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2019年4月29日 (月)

Praha und Wien 17 単独行動(2) 聖キリルと聖メトドゥース教会、ビロード革命跡

Dejvická駅から地下鉄でMůstek駅に戻り(これまで乗った地下鉄は全てA線)、B線に乗り換えて二つ目Karlovo náměstí駅で降りる。

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少し歩いていくと、聖キリルと聖メトドゥース教会(Kostel svatých Cyrila a Metoděje)である。
この教会は、独占領下ベーメン・メーレン保護領副総督ハイドリヒ暗殺作戦に従事した亡命チェコ人グループが暗殺実行後匿われた教会である。
ゲシュタポに包囲され亡命チェコ人たちが自決した地下室は、「ハイドリヒの英雄記念国立記念館(Národní památník hrdinů heydrichiády)」になっているが、今日は閉まってた。

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銃弾の穴が残る壁面に花が置かれた碑があり、地面には「1942」と描かれている。
ハイドリヒ暗殺に対する報復によって、リディツェ村とレジャーキ村の住民が虐殺されるなど1万3千人が殺害された。
このことは、早乙女勝元氏の「プラハの子ども像」にも詳しい。

Národní památník hrdinů heydrichiády(ハイドリヒの英雄記念国立記念館)
http://www.vhu.cz/muzea/ostatni-expozice/krypta/

Karlovo náměstí駅から地下鉄でMůstek駅に戻り、ビロード革命跡を歩くことにする。
説明文は、ロンリー・プラネットにあったものを参考にした。

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まず、ナーロドニー通り(Národní)に行き、学生記念碑のあるチェコ弁護士会のKaňkův宮殿へ向かう。
学生記念碑は、1989年11月17日、何万人もの学生やチェコ人が第二次世界大戦で殺害されたことを思い出すために行進し、機動隊に攻撃されたときのの悲劇的な出来事を象徴している。
アドリア宮殿(Palác Adria)は、一時期、ヴァーツラフ・ハヴェルによって結成された市民フォーラムの本部が置かれた。
ヴァーツラフ広場に出る。

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民主化の行動はすぐ近くのヴァーツラフ広場とメラントリヒ・ビルに広がり、ハヴェルは「プラハの春」で解任されたアレクサンダー・ドプチェクを、そのバルコニーから大よろこびで迎えて演説した。
作業車が通っていく。
68年、89年に何万人もの人々で埋め尽くされたヴァーツラフ広場を国立博物館まで歩き、途中で、市民フォーラムが1989年11月19日に結成されたところ、Činoherní klubの場所あたりに行ってみたのだが、よくわからなかった。

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聖ヴァーツラフ像は、旗やポスター、政治的スローガンを掲げた抗議者によって占拠された。
ちなみに、ハヴェルの名もヴァーツラフ(Václav Havel)である。

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国立博物館の真正面にあるヤン・パラフ記念碑は、1968年にソ連が率いるワルシャワ条約軍の侵略に抗議するために焼身自殺し、国民的英雄になった学生のための象眼細工の十字架である。
十字架の画像は、翌日撮ったもの。

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広場の一番上には、共産党政権の崩壊を手助けしたラジオ自由ヨーロッパのためのかつての建物があり、現在は国立博物館の支部がある。(画像は翌日撮ったもの)
そしてもう一度、ヤン・パラフとヤン・ザイーツの碑に行く。

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ロンリー・プラネットの「ビロード革命巡礼」のページ、このうち「3.共産主義博物館」は、27日にお昼を済ませたあとにその前は歩いたが、入ってはいない。

68年のプラハについては、当時、合宿か何かで海の家にいたときにトランジスタ・ラジオから流れてきたニュースで知って、衝撃的な気持ちになったことを覚えている。
8年前に、ジョセフ・クーデルカの写真展があったので行ってきたし、カタログも買った。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-3d84.html
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/1968-92cd.html
マグナムの写真集も出ていた。
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/19451990-2c81.html
89年のプラハについても、他の国々の動きとともに注視していて、ハヴェルとドプチェクがバルコニーに立つ姿も覚えている。

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ホテルに戻り、プラハ最後の晩餐である。
外に出て探すのも寒いし面倒だし、で、ホテルめし、まずはワイン。
客の通りも少ないので、従業員は手持ち無沙汰のようだ。

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ギリシャサラダと豚パスタと白ワイン、〆て1200コルナ弱。
メニューに、「SUSHI SETO」あり。
欧州在住人に「んで試されましたか?」と聞かれたが、Billaにもあったが、今回は食指は動かずトライの気持ちもなく。
別のテーブルでオーダーしたようで、ウエイター、醤油のボトルを持ってきた。
ここのウエイターなかなか気さく。
支払いでプラスアルファで部屋付にしてと言ったらそれはできないって言って、レシートをフロントに持って行った。
財布を部屋に置いたままきてしまったのだが、戻ってカードを持ってきて直接支払えばよかったかな、悪いことしたかな。

ゆうべ、バスルームのライトのひとつがちかちかしてたので、フロントに交換してとお願いしたら、おにーちゃんが確認しにきてライトを取り外して「明日の朝ね」だったが、取り付けられておらぬ。

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