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2019年5月28日 (火)

日本人は何を捨ててきたのか

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これまで読んできた鶴見さんのイメージとは、異なる。
第1章「日本人は何を捨ててきたのか」は、1997年に放送されたものがベースで、第2章「日本の退廃を止めるもの」は、2002年の講演。
なので必ずしも最後になって突飛な思いを吐露した、ということではないのだが、「悪人」が前面に出ているからだろうか。
それは「普通の人たち」を絶えず意識し「一番病」を避けていたからに他ならないのだとは思うのだが、対談相手を煙に巻こうという思惑があったのかもしれない。
それであっても、読みたい本を増殖させるのである。
たとえば「中野重治とモダン・マルクス主義」とか「転向」とか「イシ」とか。

その中でも幾つかのポイント。
明治国家という「樽」(樽を作ったのは江戸人!)が沈まなかったのは、インド、中国、メキシコ、ペルーが防波堤となって、助けられた。(p.28~29)
ジョージ・オーウェルのいった「ペイトリオティズム」というのは、ナショナリズムに対抗することになるんです。(P.57)
「日本の沖縄以外の本土は、誰もあの戦争に負けたことの責任をとりたくないのです。沖縄は地上戦になったただひとつの場所でしょう。そこに全部しわ寄せしていて平気だという、その排除という考え方。それが働いているのが日本国家なんです。」(P.100~101)
「靖国神社が殺した相手への鎮魂の場としても開かれていれば意味があると思います。」(P.103)

「ペイトリオティズム」はし人の長田弘さんも、「読むことは旅をすること―私の20世紀読書紀行」のなかでジョージ・オーゥエルの言葉を引用している。
「私がパトリオティズムとよぶのは、特定の場所と特定の生活様式に対する献身的な愛情であって、その場所や生活様式こそは世界一だと信じているが、それを他人にまで押し付けようとは考えないもののことである。パトリオティズムとは、本来、防御的なものなのだ。ところがナショナリズムのほうは、権力志向とむすびついている。ナショナリズムたるものはつねに、より強力的な権力、より強大な威信を獲得することをめざす。それもじぶんのためではなく、個人としてのじぶんを捨て、そのなかに埋没させる対象として選んだ国家とか、これに類する組織のためなのである。……ナショナリズムとは、自己欺瞞を含む権力願望なのだ」(「読むことは旅をすること」P.150)
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/20-eec1.html

鶴見さんご本人の言葉ではないのだが、アメリカに行って「数カ月後のある日、突然乾いた砂のように後頭部から日本語がこぼれ落ち、言語が英語に入れ替わった」(P.311)というその言語感覚、これは十代の少年なればこその経験なのだろうか。

第一章 日本人は何を捨ててきたのか
 近代日本が見失ったもの
 戦後体験と転向研究
第二章 日本の退廃を止めるもの
 変わらない日本人の心
 日本人の未来像
鶴見俊輔先生の「敗北力」 関川夏央
この本への感想 鶴見俊輔
文庫版のための「あとがき」 関川夏央
解説 さようなら、鶴見さん 高橋秀実

鶴見俊輔/著
関川夏央/著
筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096999/

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