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2019年3月13日 (水)

200歳のマルクスならどう新しく共産主義を論じるか

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久方ぶりに聽濤弘さんの名前を見た。

なかなか手強い内容である。
たとえば、社会回主義と共産主義。
一般論的には、社会主義は共産主義に至る過程での低い段階で、そこを経て共産主義に至るということになると思うのだが、本書では、「経哲手稿」(1844年)で、「社会主義をはっきりした「概念規定」をもって、共産主義より高い段階にある「人間的社会の形態」としている」(P.19~20)と紹介している。
「粗野な共産主義」と「本来の人間としての社会主義」の二段階である。
「共産党宣言」(1848年)では、マルクスは「実践を重視するかどうかを「社会主義者」と「共産主義者」との区別の明確な基準にして」(P.28)「社会主義宣言」ではなく「共産党宣言」としたと、エンゲルスの「宣言」の序文を引用して解説している。
さらに「ゴータ綱領批判」(1875年)になって、「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」と「それ自身の土台の上に発展した共産主義」の「二段階があることを明らかにした」(P.114)と紹介している。
そのマルクスの施策のプロセスを学べ、ということか。

それにしても、「プルードンをどの程度までかはわからないが再評価してもいいのではないか」(P.53)との言葉は、「貧困の哲学」に対する「哲学の貧困」の噛み合わなさを前提にしているが、「貧困の哲学」の初邦訳が2014年であったのは、知らなかった。
相手の論を知らずにして、批判の論ばかり読んでも・・・・、と、思わざるをえない。
で、「貧困の哲学」を読むことになるのだろうか?

プルードンに限らず、たとえばレーニンでもロシアの百科辞典での執筆で、マルクスの「序言」(経済学批判の序言)での生産力と生産諸関係に関する「箇所を引用していない」(P.100)ことについて、本書は「レーニンは引用しない確信的理由があってのことであろう」(P.101)と指摘しつつもその理由についての考察には至らない。
このように本書では、いくつも課題を提起するのだが、その課題の考察は、「マルクスの『序言』は、(中略)資本主義から未来社会へ移る過程の説明には使えないと考えている」(P.103)聽濤弘さんの問題意識においては、「史的唯物論の適用範囲は熟考すべきことである」(P.103)と読者に投げかけているということなのだろうか。

内田センセや石川康宏氏の語るマルクスのようなわくわく感がないのは、やはりご老体の語るマルクスだからかしら。

はじめに
第一章 マルクス「未来社会論」の原点を探る─人間論から出発したマルクス
第二章 人間論から階級闘争論へ─『貧困の哲学』か『哲学の貧困』か
第三章 共産主義とは「体制」ではなく「運動」のことか─『ドイツ・イデオロギー』と未来社会
第四章 ロシア革命とマルクス、エンゲルス、レーニン─史的唯物論はどこまで適用できるのか
第五章 マルクスの未来社会論とその多義性─『内乱』と『ゴータ綱領批判』ついての様々な見解
第六章 資本主義の現状と「しのび寄る」未来社会─資本主義の「文明化作用」とその反逆
第七章 「社会主義への疑問」と展望─所有形態をめぐって─ソ連崩壊前のマルクスと崩壊後のマルクス
第八章 「社会主義への疑問」と計画経済の展望─官僚制にならないための新しい生産の組織
第九章 「自由で全面的に発達した人間」─「市民社会」としての未来社会像
おわりに
補論 マルクス、レーニンとヘーゲル弁証法

聽濤弘/著
かもがわ出版

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