« ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ | トップページ | 新しい時代のはじまり »

2019年6月 6日 (木)

太陽がいっぱい

181017_011  181017_012 
ルネ・クレマン監督のアラン・ドロンの映画は見ているが、原作がパトリシア・ハイスミスとは知らなかった。
映画を見たのは公開時ではなく、たぶん高校生のときにどこかの名画座で、だったと思う。
本書の原題は「The Talented Mr. Ripley」、これを映画化したのが「Plein soleil」、映画の邦題が「太陽がいっぱい」、そして原作の本書の題名も「太陽がいっぱい」と一周してきたのだが、ルネ・クレマン監督の映画は本作をかなり変えている。
映画のとおりの結末ならば、原作のようなシリーズものにはできない。
ルネ・クレマン監督は、なぜ、結末を変えたのだろうか。

本書では、話が全体の3分の1ほど進んだところで「殺意」が生まれるのだが、プロセスや理由は、人を殺めるほどのことなのかと思ってしまう。
ほとんどカミュの「太陽が眩しかったから」の世界だ。
その理由の奥にあるものは、6割ほど進んだところでの、「みんなから見下され、道化師のふりをしなければ、相手にされないのだ。誰にでもちょっとずつ愛嬌をふりまく以外、自分はなにもできない役に立たない人間だという気持ち、そんな気持ちはもう味わいたくなかった。」ということだろう。
昨今の事件を暗示しているように思えてしまう。

パトリシア・ハイスミス/著
佐宗鈴夫/訳
河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309464275/

 

|

« ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ | トップページ | 新しい時代のはじまり »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ | トップページ | 新しい時代のはじまり »