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2019年8月14日 (水)

わが青春の国際学連 プラハ1959~1968

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「プラハの春」から51年、そしてこの春プラハを歩いたということで、読んでみる。
本当は、プラハに行く前に読んでおこうと考えていたのだが、結局、今の時期になってしまった。
米原万理さんがプラハで暮らしたのが1959年11月から1964年11月まで、著者のプラハ在住時期(1959年3月から1968年9月)とは重なっている。
しかし、年齢も離れているし、何より決定的に立場の違いが鮮明であるから、邂逅する機会はなかっただろう。

著者の立場はブントで(それは本書刊行当時も変わらないようだ)、日本共産党に対する姿勢は60年第70年代そのままであるが、本書を読むにあたっては全学連内部での争いは、背景として押さえておくべきだろう。
もっとも、ブントの分裂前に著者は日本を出ている。
一方で、ソ連型社会主義の批判者でありながら、ソ連型社会主義国のただなかでのソ連型社会主義を支える任務を持つ組織の一員としての活動記録、という内容も可能だったかもしれない。
しかし著者は、チェコ事件ののち、プラハを去らなければならなかった。
反スターリン主義の著者が長年プラハで活動できたのは、国際学連じたいがソ連型社会主義組織とは言い切れない側面を持っていた(著者も書いているが、国際学連は丸々ソ連の下請け機関というわけではなかったようで、68年後活動できなくなった)としても、プラハで、そして国際学連で、著者が何をしていたのか、どんな議論があったのか、また、国際学連がどのようなことをしていたのか、本書では何もわからない。
私はプラハに居ました、WPO軍を見ました、他の国にも行きました、プラハに居られなくなったのでドイツに行きました、以上報告終わり、であった。
それに、加藤周一氏は1969年にベルリン自由大学に赴任しているが、氏を招くにあたって著者が尽力したというエピソードが書かれているが、これはどういうことなのだろう?

そうしたことが目的で本書を読んだのではないからその点はいいとしても、50年前のプラハの様子や暮らしの様子は、著者が住んでいたあたりの平和広場の写真はあるが、よくわからなかった。
東大を去るにあたって学長に激励されたこと、十数年後に東大に復学できたことも、なぜ?と疑問符はついたままだ。

まえがき
第I部 医学連の活動、そしてプラハへ
 一 そのころ、自分のおかれた座標
 二 プラハへ出発(一九五九年二月)
 三 自己寸史「学生運動へのかかわり」――原水爆禁止のたたかい
 四 1960年代――世界と日本
 五 「冷戦」時代にみる「東側体制」をどう把握するか
第II部 国際学連書記局(プラハ)を舞台に
 一 国際学連(IUS)について
 二 1968年8月20日 チェコスロヴァキアの軍事制圧の現場
 三 国際学連内で日本全学連の占める確固たる位置
 四 世界各国歴訪
 五 プラハからベルリンへ
 六 国際活動で学んだこと
 七 その後の「身のふり方」――14年遅れ四〇歳で医者に
 八 21世紀の世界
書きおえて

石井保男/著
社会評論社
http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/shakaisyugi/ISBN978-4-7845-1479-3.php

 

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