された歴史叙述」─なぜ今、旧ドイツ領なのか
 地理概念について
 本書の構成
地名表記と地図について
凡例
旗・紋章
歴史観光ガイド
 オストプロイセン
 ヴェストプロイセン
 シュレージエン
 ポーゼン
 ヒンターポンメルン
 北シュレースヴィヒ
 エルザス=ロートリンゲン
 オイペン・マルメディ
 序章 「旧ドイツ領」史概観
 中・東ヨーロッパにおける国家形成(9-12世紀頃)
 ポーランド=リトアニアの台頭と宗教改革(13-16世紀)
 ポーランド=リトアニア共和国の展開と三十年戦争(16-17世紀)
 ポーランド分割と中・東ヨーロッパの再編(18世紀)
 ウィーン体制と・年革命(19世紀前半)
 ドイツ統一(1871-1914年)
 第一次世界大戦下の中・東ヨーロッパ(1914-1918年)
 第一次世界大戦の戦後処理・領土問題(1918-1924年頃)
 戦間期の中・東ヨーロッパ(1918-1933年)
 ナチ・ドイツと第二次世界大戦(1933-1945年)
 第二次世界大戦末期の避難と戦後の領土変更にともなう「追放」・「送還」(1945-1950年頃)
 戦後の中・東ヨーロッパ(1945-1991年頃)
第1章 オストプロイセン 歴代君主の戴冠地ケーニヒスベルクを擁すプロイセンの中核
 ドイツ領となるまで
 ドイツ領の中のオストプロイセン
 その後
 テーマ史
 著名出身者
第2章 ヴェストプロイセン ポーランド分割後にプロイセンと一体化させられた係争地
 ドイツ領となるまで
 ドイツ領の中のヴェストプロイセン
 その後
 テーマ史
 著名出身者
第3章 シュレージエン ピァスト朝・ハプスブルクを経て、工業化を果たした言語境界地域
 ドイツ領となるまで
 ドイツ領の中のシュレージエン
 その後
 テーマ史
 著名出身者
第4章 ポーゼン プロイセンによって「ドイツ化」の対象となった「ポーランド揺籃の地」
 ドイツ領となるまで
 ドイツ領の中のポーゼン
 その後
 テーマ史
 著名出身者
第5章 ヒンターポンメルンス ウェーデン支配を経て保守派の牙城となったバルト海の要衝
 ドイツ領となるまで
 ドイツ領の中のヒンターポンメルン
 その後の「ヒンターポンメルン」
 テーマ史
 著名出身者
第6章 北シュレースヴィヒ 普墺戦争からドイツ統一、デンマーク国民国家への足掛かり
 ドイツ領となるまで
 ドイツ領の中のシュレースヴィヒ
 その後
 テーマ史
 著名出身者
第7章 エルザス=ロートリンゲン 独仏対立の舞台から和解の象徴、欧州連合の中心地に
 ドイツ領となるまで
 ドイツ領の中のエルザス=ロートリンゲン
 その後
 テーマ史
 著名出身者
第8章 オイペン・マルメディ周辺地域 ベルギーの中のドイツ語共同体と、線路で分断された飛び地
 ドイツ領となるまで
 ドイツ領の中のオイペン・マルメディ
 その後
 テーマ史
 著名出身者
参考文献・ウェブサイト一覧
索引
あとがき

衣笠太朗/著
パブリブ
https://publibjp.com/books/isbn978-4-908468-44-5

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2020年9月23日 (水)

きたれ、バウハウス

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8月に行った、「開校100年 きたれ、バウハウス」の図録。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-2ebec9.html

バウハウス関連では、以前、キッチン展を見た。
バウハウス・テイスト バウハウス・キッチン展 2010年10月30日
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c118.html

テッサウ(Dessau)にあるBAUHAUSは、いまはCOVID-19でダメだが、宿泊できるらしい。
https://www.bauhaus-dessau.de/en/service/sleeping-at-bauhaus-1.html
安野光雅さんも、「ドイツの森」で「バウハウス テッサウ」を書いているので、行っている。

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neafが復刻したBAUHAUSの積み木があるが、これは展示されていなかったし、ショップにも置かれていなかった。
https://ch.naefspiele.ch/de/produkt/bauhaus-bauspiel/

バウハウスとは何か?
バウハウスと近代の「総合」—bauenの諸理念をたどって 長田謙一
バウハウス教育 変遷の中に見えるもの 杣田佳穂
カタログ
 I 学校としてのバウハウス
 II バウハウスの教育
 ヨハネス・イッテンの授業、パウル・クレーの授業、ワシリー・カンディンスキーの 授業、 ヨゼフ・アルバースの授業、 ラースロー・モホイ=ナジの授業、 オスカー・ シュレンマーの授業、ヨースト・シュミットの授業
 III 工房教育と成果
家具工房、金属工房、陶器工房、織物工房、壁画工房、版画工房、印刷広告工房、彫刻工房、舞台工房、建築部門
 IV 総合の位相
1923年のバウハウス展、バウハウスの写真
 V バウハウスの日本人学生
水谷武彦、山脇巌 、山脇道子、大野玉枝
論集
 バウハウス物語 宮島久雄
 バウハウス設立のミステリー 利光功
 バウハウスへの道 ~グロピウスとその時代背景~ 貞包博幸
 バウハウス—普遍性と全体性への渇望・あるいは新たな貧困— 柏木 博
 建築学生コンラート・ピュシェルをとおしてみるマイヤー主導のバウハウス建築教育 冨田英夫
 オスカー・シュレンマー の《三つ組のバレエ》とバウハウス 木村理恵子
 メディアの発見—統合の場としての写真の実験— 深川雅文
 1920-30年代の日本美術におけるバウハウス「攻防」 長谷川新
 大阪におけるバウハウスの理論による教育の広まり—大阪市立工芸高校を中心に— 下村朝香
 水谷武彦のbauhaus/バウハウスのMUTI 長田謙一
 山脇巌の建築の仕事 梅宮弘光
 山脇巌の写真について 深川雅文
 山脇道子のバウハウス 杣田佳穂
 ベルリンのバウハウスラー、大野玉枝の活動と作品 常見美紀子
翻訳集
 「バウハウス宣言 ヴァイマール国立バウハウスの基本計画」 ヴァルター・グロピウス/深川雅文訳
 「国立バウハウスの理念と形成」 ヴァルター・グロピウス/深川雅文訳
 「写真は光の造形である」 ラースロー・モホイ=ナジ/深川雅文訳
資料編
 バウハウス年表
 作家バイオグラフィー
 バウハウス文献集
 作品リスト

http://www.bauhaus.ac/bauhaus100/books/catalog_come_to_bauhaus.html

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2020年9月15日 (火)

ナチスが恐れた義足の女スパイ 伝説の諜報部員ヴァージニア・ホール

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どこまでが事実なのかは確かめようがないが、あたかも映画を見ているような印象で読み進んだ。
外国勢力の支配に対する人々の抵抗は、アルジェリアやベトナムなど、フランスは逆の立場での経験もあるはずだが、そうしたフランスが逆の立場であったことを見たであろうヴァージニアは、そうしたフランスのありようを、どう考えていたのだろうか。
そして、戦後、「Collaboration」として断罪されたひとたちのなかに、もしかしたらヴァージニアとともにあった娼婦たちも、いたのかもしれないと思うと、フランスを別の角度からも見なければならないかもしれない。

たとえばP.171の「三階です」のように、建物の階を示している表現はいくつかあるが、この「三階」は、日本でいう「三階」なのか、フランスの「Rez-de-Chaussée」「Premier étage」「deuxième étage」「
Troisième étage」なのか、原文はどなっているのだろうか。

読売新聞書評
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20200725-OYT8T50110/

第一章 夢
第二章 機は熟せり
第三章 私のふしだらな友人たち
第四章 ディンディにさようなら
第五章 一二分、一二人
第六章 スパイたちの伏魔殿
第七章 非情の山
第八章 最重要指名手配エージェント
第九章 雪辱
第一〇章 山々の聖母マリア
第一一章 頭上の天空から
第一二章 CIAでの歳月

ソニア・パーネル/著
並木均/訳
中央公論新社
https://www.chuko.co.jp/tanko/2020/05/005307.html

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2020年9月12日 (土)

豪華映画二本立て「17歳のウィーン フロイト教授 人生のレッスン」「バルーン 奇蹟の脱出飛行」

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相模大野の車庫に入っていたSEが、なぜか外に出ていた。

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さて、まずは「17歳のウィーン フロイト教授 人生のレッスン」である。

湖のあるHeimatから汽車に乗る駅は、SHÖRFLING、そこは、Attersee、Salzkammergut。
しかし、ロケはアッター湖ではなく、南チロルだったようだ。

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着いた駅は、ウィーン西駅(Wien Westbahnhof)だろうが、えらく小さい。
ロタンダが火事?

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フランツは、フロイト教授を訪ねる。
フロイトがウィーンで住んだところは、いま、フロイト博物館となっているが、映画での映画でのフロイト教授が住む建物は、別の建物のようだ。

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それで、フランツとフロイトが語り合うこのシーン。
アルベルティーナのテラスではないか。

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フランツがフロイト教授といっしょにいくカフェは、Café Landtmannっぽい。

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そして、ウィーンのゲシュタポの建物であるが、いまは存在しない。
その跡地には、「Denkmal der Opfer der Gestapo」(ゲシュタポ犠牲者のための記念碑)があるのみ。

映画は、う・・・・む、フロイトと17歳とくれば、「リビドー」に満ちた映画であった。

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プログラムは、買った。

「17歳のウィーン フロイト教授 人生のレッスン」公式
https://17wien.jp/

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続いて「バルーン 奇蹟の脱出飛行」。
DDRとくれば、このトートバッグでしょう。

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しかし、である。
冒頭で背景が語られるが、なんと、英語。
なぜ独語じゃないんだ?
そうか、この映画はUSAも関与していたのか。

学校の成年式での歌「Unsere Heimat)は、2018年のドイツ行きで、ドレスデンのDDR博物館で聞いた(もしかしたらライプツィヒのシュタージ博物館での「WIR SIND DAS VOLK!」展でだったかもしれない)。
https://www.youtube.com/watch?v=f5wQ1AQdjlQ

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電気技師ペーターは、Wartburg(ヴァルトブルク)を運転しているのだが、舞台がテューリンゲンだからアイゼナハで生産されていたWartburgで、Trabantではないのか。
型式は1956年に生産が始まった、Wartburg 311のようだ。
1965年にはWartburg 353にモデルチェンジしているので、入手はそれ以前なのだろう。
それにしても、1979年の脱出までよく走り続けたものだ。
もっともDDRでは車を自分で整備するのは当たり前だったので、電気技師であれば当然だったのかもしれない。
しかし、シュタージは、車を買った人物のチェックはしていないのだろうか。
ヴァルトブルクの持ち主を当たれ、というシーンは、なかった。

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「壁」のあるBrandenburger Torと、Unter den Lindenは、CGだろうな。

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ヘリコプターは、Mi-2だろう。

ペーターの家にあるラジオには、「REMA MON」とあったが、これだったか。
https://www.flickr.com/photos/gynti/4122835332

ペスネック(Pößneck)が舞台となるが、場所はライプツィヒの南西約80kmに位置している。
https://www.poessneck.de/de/landingpage.html
そして、脱出に成功する直前、ザイデル中佐のセリフに「ブランケンシュタイン(Blankenstein)」の地名が出てくる。
当時のDDRとBRDの国境沿いの、DDR側のエリアだ。
ただし、ロケ地はペスネック(Pößneck)ではなく、バイエルンのノルトハルベン((Nordhalben)。

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気球が飛んだのは、ツィーゲンリュック(Ziegenrück)、降りたのは、オーバーフランケン地方の街ナイラ(Naila)

映画としては、USAがからんだせいなのか、画面上はこれでもかこれでもかとスリルの連続である。
当時のDDRの閉塞感、重圧感を表現したかったのかもしれないが、たとえば、ペーター家の長男フランクがお向かいのバウマン家(親父のエリックはシュタージだと)の娘クララに宛てた手紙をポストから取り戻すときにいきなりワンコが吠えるのは、あまりにも唐突すぎる演出だと思った。
ほかでも、シュタージが呼び鈴を鳴らしたのがいかにもペーターの家だと思わせ、じつはフランクが帰ってきたのであったというシーンも、やり過ぎじゃないかと思った。
その意味では「僕たちは希望という名の列車に乗った」のほうが、控えた演出で臨場感をたっぷり味わうことができたと思う。

「善き人のためのソナタ」のヴィースラー大尉は左遷後は封書を開ける業務についていたが、シュトレルツィク家の家族とギュンター池の家族の逃亡を許してしまったザイデル中佐、お向かいのエリック・バウマンは、責任を問われたのか。

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プログラムは、買った。

「バルーン 奇蹟の脱出飛行」公式
https://balloon-movie.jp/

いずれも、アルテリオ映像館にて。
https://kac-cinema.jp/

映画の場面の画像は、トレーラーより。

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2020年8月23日 (日)

ゲッペルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白

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映画を見る機会はあったのだが、積極的な気持ちが湧いてこなかったので、見ていない。
映画を知ったのは、岩波ホールに別の映画を観に行ったときで、ポスターに書かれていた「なにも知らなかった 私に罪はない」というフレーズに、またか、と思って、見ようという気持ちにはならなかった。
https://www.iwanami-hall.com/movie/%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%A8%E7%A7%81

ポムゼルが語ったこと、ナチス体制に組み込まれなければ暮らしていくことが難しかったことは、当時のドイツの多くの人が程度の差はあれ、経験したことに違いない。
事前に映画や本について何も知らずに読むと、「へえ、大変な経験をしたのね」と、多くの「知らなかった」経験談を見聞きしたときと同じように、通り一遍の感想で終わってしまいそうだ。
その経験を語ってくれと言われて、知らなかった、仕方がなかったとすることも、自身の経験・記憶はおそらく、意識的にか、あるいは無意識的にかは問わず、ナチス体制が崩れたあとになって幾多の年月が過ぎる間に、本人のなかで「合理化」されていったと考えざるを得ない。
そうした「合理化」も、1930年代から戦後の時代を生き延びた多くのドイツ人には、大なり小なり共通していたのではないだろうか。
近所の人々がいなくなったこと、ヒトラーについて些細なことを言ったことで逮捕されてしまうことがあったこと、同僚が帰ってこないことなどを見聞きしたとしても、そこで「自分を守る」動きをしてしまうのも、ふつうのことだろう。
そして過去にとどまらず、「テレビをつければ、シリアで恐ろしい出来事が起きているのはわかる。たくさんの人々が海で溺れているのが報道される。でも、そのあとテレビではバラエティ・ショーが放映される。シリアのニュースを見たからといって、人々は生活を変えない」と現代を見ているポムゼルの話には、ふむふむと納得してしまうのである。
けれど、こうした態度が、ポムゼルがいた体制の、そしていま日本や世界を覆っている政治や情勢の思うツボなのだろうなと、本書を脇に置いたときに思い直す。

自分にとって受け入れることができない事象に対して「否」と声をあげることとは、何だろうか。
ナチス体制にどう向き合うかといった大きなことではなくても、たとえば、自分の仕事のなかで、他者から自分の仕事に対するクレームを受けたとき、しかもそのクレームになるほどねと思うような内容が含まれていたとき、仕事人としてクレームに向き合うか、市民としてクレームを聞くかという場面があるだろう。
先日の、「黒い雨」訴訟での、控訴しない意向であった広島県と広島市が、国とともに控訴することにしたことも、似ているかもしれない。
県か市かはさておいて、法制にかかわる部署にいる職員は、どんな思いで仕事をしているのだろうか。

「昨今の政治情勢という枠組みの中で個々人がいかなる責任を負うか」、「ものごとから目をそらすな」(P.14)は、本書後半のトーレ・D.・ハンゼンの「ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか」で示す警告として繰り返される。
この警告が問うのは、「無知、受動性、無関心、御都合主義」でいる「私」、あるいは知りつつ黙している「私」に対してだ、ということだが、「私」は、どこまで「無知、受動性、無関心、御都合主義」でおらずにいることができるだろうか。
白バラを語ったところで「私自身は抵抗運動に参加することなどできなかった。臆病者だから、そんなことはとてもできなかった」、『「ノー」というのは、命がけのことだった』(P.81)とある。
少なくともこの日本では、「ノー」というのは、「命がけ」にはならない。
冒頭に書いた「またか、と思って、見ようという気持ちにはならなかった」もまた、「無知、受動性、無関心、御都合主義」の陥穽だったも言える。

ここの考察が、興味深い。
https://young-germany.jp/2018/07/goebbels/

まえがき(トーレ・D.・ハンゼン)
「私たちは政治に無関心だった」―一九三〇年代ベルリンでの青春時代
「ヒトラーはともかく、新しかった」―国営放送局へ
「少しだけエリートな世界」―国民啓蒙宣伝省に入る
「破滅まで、忠誠を」―宣伝省最後の日々
「私たちは何も知らなかった」―抑留と、新たな出発
「私たちに罪はない」―一〇三歳の総括
ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか(トーレ・D.・ハンゼン)
謝辞
『ゲッペルスと私』刊行に寄せて(石田勇治)
原注
索引

ブルンヒルデ・ポムゼル/著
トーレ・D.・ハンゼン/著
石田勇治/監修
森内薫/訳
赤坂桃子/訳
紀伊國屋書店
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011600

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2020年8月 7日 (金)

ドイツ語 続コーヒー・ブレイク

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ドイツ語 コーヒー・ブレイクの続編。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-8c0626.html

「Entschuldigung」は実害のないときは使ってもよいが、実害があるとこには、これを言ったら負け。
以前ドイツで、明日は帰国という日の夜中にホテル内に火災警報が鳴り響き、宿泊客は外に出されたことがあった(それも真冬)が、翌日チェックアウトのとき、「昨晩、何があったの?」と聞いたところ、警報はバーの厨房で煙かなにかを感知したからだと教えてもらった。
「寝ていてびっくりした」と言ったら、珍しく「アイム、ソーリー」とも言われた。
そこまでのドイツ語hあしゃべれないから、英語で聞いたので、「Entschuldigung」は聞けなかったのだが、まあ、自分から率先して謝罪したんじゃなく言われたからの謝罪だけど、謝ったら負けのお国で謝ったということで許してあげようと思ったのであった。

旅行者としてはごく短い重要文型をいくつか、単語としては250語ぐらい正確に覚えておくとよろしいと思います。
長期滞在には単語数が最低800語ほど、できれば2000語ほど知っているとよろしいでしょう。
単語はアクセント、文はイントネイションが大事です。
(P.63)

I.ドイツへの旅
II.生活
III.ドイツ歳時記

小塩節/著
日本放送出版協会

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