ドイツ関連

2019年11月 8日 (金)

「馬車よ、ゆっくり走れ」と「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」

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馬車よ、ゆっくり走れ
「馬車よ、ゆっくり走れ」は、東山魁夷さんがかつて留学したドイツ・オーストリアを、30数年後の1969年になって奥様とともにめぐった紀行エッセイである。
装丁も東山魁夷さん。
冒頭のカラーの「ローテンブルクの泉」と、各章の扉頁に描かれたスケッチ以外に、絵は登場しない。
その絵のない文章読んでいて、東山魁夷さん、ドイツが本当に好きなんだなと思う。
たしかに、ドイツの街、あまり大都会でない街、大都会でも大通りではない路地などを歩いていると、初めて来たところでも、妙に懐かしい思いがするのは何故なのだろう?
いくつかの街は歩いたことがあるので、出てくる場所(通りや川、お店など)を見て、ああ、あのあたりだと思い出しながら読むのだが、半世紀近く前の雰囲気はいまとは大きく違っているのだろう。

旅で飲むのは葡萄酒、レストランでは給仕、ホテルではメイドが世話をしてくれる。
それにしても、東山魁夷さんご夫妻の、アルツブルク音楽祭で終わる約5ヶ月に渡るドイツ・オーストリア旅行は、本書を読むと大使館からお迎えがあったり街の案内があったり、たぶん、このたびをプロデュースし支えた人の力があったのだろう。
そして、すべてのスケジュールがあらかじめ組まれていたのではなく、大まかな行程があって、旅しながら細部を決めて行ったのではないだろうか。

ザンクト・ヴォルフガングの記述で、「ザルツカムマーグートと呼ばれるこの地方は、ザルツブルクの西方の山地に」(P.412)とあるが、「ザルツブルクの東方の山地」である。

この旅で「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」が生まれた。
「馬車よ、ゆっくり走れ」訪れたところが「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」のどこに出てくるかを、左に「馬車よ、ゆっくり走れ」で出てきた街とページを、右に「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」の作品名とページを記しておく。

リューベック 9 窓明り 14
リューベック 9 霧の町 18
リューベック 9 石畳の道 20
リューベック 9 ホルシュテン門の窓 106
メルン 33 水辺の町 30
リューネブルガー・ハイデ 49 燎原 32
ツェレ 55 ツェレの家 34
リューデスハイム 130 リューデスハイムにて 130
リンブルク 139 朝の聖堂 24
リンブルク 139 夕べの聖堂 26
ハイデルベルク 148 緑のハイデルベルク 50
ヴィムプヘン 163 静かな町 44
ヴィムプヘン 163 古都遠望 46
フライブルク 168 晩鐘 40
フライブルク 168 フライブルクにて 115
ニュールンベルク 182 ニュルンベルクの窓 36
ニュールンベルク 182 デューラーの家より 42
バンベルク 192 バンベルクのドーム 14
バンベルク 192 バンベルクにて 118
ローテンベルク 204 ローテンベルクの門 16
ローテンベルク 204 赤い屋根 17
ローテンベルク 204 窓明り 18
ローテンベルク 204 19
ローテンベルク 204 丘の上のローテンベルク 20
ローテンベルク 204 ローテンブルクの泉 56
ディンケルスビュール 225 ホテル・ドイチェス・ハウス 50
ネルトリンゲン 247 石の窓 10
ネルトリンゲン 247 ホテル・太陽 109
ネルトリンゲン 247 ネルトリンゲンの町 120
ケーニヒスゼー 290 明けゆく山湖 66
オーバーゼー 294 緑深き湖 68
オーバーゼー 294 みづうみ 70
クレームス 354 坂道の家 88
クレームス 354 ホテル・ポスト 138
メルク 359 青きドナウ 86
フェルンパス 380 水澄む 92
エッツ 396 丘の教会 94
エッツ 396 マリアの壁 96
ザンクト・ヴォルフガング 412 湖畔の村 84
ザンクト・ヴォルフガング 412 白馬亭 134
ザルツブルク 422 ホーエン・ザルツブルク城 76
ザルツブルク 422 雪の城 80
ザルツブルク 422 緑苑の花 140

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ドイツ
1 リューベック
2 ラウエンブルクの春
3 ホルシュタイニシェ・シュヴァイツ
4 リューネブルガー・ハイデ
5 ゴスラー
6 ベルリン
7 ハンブルグ
8 ラインに沿って
9 フランクフルト・アム・マイン
10 ヴォルムス
11 アルト・ハイデルベルク
12 ネッカー河に沿って
13 フライブルク
14 ニュールンブルク
15 バンベルク
17 アウグスブルク
17 ローテンブルク
18 ディンケルスピュール
19 ネルトリンゲン
20 ミュンヘン
21 南バイエルンの山で
22 山の湖
23 ベルヒテスガーデン
オーストリア
1 ウィーン
2 ブルゲンラント
3 ドナウ河に沿って
4 インスブルック
5 フェルン峠
6 ザンクト・アントン
7 エッツ谷
8 ツェル・アム・ゼー
9 ザンクト・ヴォルフガング
10 ザルツブルク

東山魁夷/著
新潮社

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ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集
「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」は、「馬車よ、ゆっくり走れ」の旅から生まれた作品である。
大都市を描いた作品は、ない。
いくつかの作品は、1年前の「生誕110年 東山魁夷展」で観ることができた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/110-d0d4.html

「馬車よ、ゆっくり走れ」で訪れたところが「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」に掲載された作品が「馬車よ、ゆっくり走れ」のどこに出てくるかを、左に「ドイツ・オーストリア 東山魁夷小画集」の作品名とページ、右に「馬車よ、ゆっくり走れ」で出てきた街とページを記しておく。

1 窓明り 14 リューベック ドイツ 9
2 霧の町 18 リューベック ドイツ 9
3 石畳の道 20 リューベック ドイツ 9
4 朝の聖堂 24 リンブルク ドイツ 139
5 夕べの聖堂 26 リンブルク ドイツ 139
6 水辺の町 30 メルン ドイツ 33
7 燎原 32 リューネブルガー・ハイデ ドイツ 49
8 ツェレの家 34 ツェレ ドイツ 55
9 ニュルンベルクの窓 36 ニュールンベルク ドイツ 182
10 石の窓 38 ネルトリンゲン ドイツ 247
11 晩鐘 40 フライブルク ドイツ 168
12 静かな町 44 ヴィムプヘン ドイツ 163
13 古都遠望 46 ヴィムプヘン ドイツ 163
14 バンベルクのドーム 48 バンベルク ドイツ 192
15 緑のハイデルベルク 50 ハイデルベルク ドイツ 148
16 ローテンベルクの門 52 ローテンベルク ドイツ 204
17 赤い屋根 56 ローテンベルク ドイツ 204
18 窓明り 58 ローテンベルク ドイツ 204
19 60 ローテンベルク ドイツ 204
20 丘の上のローテンベルク 62 ローテンベルク ドイツ 204
21 明けゆく山湖 66 ケーニヒスゼー ドイツ 290
22 緑深き湖 68 オーバーゼー ドイツ 294
23 みづうみ 70 オーバーゼー ドイツ 294
24 ホーエン・ザルツブルク城 76 ザルツブルク オーストリア 422
25 雪の城 80 ザルツブルク オーストリア 422
26 湖畔の村 84 ザンクト・ヴォルフガング オーストリア 412
27 青きドナウ 86 メルク オーストリア 359
28 坂道の家 88 クレームス オーストリア 354
29 水澄む 92 フェルンパス オーストリア 380
30 丘の教会 94 エッツ オーストリア 396
31 マリアの壁 96 エッツ オーストリア 396
32 森の幻想 98 - ドイツ -
33 ステンド・グラス 104 - ドイツ -
34 古道具屋の窓 105 - ドイツ -
35 ホルシュテン門の窓 106 リューベック ドイツ 9
36 揺れる窓 107 - ドイツ -
37 町角 108 - ドイツ -
38 ホテル・太陽 109 ネルトリンゲン ドイツ 247
39 古いガラス絵 110 - ドイツ -
40 花のある窓 111 - ドイツ -
41 青い窓 112 - ドイツ -
42 デューラーの家より 113 ニュールンベルク ドイツ 182
43 祭りの日 114 - ドイツ -
44 フライブルクにて 115 フライブルク ドイツ 168
45 鐘のある窓 116 - ドイツ -
46 内庭 117 - ドイツ -
47 バンベルクにて 118 バンベルク ドイツ 192
48 穀倉 119 - ドイツ -
49 ネルトリンゲンの町 120 ネルトリンゲン ドイツ 247
50 ホテル・ドイチェス・ハウス 121 ディンケルスビュール ドイツ 225
51 聖堂の中 122 - ドイツ -
52 夕かげ 123 - ドイツ -
53 家並 124 - ドイツ -
54 人形芝居の小屋 125 - ドイツ -
55 塔の影 126 - ドイツ -
56 ローテンブルクの泉 127 ローテンブルク ドイツ 204
57 絵のある窓 128 - ドイツ -
58 野の花 129 - ドイツ -
59 リューデスハイムにて 130 リューデスハイムにて ドイツ 130
60 ティロルの窓 131 - オーストリア -
61 描かれた窓 132 - オーストリア -
62 酒場の看板 133 - オーストリア -
63 白馬亭 134 ザンクト・ヴォルフガング オーストリア 412
64 骨董屋 135 - オーストリア -
65 鐘楼の窓 136 - オーストリア -
66 裏窓 137 - オーストリア -
67 ホテル・ポスト 138 クレームス オーストリア 354
68 ザルツブルクの看板 139 ザルツブルク オーストリア 422
69 緑苑の花 140 ザルツブルク オーストリア 422
70 ミラベル宮殿 141 ザルツブルク オーストリア 422
71 居酒屋 142 - オーストリア -

はじめに・憧憬と郷愁
ドイツ
オーストリア
スケッチ・ドイツ
スケッチ・オーストリア
あとがき・ドイツ、オーストリアを旅して
文庫版あとがき
図版目録

東山魁夷/著
新潮社
https://www.shinchosha.co.jp/book/123204/

 

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2019年10月12日 (土)

Das schweigende Klassenzimmer/沈黙する教室

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先日見た映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」の原作を、独語原著と翻訳とを同時進行で読む。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-371ced.html
原著のサブタイトルは「Eine wahre Geschichte über Mut, Zusammenhalt und den Kalten Krieg」、「勇気、結束、冷戦についての真実の物語」ってところか。
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邦訳本(本書)のサブタイトルは「1956年東ドイツ—自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語」。

映画と本書とでは、黙祷事件→調査→退学処分→西への逃亡という大筋のストーリーは同じだが、ひとつひとつのエピソードは異なっている。
映画でのような盛り上がりシーンは、ない。
また、映画の登場人物に相当するような人物は、本書には明確には登場しない。
そして、原著は発言をクォーテーションマークで囲んでいないので、発言なのか文章なのかが判然としないところが多々ある。
改行位置も、原著と訳書とでは異なっているところが多い。

そして、「全訳」(訳者あとがき、P.416)となっているが、ところどころ訳されていない文章がある。
●原文「...und im Rückspiel in Budapest mit 7 : 1 nach Hause schickte. Wir konnte die Spiele im DDR Rundfunk verfolgen. Dass diese ungarische Mannschaft im WM-Endspiel 1954 gegen Deutschland verloren hatten...」(P.34)は、「...さらにブダペストで行われた第二試合では、七対一の大差で勝利し、ホームへ送り返したのである。このハンガリーチームは一九五四年のW杯決勝でドイツに敗退したが...」(P.51)と、「Wir konnte die Spiele im DDR Rundfunk verfolgen.」(私たちは東独の放送で試合を追うことができた。)の訳文がない。
●本書P.102の「RIASがハンガリーの自由放送局による支援の呼びかけを流した。」の次の「Einigen von uns ruft er immer noch ins Ohr.」(P.64)が訳されていない。
訳されていない文章は、他にもあり。

また、この訳でいいのかしらと思うところもある。
本書P.18最終行「その三年前にあたる一九五三年六月十一日」、原文は「Drei Jahre zuvor, am 17. Juni 1953」(P.16)、「17」がなぜ「十一日」になった?。
当然「6月17日蜂起」(Aufstand des 17. Juni)であるなら「一九五三年六月十七日」でなきゃ。
本書P.266では「一九五三年六月十七日の暴動」となっている。

これは原著への疑問だが、本書P.27の2行目「それからカラシニコフを構えたロシア兵が穴に入ってきて」、原文は「Denn kam ein Soldat mit einer vorgehaltenen Kalaschnikow.」(P.21)とあるが、「カラシニコフ」が設計したAK-47がソ連で採用されたのは1949年で、ドイツに侵攻したソ連軍は、当時はまだ所持していなかったのではないか。
当時だと、ドラム型弾倉のPPSh-41、バラライカまたはマンドリンではなかったか。
本書P.35の歴史教科書について「(フォルク・ウントヴィセン社)、一九五三年。」とあるが、原文の「Volk und Wissen Volkseigener Verlag Berlin, 1953, das..」(P.25)は「(フォルク・ウントヴィセン社、一九五三年)」とする方がいいと思う。
「人と知識人民出版社」としてしまうかは別として。
なお、「Volk und Wissen Volkseigener Verlag」は再統一後民営化され、存続しているようだ。
https://www.cornelsen.de/empfehlungen/volk-und-wissen
本書p.37「領土の二万八千五百三ヘクタール」の原文は「Gebiet von 28.5 Millionen Hektar」(P.27)だから、「二千八百五十万ヘクタール」だろう。
本書P.65の市長フランツ・ベッカーのが書いた言葉の中に、学校が「民主主義と人文主義の、シンボル」とされている記述があるが、「ein Symbol der Demokratie und des Humanismus」(P.43)は、「人文主義」ではなく「ヒューマニズム」でいいのではないか。
本書P137「大臣にはすでに首謀者の検討がついていた。」は、「大臣にはすでに首謀者の見当がついていた。」
本書P.174「Sバーン」が2か所に出てくるが「(国営の都市近郊鉄道)」と注釈がついているのは、2度目の「Sバーン」、ホントは最初の「Sバーン」につけなきゃ。

以外にも、日本語としてこなれていない、意味不明な文章も多いと感じたのだが、原著著者じしんが文章を生業とする人ではないのだろうし、映画に合わせた突貫工事での翻訳だったであろうことは、想像できる。

シナリオ本もあるので、おいおい読んでみよう。

Dietrich Garstka/著
Ullstein Buchverlage GmbH, Berlin
https://www.ullstein-buchverlage.de/nc/buch/details/das-schweigende-klassenzimmer-9783548607696.html

ディートリッヒ・ガルスカ/著
大川珠季/訳
アルファベータブックス
https://ab-books.hondana.jp/book/b439134.html

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2019年9月30日 (月)

ファービアン

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頽廃に満ち混沌としたワイマール時代、「モラリスト」であるファービアンの日々。
どのような世の中だったか、マレーネ・ディートリヒが出た映画「嘆きの天使」を思い出せばよかろう。
人生をめぐる主観的な理想や現実がないまぜとなり、したたかに生きる人たちとの邂逅。
そうした世の中が全体主義国家に収斂していった歴史を見れば、今の日本のこれからの方向性を示唆しているようにも見える。

「まえがき」より。
モラリストは彼の時代の鏡でなしに、ゆがんだ鏡を突きつけるのが常である。戯画──1つの正当な芸術手段──は、彼のなしうる最高のものである。これで効果がなければもはや何ものも全然効果がない。・・・彼のスローガンは常に、そして現在もDennoch(それにもかかわらず!)である。

E・ケストナー/著
小松太郎/訳
筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480024589/

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2019年9月24日 (火)

アウシュヴィッツのタトゥー係

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本書は、実話を元にした「フィクション」である。
まず最初に書いておく。
タイトルにある「タトゥー係」、原著はTATTOOISTで、ペパンが自己紹介した時の「タトゥー係」に「タトヴィエラ」とのルビがあるが、「Tätowierer」だろう。
この「タトゥー」であるが、いまのファッション的「タトゥー」を連想させる「タトゥー」ではなく、第二次世界大戦時の収容所における収容者識別のための番号のためなので、ここではあえて「入れ墨」としたい、

著者の本書への思いは、The Telegraphで記事になっている。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180204-00010001-clc_teleg-int
その、元記事もある(会員登録必要)。
https://www.telegraph.co.uk/men/thinking-man/tattooist-auschwitz-moving-love-story-inside-horror-nazi-death/
この記事で言えることは、モデルとなった人が被収容者に入れ墨の番号を彫る係であったこと、少女に番号を彫ったこと、そして戦後に再開し家庭を持ったことは、事実のようだ。
しかし、本書に記述された収容所内での様子は、どこまでが「事実」に近いのか、「創作」なのか、わからない。

収容所に連れてこられる前、ラリはどのような暮らしをしていたのか。
家畜運搬用の貨車に乗せられたときは「いつも通りの服装」、アイロンのかかったスーツ、清潔なワイシャツとネクタイ」といういでたち。(P.10)
親衛隊曹長の「何語が話せる?」の問いに「スロバキア語、ドイツ語、ロシア語、フランス語、ハンガリー語、それからポーランド語を少し」と答える。(P.51~52)
欧州に住む者として複数の言語の読み書きができることは当たり前だとしても、これだけの言語ができると親衛隊曹長自ら言うと言うことは、ラリはそれなりの教育を受けており、服装からしても上層階級に属していたのだろうと想像できる。

ラリは、入れ墨係から選ばれて、入れ墨係助手となり、前の入れ墨係がいなくなったことですぐに入れ墨係となる。
入れ墨係にあんったことで、ラリは特権を得ることができたようだ。
収容所そのものは親衛隊の管理下にあったが、収容所の被収容者の選定権がゲシュタポにあったことから、収容所にゲシュタポ政治局が置かれていて、入れ墨係は被収容者の収容に関わるということでその政治局直轄となっていたらしい。(P.60)
その特権に対し、ラリ自身「自分が特権を得たことを恐れるべきなのだろうか?」と自問し(P.64)、それまでいた収用棟から出るとき、「裏切り者」と言われる経験をする。(P.65)
しかし、「裏切り者」に対する報復は、ない。
それは、特権を利用したラリが得た食料を、元の収用棟に運んだからなのか。
それにしても、入れ墨係となったことでラリは担当親衛隊員より上位に立つことになる。

収容所では、ラリはさまざまな「偶然」と「幸運」に恵まれ、そして、特権を得ていることを示せる(入れ墨のための鞄をいつも持ち歩いている)とはいえ、親衛隊員と話ができる、交渉もできる、収容所内を歩きまわれる、他被収容者、女子被収容者や外部から来た作業員と話ができる、さらに食料や略奪された宝石貨幣を得ることができるといった描写が続く。
不思議なことに、接する人物や親衛隊の側にいる人物は、ほとんど「悪人」としてはラリに面と向かって登場しない。
ラリ担当の親衛隊員バレツキにしても根っからの「悪人」ではなさそうで、道の途中でユダヤ人を射殺するシーンはあるが、その前にラリは「今日のバレツキはひどく様子がおかしい」と感じ(P.121~122)、ふだんはそうではない人物像を匂わせている。
その親衛隊員バレツキは、ドイツ人ではなくルーマニア生まれ(P.74)であるが、どうして親衛隊員になることができたのだろうか。
バレツキは「ルーマニア生まれ」とあるだけで、非アーリア人とは書かれていないことが、その答か。
そして、さすがにメンゲレの描写は「悪人」っぽいが、逆に、いかにも的すぎるような気もする。
人が殺される場面、たとえば監視塔から被収容者が銃撃される場面、作業で最後になった者が銃殺される場面は、ある。
ラリは被収容者が殺されるところを目撃するのだが、人を殺す親衛隊員についてのいい意味でも悪い意味でも人間臭い描写はなく、ラリの受け止め方も第三者的な受け止め方だ。
収容された年月と経験が、ラリの受け止め方をそうさせたということになるのだろうか。

と、辛口に評してみた。

訳者あとがきに「ラリは、アウシュビッツという現実を構成の人々のために語るために、その証人として神から遣わされた人物だったような気がする」とあるが、本書は、「ひとりを救うことは、世界を救うこと」の言葉によって犠牲になった者、そのような言葉を発することすらできずに犠牲になった者、「この借りは、かえづことができない。今、ここでは返せない。つまりは永遠には返せないということだ」と思いながら生きのびる者、あるいは「ひとりを殺してほかの住人が助かるなら、おれは殺す」と「仕事」をする者、さまざまな被収容者たちの生き方(あるいは死に方)に対して、読む者としてどのように共感できるのかできないのか、という投げかけであると言えるのかもしれない。
共感したからと行って、現実の数多くの死者の群れに対する救いにはならないのだが。
もっと具体的に示せば、コルベ神父の行為をどう受け止めるのか、ということと重なるのだろう。

「謝辞」によれば、元々は脚本として存在していたとのことだ。
それを小説としたのが本書だという。
そう言われると、本書の淡々とした人物や情景の描写は、うなずくことができる。
とはいえ、本書の描写によって、アウシュビッツの、あるいは、他の収容所の持つ非道さが薄まってしまうことを危惧する。
ドイツ首相がなぜアウシュビッツのことを謝罪し続けるのか、目的は謝罪というよりも、忘れていないことを表すことだと考えるし、ヴァイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」(Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschließt, wird blind für die Gegenwart.)演説とともに、その底にはキリスト教の罪と贖罪、神と人間との関係があると考えるが、そうしたアウシュビッツをめぐるさまざまな考え(「なかった」とする考えも含め)も、あわせて知っておいて欲しいと思う。

本書のことを知ったときに真っ先に思ったことは、ふたつ。
ひとつはフランクル氏のこと、もうひとつは、マシュカン教授のこと。
本書を読む少し前に、フランクル氏の「夜と霧の明け渡る日に」を読んだのだが、フランクル氏についてはあらためて言及するまでもなかろう。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-758f87.html
「夜と霧の明け渡る日に」を読んでいたことが、これまでここに書いたように、本書に対して厳しい視線を向けることになったのだとは思う。
そしてマシュカン教授は、「詩人の恋」(加藤健一氏が何度か演じ、4度くらい舞台を見た)に登場するウィーンの声楽の先生で、劇の後半で、マシュカン教授はかつては収容所の被収容者で、腕に入れ墨があることが明らかになる。
また、マシュカン教授の指導を受けるスティーブンはダッハウ収容所を訪れ、観光地まがいの、そしてドイツ語の説明しかないダッハウの様子を見て、ドイツ語表記しかないのでドイツ人以外にはわからない、展示のしかたについてもこんな展示は真実を伝えていない怒りを爆発させる。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-ae42.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-ae42.html
アウシュビッツまで行くのは大変だが、ダッハウなら、ミュンヘンから半日あれば行ってくることができるので、バイエルンに行く機会があれば、ぜひ訪れてほしい。
8年前に行ったが、今は、英語の説明もある。
ダッハウへ
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7c7c.html
ダッハウ収容所
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-190b.html
食堂棟と囚人棟、ムゼウム
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-e03f.html
二度と繰り返すな
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-72f2.html

ちなみに、欧米での「The Tattooist of Auschwitz」の評価をAmazonで見ておこう
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Amazon.de
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4,2 von 5 Sternen
5 Sterne:67%
4 Sterne:17%
3 Sterne:8%
2 Sterne:0%
1 Stern:8%

ヘザー・モリス/著
金原瑞人・笹山裕子/訳
双葉社
https://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-24204-1.html

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2019年9月16日 (月)

希望のかたわれ

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ひょんな経緯で、訳者から本書をいただくことになった。
内容は重たそうなのですぐには読まないでいたのだが、そういつまでも積ん読状態でいるのはいかがなものかということで読み始め、数多い(紹介ページは2ページにわたる)登場人物のことがおおむね理解できた中盤あたりから、一挙に読み進むことになってしまった。
時間軸と空間軸が交差しながら話が進行していく手法は本書ばかりではないが、本書ではさらに手記というかたちで「過去」が絡んでいる。
その「過去」も、現在進行形の話に収斂する。
チェルノブイリへの対応、モスクワがどこまで知っていてどのような対応を指示したのか、現地がどこまで状況を把握し対応しようとしたのか。
そして、モスクワや現地は、住民たちにどう対応したのか。
そこに、スターリン時代やブレジネフ時代の影響が残っていたのかどうか。
ブレジネフの死去が1982年11月10日、その後アンドロポフ、チェルネンコと短命の書記長が続き、ゴルバチョフの書記長就任が1985年3月11日。
チェルノブイリ原子力発電所の事故は、1986年4月26日。
当時、中央地方のほとんどの指導部の人たちの頭の中には、政治状況の揺り戻しについてチラチラしていたのではなかろうか。
そう思いながら、千葉や伊豆諸島での15号台風による被害、そして対応、「棄民」という言葉が頭のなかをぐるぐる回る。

ヨーロッパの街を歩くと、それらしきエリアがあったり女性が立っていたりするのをよく見ることがあるのだが、職業として認められているといっても、その背景にあるものを見ないで、認められているからOKではいかんのじゃないか。
韓国との問題にしても、強制か自由意志かの問題じゃない。
人として許せるの?、だと思うのだが。
西ヨーロッパにとっての東ヨーロッパは、日本にとってのアジアか。

「希望のかたわれ」、原著タイトルは「DIE ANDERE HÄLFTE DER HOFFNUNG」、直訳的には「べつの半分の希望」ということになるのだろうが、「かたわれ」にしても「べつの半分」にしても、それはなんだ?
手記には、いろいろなところで「希望」について書かれている。
数々の「希望」のうしろには数々の「絶望」があるのだろうが、もうすぐ観ることができる遅筆堂のお芝居には「絶望するな!」と叫ぶシーンがあって、「希望」には裏切られルカもしれないけれど、「絶望」だけは御免こうむりたい。

それにしても、まとまらない、まとめられない。
なので、「ロシア人の名前、覚えにくい」としておこう。

なお、萩尾望都さんが「私が薦める河出の本」に本書を書いている。
http://web.kawade.co.jp/sp130th/524/

メヒティルト・ボルマン/著
赤坂桃子/訳
河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309206813/

 

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2019年9月10日 (火)

わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想

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日本障害者協議会代表などをなさっている藤井克徳さんが、障害者差別や優生思想について、歴史や現状、そしてこれからのことを簡潔にまとめている。
「ノーマライゼーション」が日本でも言われて久しいが、この国で使われている「ノーマライゼーション」は、ちと違うのではないかと思ってしまう。
既存の社会の枠組みに「障害者(そして外国人その他)を迎えてあげよう」的な「ノーマライゼーション」なのである。
そして、「既存社会のありようは変えない」という但し書きが付いている。
鳴り物入りで登場した「障害者自立支援法」も、そうだ。
枠組みありき制約ありきの中での「自己決定」。
どうも、「reasonable accommodation」が「特権」であるかのような理解がなされているようにも見える。
「Nothing about us without us!」が置き去りにされている、ということだ。

「障害者の権利に関する条約」にしても、この条約に込められた理念は、障害者「だけ」に適用されるというものではない。
国会議員や自治体首長・議員らによる差別的発言(対象は障害者に限らず外国人などマイノリティ、あるいは女性)は、こうした人たちが障害者権利条約を知らない、理解していないことを如実に示している。

Convention on the Rights of Persons with Disabilities
https://www.un.org/development/desa/disabilities/convention-on-the-rights-of-persons-with-disabilities.html

障害者の権利に関する条約(和文)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000899.html

きょうされんの本書紹介記事。
http://www.kyosaren.or.jp/book/6690/

第1章 オットー・ヴァイトとの出会い
第2章 殺された障害者は20万人あまり
第3章 優生思想は多くの国々で、 そして日本でもはびこった
第4章 優生思想に対峙する 障害者権利条約
第5章 やまゆり園事件と障害のある人の今
第6章 私たちにできること

藤井克徳/著
合同出版株式会社
http://www.godo-shuppan.co.jp/book/b474135.html

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2019年8月28日 (水)

夜と霧の明け渡る日に ~ Es kommt der Tag, da bist du frei

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ナチスの強制収容所から解放された人の社会を見る眼と、その眼で見て生まれた思索を、嫌韓の世論を政府自らが煽っているかのようないまのこの国の風潮のなかで、読む。
「未発表書簡、草稿、講演」とある。
フランクルの、収容所からの解放とウィーンへの帰還、その過程で、収容所での経験からフランクルは人びとに何を伝えようと考えたのか。
「夜と霧」よりも、読むことが苦にならない。
これは、「夜と霧」とは違って本書の書簡にしろ講演にしろ、外に向けての言葉だからなのだろうかと思う。
実際のところは、フランクルがこうした言葉にするまでのプロセスがどうであったのかを知りたいところなのだが。

P.129、『そしてついに精神病院における大量殺戮が始まりました。もはや「生産的」でない生命、あるいはごくわずかの「生産性」しかないすべての生命は、文字通り「生きる価値がない」という烙印を押されたのです。』
この文章は1946年3月の講演の中で述べらえた言葉なのだが、70年以上経っても同じ言葉が繰り返さなければならない状況が存在している。
そして、強制収容所から解放された人たちへの周囲の「私たちは何も知らなかったんですよ」「私たちだって苦しんだんです」という言い訳(P.175)、これをフランクルは「責任からの逃避」(P.177)ととらえる。
フランクルは、すでに「オーストリア人の責任」にも触れている(最後にもう一度―『覆われた窓』について)のだが、この「責任からの逃避」は、世間を席巻している「嫌韓」ムード、それ以上の「反韓」ムード、あるいは大臣にある者の民主主義を否定するかのような発言に危機感が示されない状況の底、そうした状況を見聞きしている私たちの中にもあるんじゃないだろうか。

読んでいて思い出すのは、津久井の事件。
あの事件で、むかしいっしょにキャンプに行ったり余暇活動で遊んだりした人たちが、優生思想的考え方の持ち主の被告の行為によって亡くなったり傷ついたりしていることが大きな理由だが、被告についても精神障害に関わる仕事に携わっている立場からは、精神疾患がある(かもしれない)被告ということでは単なる被告としてみることはできない。
二重あの事件を見てしまう。
いまも窓口でいろいろな人に接するなかで、70年以上前からの言葉ではあれ、フランクル氏の言葉が体の中に沁みてくる。

フランクルのウィーンでの跡を探してみると、いくつかのデータがある。
生家と追放までの居住地の記念プレート、Czerningasse 6、2区。
https://www.geschichtewiki.wien.gv.at/Gedenktafel_Viktor_Frankl_(Czerningasse)
亡くなるまで住んでいた家の記念プレート、Mariannengasse 1、9区
https://www.geschichtewiki.wien.gv.at/Gedenktafel_Viktor_Frankl_(Mariannengasse)
ここに2015年5月26日に「Viktor Frankl Museum」が9区の「Mariannengasse 1」に開館したようだ。
https://www.franklzentrum.org/museum/oeffnungszeiten-und-adresse.html
近くのHöfergasse 5にViktor-Frankl-Parkがある。
https://www.wien.gv.at/umwelt/parks/anlagen/frankl.html
この他にも、ウィーン大学キャンパス(Altes Allgemeines Krankenhaus)に「Viktor E Frankl Gasse」、Praterstern駅の西のZirkusgasse 52の市営アパート「Viktor-Frankl-Hof」、NiederösterreichのReichenau an der Raxに「Dr. Viktor Frankl-Gasse」、KärntenのKlagenfurtに「Viktor-Frankl-Gasse」があるようだ。
次のウィーン行きでは、こうした場所をぜひ歩いてみたい。
GWのウィーン行きでは、ウィーン郊外のアム・シュタインホフ教会に行ったのだが、この教会はSozialmedizinisches Zentrum Baumgartner Höhe Otto-Wagner-Spital mit Pflegezentrum(バウムガルトナー・ヘーエ社会医療センター・オットー・ヴァグナー病院とケアセンター)内にある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-871916.html
この病院の前身は1907年につくられた「Niederösterreichische Landes-Heil- und Pflegeanstalt für Nerven- und Geisteskranke Am Steinhof」で、フランクルは1933年から1937年までここで勤務している。
ここにももしかしたらフランクルの跡が残されているのかもしれない。
また、TürkheimとKauferingのKZ跡地にもそれぞれ「Viktor Frankl Weg」「Viktor-Frankl-Strasse」があるらしい。
https://www.viktorfrankl.org/lifeandwork.html

以前、ブログのいくつかのところでフランクルはダッハウに収容されたということを書いたが、収容されたのはダッハウの支所カウフェリング(ミュンンヘンの西、レヒ川沿い)とトゥルクハイム(カウフェリングのさらに西、ミュンヘンから80km強)なので、コメントで訂正しておいた。
例えば、2011年にだっはうに行ってきたときのブログ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-72f2.html

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はじめに
「時代の証人たち」 一九八五年六月 ヴィクトール・E・フランクルの講演
書簡 一九四五年~一九四七年
 強制収容所から解放されて
 きみたちがまだ苦しんでいることを僕が苦しまなければ
 僕のそばには、すべてを変えてくれた人がいる
テキストおよび論文 一九四六年~一九四八年
 精神科医はこの時代に対して何と言うのか?
 人生の意味と価値について I
 人生の意味と価値について III
 人生はかりそめのもの? いや、すべての者は召し出されている
 人生の価値と人間の尊厳
 実存分析と時代の諸問題
 人種的な理由で迫害された強制収容所被収容者の問題
 最後にもう一度―『覆われた窓』について
 現代の諸問題にサイコセラピストはどう答えるか
 『フルヒェ』紙とスピノザ
 泥棒ではなく、盗まれたものに罪があるのか?
 殺人者は我々の中にいる
記念講演 一九四九年~一九八八年
 追悼
 亡き者たちの名においても和解を
 すべての善意の人々
ヴィクトール・E・フランクルの生涯と仕事
使用文献
訳注
訳者あとがき

ヴィクトール・フランクル/著
赤坂桃子/訳
新教出版社
http://www.shinkyo-pb.com/2019/05/23/post-1324.php

 

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2019年8月 4日 (日)

アール・ヌーヴォーの残照

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著者自身が訪れ撮影した世界各国の「アール・ヌーヴォー」な建築物の数々、なかにはこの建物もアール・ヌーヴォーなの?と思ってしまうものもあるが、「講義」のアール・ヌーヴォーとして捉えればいいだろう。

「イギリス」の章に「ラファエル前派」と題する文章がある。
春に「ラファエル前派の軌跡展」に行ってきたので、この文章はチェックしてみた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-bcc2.html
展覧会では、ウィリアム・モリスの「Arts and Crafts」がアール・ヌーヴォーの先駆だとしても、ラファエル前派と「Arts and Crafts」との関係がよく分からないで終わったのだが、ウィリアム・モリスはラファエル前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティを師とし、またセッティのモデルを務めた女性がウィリアム・モリスの妻となったようだ。
本書には「ロセッティは親友ウィリアム・モリスの妻ジェーンの連作を描き、ついには結婚する」と書かれているが、関係はあったようだが結婚に至ったわけではないようだ。

ジョルナイ工房の「ギュギ・コレクション」(P.263)の陶磁器は、宮川香山の高浮彫を彷彿とさせる。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/100-de94.html

「現在の共産主義体制国家ロシアの首都モスクワ市民の99%は集合住宅に住んでいる。」との文章があり、共産主義時代に「貧富の差によって生まれる個人住宅の所有は許され」ず、モスクワ市内の個人住宅はあらかた取り壊され、集合住宅に建て替えられた」と続く。(P.324)
前段の「現在の共産主義体制国家ロシア」、ううむ、謎。
後段の個人住宅の所有は許されなかったとしても、市内の個人住宅とは元は個人所有の邸宅だったマンションを集合住宅に建て替え、あるいは改造した、ということではないか。
モスクワに限らず、ヨーロッパの多くの都市の建物は、そうした歴史を持っているのではないか。
メトロポールホテル(P.328)は、先日読んだ「モスクワの伯爵」が住んでいたホテルだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-453166.html

P.444に、ウラジオストック駅の手書きのスケッチに『「BARAUBOGTOK」と大きく書いてある』という記述があり、そのスケッチを見ると、案の定キリル文字の「ВЛАДИВОСТОК」であるのだが、編集者はこの辺りのチェックはスルーしてしまったのだろうか。

P.459に大連の旧横浜正金銀行の写真がある。
設計は妻木頼黄と太田毅で1909年竣工、ドームが三つあるが、このドームの形状は、横浜は馬車道にある神奈川県立歴史博物館、横浜正金銀行本店のドームとそっくりだ。
横浜正金銀行本店の設計は妻木頼黄で、1904年竣工。

小谷匡宏のヒューマニズム 建築家・隈研吾
はじめに
アールヌーヴォー建築とは
各国のアールヌーヴォーの名称
1 イギリス:ウィリアム・モリス/チャールズ・レニー・マッキントッシュ/チャールズ・ハリソン・タウンゼント/ヨーク/ラファエル前派
2 ベルギー:ヴィクトール・オルタ/アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド/ポール・アンカール/ギュスターブ・ストローヴァン/ポール・コーシー/ブリュッセル ゲント アントワープ
3 フランス:エクトール・ギマール/ジュール・ラヴィロット/エミール・アンドレ/アンリ・ソヴァージュ/リュシアン・ヴァイセンビュルガー/オーギュスト・ペレ/パリ ナンシー/メッス 74
4 オーストリア:オットー・ワーグナー/ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ/ヨゼフ・ホフマン/オットー・シェーンタール/アドルフ・ロース/ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン/アルマ・マーラー/ウィーン/トウルン
5 ドイツ:ペーター・ベーレンス/ブルーノ・タウト/エリッヒ・メンデルゾーン/フリッツ・ヘーガー/ベルンハルト・ヘットガー/ミュンヘン/バーデン・バーデン/マンハイム/ワイマール/エアフルト/ヴォルプスヴェーデ/ヴィースバーデン
6 イタリア:ピエトロ・フェノーリオ/ジョヴァンニ・ミケラッツィ/ジュゼッペ・ソマルーガ/エルネスト・バジーレ/ジュゼッペ・ブレガ/ジュリオ・ウリッセ・アラタ/トリノ
7 オランダ:ヘンドリックス・ペトルス・ベルラーヘ/ウィレム・クロムハウト/ヨハン・メルヒオール・ファン・デル・メイ/ミハエル・デ・クレルク/ピッテル・ロードウェイク・クラメル/ヨハン・ルドヴィクス・マテウス・ラウエリクス/アムステルダム/ユトレヒト/デン・ハーグ
8 スペイン:アントニ・ガウディ・イ・コルネ/ルイス・ドメネク・イ・モンタネル/ジョゼップ・プーチ・イ・カダファルク/ジュゼッペ・マリア・ジュジョール・イ・ジベルト/バルセロナ/サン・ジョアン・デスピ
9 ボルトガル:リスボン
10 ルクセンブルク:ルクセンブルク
11 スイス:ル・コルビュジエ(シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ)/ルドルフ・シュタイナー/バーゼル
12 ハンガリー:レヒネル・エデン/ライタ・ベーラ/コモル&ヤコブ/ヘゲデーシュ・アールミン/バウムガルテン・シャーンドル/マールクシュ・ゲーザ/マジャール・エーデ/メンデ・バレール/ヤーンボル・ラヨシュ/ボルゾ・ヨーゼフ/アールカイ・アラダール/コーシュ・カーロイ/ピルヒ・アンドール/ジョルナイ工房/ブダペスト
13 チェコ:オズワルド・ポリーフカ/ヤン・コチェラ/ヨゼフ・ファンタ/プラハ/プルゼニュ/カルロヴィ・ヴァリ/マリアーンスケ・ラーズニエ/チェスキー・クルムロフ/チェスケー・ブディエヨヴィツェ/湖畔に建つアールヌーヴォー
14 スロヴァキア:ブラチスラヴァ
15 ルーマニア:ヴアーゴ・ラースロー・ヨージェフ兄弟/リマノーツィ・カールマーン
ティミショアラ クルージ・ナポカ アラド トゥルグ・ムレシュ 294
16 ブルガリア:プロヴディフ/コプリフシティツァ
17 スロベニア:ヨージェ・プレチニック/マックス・ファビアーニ/シリル・メトッド・コック
18 セルビア:ライヒレ・フェレンツ/ベオグラード/スボティツァ
19 クロアチア:スプリット/ザグレブ
20 ボスニア・ヘルツェゴビナ:サラエボ
21 マケドニア:スコピエ
22 ロシア:フョードル・シェーフテリ/モスクワ/サンクトペテルブルグ
23 ウクライナ:ギエフ/オデッサ/リヴネ (ロブノ)
24 ポーランド:ワルシャワ
25 フィンランド:エリエル・サーリネン/ラルシュ・ソンク/ヘルシンキ
26 スウェーデン:ラグナル・エストベリ/ストックホルム
27 デンマーク:コペンハーゲン
28 ノルウェー:アールヌーヴォーの街 オーレスンの無名の建築家達/オスロ/ベルゲン
29 ラトヴィア:ミハイル・エイゼンシュタイン/リガ
30 エストニア/タリン
31 アイルランド:タブリン
32 アゼルバイジャン:バクー
33 ジョージア:クタイシ/トビリシ
34 トルコ:ライモンド・ダロンコ/イスタンブール/イズミール
35 アメリカ:ルイス・ヘンリー・サリヴァン/マッキム、ミード、ホワイト/フランク・ロイド・ライト
36 アルゼンチン:
アルゼンチンのアールヌーヴォー建築概観/フリアン・ハイメ・ガルシア・ヌーニェス/ビルヒニオ・コロンボ/エンリケ・フォルカース/エンリケ・ロドリゲス・オルテガ/ルイ・デュボワ、パブロ・パテル、エミリオ・ユジュ
37 メキシコ:メキシコシティ
38 モロッコ:マラケシュ
39 ペルー:リマ/クスコ
40 チュニジア:チュニス
41 インド:ダージリン
42 マレーシア:クアラルンプール/ジョージタウン
43 ベトナム:ホーチミン/フエ/ハノイ
44 ブータン:ティンプー/パロ
45 ネパール:カトマンズ/バクタブル
46 中国:ハルビン/長春/瀋陽/大連/青島
47 日本:辰野金吾、武田五一、岩元禄/田上義也/今井兼次/板谷波山
コラム 世界初のアールヌーヴォー建築はなにか
コラム アールヌーヴォーを捜しにゆく:スリランカ/ブルネイ/ニュージーランド/ベラルーシ/モルドバ/ウズベキスタン/カンボジア/シリア/タイ/インドネシア
あとがき
参考文献

小谷匡宏/著
三省堂
https://www.books-sanseido.co.jp/soeisha_books/303632

 

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関口知宏が行く ドイツ鉄道の旅

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十数年前の映像なので、まだまだ若い関口クン。
フランクフルトからケルンへ、ブレーメン、ハノーファー、ハルツ、ドレスデン、ニュルンベルク、ミュンヘン、最後はツークシュピッツェ。

ケルンに向かう鉄道はライン川沿いを走るが、ライン川では船に乗ったっけ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/benelux2014-41s.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/benelux2014-42r.html

ハルツ狭軌鉄道、案内がつくのはいいなあ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/7_1-morgen-von.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/7_2-harzer-schm.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/7_3-harzer-schm.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/7_4-harzer-schm.html

ドイツ、5回ほど行っているが、まだまだ行っていないところはたくさんあるし、乗りたい鉄道もいっぱいあるので、まだまだ行きたい。

http://www.nhk-ep.com/products/detail/h09633AA

 

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2019年7月21日 (日)

[共同研究]1848年革命

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1979年の刊行、40年前の知見であるという前提で、読む。
良知力さんが書いたのは49歳の頃、良知力さんらしさはまだ生まれていないようで、ずいぶん固い文章だし、分析も機械的な印象を受ける。
一八四八年革命というと、イタリア、フランス、オーストリア、ドイツといったところは様々な文献などで知る機会は多いが、本書でハンガリーやチェコの革命についても論考されているのが良かった。
ハンガリーについては、その後の第一次世界大戦後と第二次世界大戦後の動き、1956年、そして1989年と、歴史の前面に出てくる動きがあったが、そうした歴史の経験は、現代のハンガリーを規定しているのか規定していないのか。
チェコについては、GWにプラハの街を歩いたので、1848年当時とは街並みは異なっているだろうが、その街のバリケードが築かれたツェレトナー通りや広場などの景色を思い浮かべながら、本書を読み進めることができた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-17e252.html

民主主義と社会主義、独裁政治と立憲政治、そこに民族の問題が加わると、一挙に複雑な情勢となる。
それは、いまの日韓関係が、政治的経済的な課題の解決以上に、民族観、そして歴史認識との関係から解決に向けていかなければならないのと同じようなことが起きていたのだろう。
本書では、「ドイツ人民主主義者はドイツ国内では国家統一をめざし、国外では諸民族の解放を提唱していたにもかかわらず、プラハ蜂起を民族主義的陰謀と規定することによってその非「コスモポリタン」的性格をあらわにした。(中略)こうして反革命の台頭は、ドイツ人がボヘミアのこの時期の運動の内実を正しく評価しなかった点に一因があった」(P.335~336)とする一方、「チェコ人民主主義の運動は地域的であり(中略)、地域主義を前面に押し立てたへ個人の運動は、ドイツ人にとってなんら民主主義的なものではなく、たんなる民族主義的運動と映ったのである」(P.336)としている。
こうした評価は、現在ではどうなっているのだろうか。

5月にウィーンに行っときに軍事史博物館に行ったら、ウィーン1848革命の展示があった。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-e1a12b.html
市民側のビラだか政府側の布告だか、これを読めればいいなあと思ったものだ。

良知力さんの著作は、オーストリア関連でずいぶん読んできた。
向う岸からの世界史 一つの四八年革命史論(1978年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-d888.html
1848年の社会史 ウィーンをめぐって(1986年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/1848-668b.html
女が銃をとるまで 若きマルクスとその時代(1986年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-079d.html
青きドナウの乱痴気 ウィーン1848年(1985年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/1848-d245.html

あと、こうした著書がある。
ドイツ社会思想史研究
初期マルクス試論 現代マルクス主義の検討とあわせて
マルクスと批判者群像
魂の現象学 一社会思想家として
ヘーゲル左派論叢 第1,3,4巻
ヘーゲル左派と初期マルクス

増谷英樹さんの著書や訳書も読んでいる。
歴史のなかのウィーン―都市とユダヤと女たち(著書・1993年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-2237.html
図説 ウィーンの歴史
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-8f65.html
ビラの中の革命―ウィーン・1848年(著書・1987年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/1848-23d9.html
橋 ユダヤ混血少年の東部戦線(訳書・1990年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-1740.html
ドイツ戦争責任論争(訳書・1999年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-f14f.html
1848年 ウィーンのマルクス(訳書・1998年)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/1848-a355.html

序論
 一八四八年革命の概観と研究の課題 増谷英樹
第一章 革命思想の構造
 マルクス=エンゲルスにおける四八年革命論の基礎構造 良知力
第二章 労働者の状態と運動
 革命前夜のベルリン労働者 川越修
 「フランクフルト労働協会」と九月蜂起 増谷英樹
第三章 民主主義者・共産主義者
 四八年革命における共産主義者同盟 松岡晋
 一八四九年バーデン革命の起点 上野卓郎
第四章 農村蜂起の性格
 オーデンヴァルト農村の運動 藤田幸一郎
第五章 民族運動の展開
 ハンガリーにおける四八年革命 南塚信吾
 プラハ六月蜂起とスラヴ民族主義 稲野強
文献・史料案内
あとがき
付録 一八四八年革命史年表

良知力/編
大月書店
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b51802.html

 

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