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2020年2月18日 (火)

検閲帝国ハプスブルク

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ハプスブルク家の歴史の中の検閲の最盛期は、1815年から1848年のウィーン体制期であるとして、本書は出発する。
しかし、このウィーン体制期の記述は終章に至って初めて触れられ、それまでの記述は、そこに至るまでの『ハプスブルク王朝の検閲政策を「ここの著名な事実の羅列」としてではなく、歴史的、社会的コンテキストの中で読み解くことで、ドイツ、オーストリアの文化史の一面を探る』ことに費やされる。

P.56からP.57に「マクシミリアンは互いに遠く離れた領地への命令書等々の迅速な通達、あるいはそれぞれの領地からのさまざまな情報の取得のために、ヴェネチアで飛脚問屋を営んでいたタッシス家(ドイツ語名タクシス家)に駅伝網の敷設を命じた」と書かれている。
「タッシス家」(Taxis)については、「トゥルン・ウント・タクシス その郵便と企業の歴史」に詳しい。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-2491.html
財を成したタクシス家は1812年からレーゲンスブルクに住むようになったのだが、2011年にレーゲンスブルクに行ったときに、トゥルン・ウント・タクシス城の見学をした。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-3ea7.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-7c86.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-89aa.html

P.101に帝国議会が1654年にレーゲンスブルクで開かれたこと、帝国議会は1663年からレーゲンスブルクに常設されたとの記述があるが、この帝国議会はレーゲンスブルクの旧市庁舎(Altes Rathaus)に置かれていて、これも見学したことがある。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-60b2.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-9dab.html

P.99あたりから三十年戦争のことが語られるが、三十年戦争は「カトリック vs プロテスタント」「神聖ローマ皇帝 vs 領邦君主」「ハプスブルク家 vs ブルボン家」と言った対立が絡んでいるので、一度はきちんと押さえておきたい。

P.148に『「美しき青きドナウ」のほとりに暮らすウィーンの人々は、プロイセンで蔓延する啓蒙主義というこれらに目をつむり、耳をふさぎ、口をつぐんでいたのだ。人々はこの偉大な女帝の時代に、国境の向こうで、やがて標準語となる「ルターのドイツ語」を喋る人々を馬鹿にして、自分たちの土着方言ヴィーナリッシュに固執していたのである』とある。
これだけ取り出したのではわかりにくいが、この前に「ホウベンのちょっと気取った表現を借りるとすれば、」とあって、著者の言ではなく、ホウベンの引用かもしれない。
ホウベンとは「ドイツの検閲史の泰斗ハインリヒ・フンボルト・ホウベン」(P.22)のことで、巻末の参考文献の中に「Polizei und Zensur」の著者として「H. H. Houben」で名がある。
何れにせよ本書では、マリア・テレジアはフリードリヒ大王の啓蒙主義を嫌い、啓蒙主義的文書が流れ込んでくるのを検閲によって摘発していたという文脈で書かれているので、マリア・テレジアも啓蒙専制君主のひとりとしてのイメージもあるので、こうした捉え方あるのかと思ってしまった。
そして、ウィーン訛りやバイエルン・ドイツ語(Bairisch)は「高地ドイツ語・Hochdeutsch」グループのひとつで、「標準ドイツ語」たる「低地ドイツ語・Niederdeutschh」と分けられているのだが、ウィーン訛りと検閲とを結びつけた記述にも、少々びっくりした。

P.152の検閲委員会の「世俗メンバーの任命は宮廷が行い、世俗メンバーはウィーン大司教が女帝に提案する」とあるが、P.157の記述に従えば「世俗メンバーの任命は宮廷が行い、聖職者メンバーはウィーン大司教が女帝に提案する」だろう。

P.189に「ウィーン郊外劇場」の創設を皇帝ヨーゼフ二世が許可したことが紹介されている。
「ウィーン郊外劇場」とは、リンクのすぐ外側にある現在のフォルクステアターで、当時は市壁の外の「郊外」にあったということだ。
P.188から、ある検閲官が「民衆の啓発を己が崇高な使命と定め、無知な人々を乱倫に引きずり込む、ありとあらゆる民衆喜劇を敵視し」、その結果「民衆喜劇、方言芝居、道化芝居、滑稽芝居といったウィーン生え抜きの芝居はすべてそやで、無形式で、非芸術的、要するにまったくの低俗であると判断され、ウィーンから駆逐された」、芝居好きのウィーン子のフラストレーションはたまりにたまり、なにやら不穏な様相を呈するようになった」という前段があり、フォルクステアターはある意味、ガス抜きの役割を持ったことになる。

こうしてウィーン体制期の検閲は、いわば検閲のための検閲といった様相を呈していったようである。
そしてウィーンも三月革命を迎え、事実上最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフは、以後、「何かをやれば必ずマイナスとなって跳ね返っってくる」経験を重ね、「であるならば、何もしないことがベストである」政策に邁進し、ヴィルヘルム二世の検閲の猛威とは裏腹に、「人々はフランツ・ヨーゼフという絶対の空虚のなかに寝そべり、一時の転寝を楽しむかのようであった」、「検閲を駆使してまで護るべきものは何もないといわんばかり」と、かなり揶揄的な評価が著者によって下されてしまうのである。
そういえば、ロミー・シュナイダーの「Sissi」には、検閲ではないがあれこれ探る人物が登場していて、本書が捉えるようなウィーン体制を思い出させる。

新書であるにしても、全体的に講談調というか漫談調で、記述は経年ではなく行ったり来たり。
「検閲」という、ある意味地味なテーマなので、講談調・漫談調は、読んでいて飽きることはないが、記述内容が果たして定説なのかどうかがわからないところもある。
そして、神聖ローマ皇帝それぞれとその時代の知識が、一定程度必要だろう。
神聖ローマ帝国の簡単な書籍を手元に置くと、いいかもしれない。

序章 検閲から何が見えるか
第一章 活版印刷は世界を制す
第二章 神聖ローマ帝国の検閲事始め
第三章 神聖ローマ帝国における検閲制度の法整備
第四章 印刷特権
第五章 選挙協約と検閲
第六章 領邦国家の検閲制度
第七章 マリア・テレジア治下の検閲制度の改革
第八章 前三月期の検閲事情
終章 窒息しそうな検閲の果てに
あとがきハ
プスブルク検閲史年表
参考文献

菊池良生/著
河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309624556/

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