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2019年4月29日 (月)

Praha und Wien 16 お昼、単独行動(1) チャペック兄弟の住居、万里さんの足跡

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市民会館地階のレストラン「Plzeňská restaurace」でお昼にする。
オーダーしたのは、黒ビール、シュニッツェル、野菜スープ。
とっさに英語がでてこないので独語混じりだったので、ビールが一つしか来ない。慌てて追加。
昨日フタバさんがさかんに「とんかつ、とんかつ」と言っていたので、うんにゃ、シュニッツェルだろうと思っていたのだが、やってきたのを見て合点がいった。
厚いのである。
そして、パン粉も大きい。
付け合わせはキャベツではなく、少しゴロゴロ感が残ったマッシュであった。
とんかつソースが欲しくなる。
それにしても、プラハめしは美味しいのだけれど、しょっぱい。
口直しにパンを取っても、パンにも岩塩がトッピングされてて、これまたしょっぱい。
寒い地方で塩分摂取が多めは、インターナショナルなのかしら。

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それにしても周囲から聞こえてくる日本語多し、案内された席は日本人用エリアか。
日本人客は、ツァーのフリータイムだったり個人旅行だったりしているようだ。
そして、白人団体ご一行さまもどやどや入ってくる。
奥の席で、ジョッキを掲げて歌ってる。

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いったんホテルに戻ることにした。
地下鉄のエスカエーターには、このようなポスターが貼ってあった。

単独行動に出る。
まずは地下鉄でMůstek駅から10区のFlora駅へ向かう。

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Flora駅で降りて、地図を頼りにBratří Čapků(チャペック通り)の入り口まで行くことができた。
ゆるい坂をあがったところに、チャペック兄弟の住居「Vila Karla Čapka」がある。
左が兄ヨゼフ・チャペックの家、右が弟カレル・チャペックの家で、兄ヨゼフの家は現在も子孫が居住しているが、弟の家は無人で、そのうちムゼウムになるらしいが委細不明である。

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VIRTUÁLNÍ PROHLÍDKA VILY KARLA ČAPKA(カレル・チャペック邸のバーチャルツァー)
http://www.praha10.cz/akce-a-projekty/ostatni-projekty/virtualni-prohlidka-capkovy-vily/fbclid/iwar14xfjolnr-ggueykw_q8u6e8u5s0-1dufez-vkxwiscum3cyuej8pi_1k

再び地下鉄でFlora駅から6区のDejvická駅に移動する。

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Dejvická駅で降りて、大きなロータリーを渡って、この辺りに米原万里さんは住んでいたのだろうかと、少し歩いてみる。

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遠くに、スターリン様式のインターナショナルホテルが見える。
ロータリーに戻ってきた。
この辺りから北東方向に1kmちょっとのところにロシア大使館があり、その手前に大使館付属学校があるのだが、万里さんが通っていた学校はそこではない。
プラハ南部にあって現在は看護学校となっている。
井上ユリさんの「姉・米原万里」(文藝春秋)に、「わたしたち家族が住んだのはプラハ城の北側、プラハ六区のアパートメントで」(P.36)、「歩いて十五分のソ連大使館」(P.37)、また、同じアパートに住むこどもたちだけで動物園に出掛けたエピソードで、「ソ連大使館の先の公園を横切ると、市内を蛇行するヴルタワ川にぶつかる。その川を渡ったところに市の動物園があった。」(P.38)という記述、また動物園から帰るときの道がわからなくなりますが、「橋の上からは、インターナショナルホテルの高い塔が見え」(P.40)、帰ってくることができたようで、そのホテルから家までは「路面電車で二駅、歩いたって二十分しかかからない」(P.40)と書かれている。

姉・米原万里 思い出は食欲と共に
井上ユリ/著
文藝春秋
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163904542

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ソヴィエト学校はどこだったのだろうと探してみて、ソ連大使館は政変後ロシアが引き継いでロシア大使館として使われているとすれば、ソビエト学校もロシア学校となっているにちがいないと思って、最初は6区の現在のロシア大使館付属学校かと思っていたが、よくよく調べると、現在は高等看護学校になっていることが、昔放映されたテレビ番組を見返してわかった。
住んでいた6区からは、住民と接触しないようにすることも含めて、スクールバスが出ていたのだろう。

「世界わが心の旅 プラハ 4つの国の同級生 米原万里 (3)」10分15秒あたり。
https://www.youtube.com/watch?v=IvOyERiorQQ&list=PL60iZXjNuVKFhilUy0EtSatRsaM1CKRrH&index=4&t=0s

 

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