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2019年5月23日 (木)

ベルツの日記(下)

181004_002
この巻は、1904年の日露戦争から1905年のベルツの帰国までの日記である。
日本で暮らした外国人から見た日露戦争であるが、中立な立場ということではなく、日本の勝利を信じる立場での日記となる。
なので、日本が自制を重ねた上での開戦という評価であり規律正しい軍という評価となっているが、おの戦争が朝鮮や満州という本rないロシアの領土でも日本の領土でもない地域の権益をめぐる争いであることへの問いはない。

1904/4/12:広瀬中佐の葬儀(P.48~P.49):広瀬中佐のロシア留学については触れていない。
1904/4/22:奈良の博物館について「遺憾なのは、建物が白壁塗りの、半ばギリシャ式寺院、半ばルネッサンス式劇場といった具合で全然内容と調和しないことだ」(P.64):1895年帝国奈良博物館として開館しており現在の本館であるが、「白壁塗り」は当時そうだったのだろうか。
1904/9/5:日本と朝鮮との協約(P.166):第一次日韓協約の全文は次の通り。
一 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ
一 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部[注釈 2]ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ
一 韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権、譲与若ハ契約等ノ処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ
明治三十七年八月二十二日 特命全権公使 林権助 光武八年八月二十二日 外部大臣署理 尹致昊
この時点で朝鮮半島における日露間の戦闘は終結していて、朝鮮は日本の占領するところとなった。
1905/2/8:間門ホテル(P.317):1903年に建てられた間門ホテルは他のところにも出てくるのだが、今の本牧通りを根岸線が越すガードの東の、間門交差点を過ぎたあたり、当然埋立地はないので、海岸に近いホテルだった。
1905/2/26:帝国ホテルについて「兄部の場所は1は、あまり実用的ではない。この家屋はちょうど15年前、こんな方面の経験に乏しい、ある日本の建築技師が縦なおである」(P.325)とある。:ライト館はまだ存在しておらず、本館のことで、渡辺譲の設計。
1905/3/17:神道についてベルツの見解として次のように言っている。「海外より日本へ移住の際に伴われて来た」「完成された形のうえでは神道は日本独特のもの」「諸様式の原始的な点と、程度の高い道徳規範や固有の純正哲学をもたない点から観て、宗教ではなく、単なる儀式にすぎない」「これを人為的に復興させようとするのは、純政治上の理由から出ている」「この復興運動は、一定の特殊な様式を守り立てること、日本人全体を結びつけるものであって、しかも世界中でかれらだけに固有な事物をもつことが、日本にとって肝要である」(P.346~P.347)

ベルツの生涯は、次のとおりである。
この間の、他の木になる人や世情の動きを合わせてみる。
森林太郎や青山みつとの接点は、あったのだろうか。
1849年1月13日 ベルツ誕生
1867年 大政奉還
1868年 明治改元
1871年 岩倉使節団派遣
1874年 佐賀の乱
1876年 ベルツ来日
1877年 西南戦争
1882年 森林太郎がドイツ留学
1888年 森林太郎帰国
1889年 大日本帝國憲法発布
1891年 大津事件
1893年 青山みつがクーデンホーフ伯爵と結婚
1894年 日英通商航海条約
1894年 日清戦争
1895年 下関条約、三国干渉
1896年 青山みつが夫とともにオーストリア=ハンガリー帝国へ
1900年 北清事変
1902年 日英同盟
1904年 日露戦争
1905年 ベルツ帰国
1908年 ベルツ再来日
1911年 日米通商航海条約
1913年8月31日 死去

トク・ベルツ/編
菅沼竜太郎/訳
岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b246451.html

 

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