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2020年11月27日 (金)

マサリクとの対話 哲人大統領の生涯と思想

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2019年にプラハを歩いたこともあって読もうと思っていたのだが、二段組300ページということで、ちょっと手にするのを控えていた。
いつまでも積ん読していてもしょうがないので、読むことにする。
長年にわたる「対話」の集大成であるが、第一部・第二部では、チャペックがマサリクにどう語っていたかは明らかではない。

P.86の「我々は父たちの理想に戻るべきだという主張を読むと、私は過去の時代がどうであったかを思い出し、今日の我々がどれだけその理想につかづいたかを考えます」「私は未来を信じ、発展と進歩を信じる」、こんなことも言えなくなってきているのがこの国、そしてP.99の「憲法と議会の実践との間には、恐らく福音書と教会の間ほどの相違がある」、これもこの日本のことを言っているようだ。
「民族新聞」が出てくるが、P.116にルビがあり「ナーロドニー・リスティ」となっているので、これはチャペックの「リドヴェー・ノヴィニ(民衆新聞)」とは違う新聞である。
P.140に「皇后エリーザベトとバイエルン王ルートヴィヒとの間の私生の娘だと詐称した、あのザナーディ=ランディ伯爵夫人事件」とあるが、この「ザナーディ=ランディ伯爵夫人事件」は初めて目にした。
どんな背景を持つ事件だったのだろうか。
P.140のマサリクが避難した「メトロポル・ホテル」、「モスクワの伯爵」のホテルだ。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-453166.html
P.178、「戦争に奉仕する科学」について、チャペックはマサリクに問うている。
マサリクは「戦争を行うのは科学ではなくて、人間、人間の不完全さ、科学をまだ十分に尊重していない人々」とし、「もしも世界がもっと認識と真実によって導かれるようになるなら、戦争はもっと少なくなるでしょうし、全くなくてもすむようになるでしょう」と展望する。
「防衛のために科学を用いるのは政党なこと」としつつ、「暴力のため、攻撃的な戦いのために科学を育成することは、犯罪」とする。
日本学術会議が成立にあたってこれまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに、科学文
化国家、世界平和の礎たらしめようとする固い決意」をもって生まれたにもかかわらず、先日、井上科技相が軍事利用を学術会議に促したことを思い出す。
日本学術会議の「軍事的安全保障研究に関する検討について」。
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/gunjianzen/index.html
P.200の「私は自分一人ではなく、私であり君でありであり我々であり、無数の主観と無数の客観」は、乾孝氏の「私の中の私たち」と通底し、P.208の決定論について「自然と人間と社会とそれらの発展における、確固たる秩序」は、エンゲルスの「自由とは必然性の洞察である」と通底するのだろう。
P.256~P.257、「政治的教養なしに、理論的準備なしには、きちんとした、いわば偉大な政治は不可能」、P.257「現代の政治家は、批判的でなければならず、教養と賢さを備えていなければなりません」、「政治においても、人間全体の価値が問題なのです」、この国の政治家たちから最もかけはなれているものが、これだろう。
P.270、マサリク大統領は、マルクス主義とは一線を画しながらも「マルクスとエンゲルスは、最後には(イギリスの影響のもとに)一八四八年の革命の急進主義に対して、民主主義的・議会主義的な戦術の方をより正しいものと認めました」と、評価している。

100年前にマサリクが「私は嘘をつきたくなかった」のは、ロシア革命の銃弾がとびかうさなか、命が助かるかどうかの瀬戸際だった。
嘘をつけばすんなり助かったのに。
チャペックの「対話」は、ここから始まった。
この国で、マサリクのような立場の人が国政のトップを務めるという事例はないだろうが、あえていえばマサリクは、美濃部亮吉氏や長洲一二氏のような人だったのかしら。
ムハが叙事詩を描いていたのは、1910年から1928年、マサリクの時代とも「対話」の時代とも重なるのだが、本書ではムハへの言及はない。

少数民族というところでは、先日、「シルクロード」の再放送をしていたが、画面に映っていたあの当時の人たち、とくに子どもたちは今どうしているだろうと思いながら、本書を読まざるを得なかった。

第一部 若き日
 一、少年時代
 二、学校
 三、青年時代
第二部 生活と仕事
 一、新たな課題
 二、仕事と闘い
 三、大戦
 四、共和国
第三部 思想と生活
 一、認識論
 二、形而上学
 三、宗教
 四、キリスト教
 五、いわゆる文化闘争
 六、再び宗教について
 七、政治
 八.民族
マサリクとの沈黙―『対話』はどのようにしてできたか?
訳注
訳者あとがき
索引

K・チャペック/著
石川達夫/訳
成文社
http://www.seibunsha.net/books/ISBN4-915730-03-4.htm

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