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2018年9月30日 (日)

歴史の暮方・共産主義的人間

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「歴史の暮方」は概ね1939年から1942年にかけて、「共産主義的人間」は1946年から1950年にかけて、林達夫氏が「流れに抗して」(P.233『中公文庫版への「あとがき」』、1976年)書いた文章を収録した本である。
冒頭の中川久定氏の「林達夫の立っている場所」でも触れられているが、林達夫氏が抗した「流れ」とは、いったいどのような「流れ」であったのか。

1937.7.7 盧溝橋事件
1937.12 第一次人民戦線事件
1938.5 国家総動員法
1939.5 ノモンハン事件
1940.1.16 米内内閣成立
1940.3.25 聖戦貫徹議員連盟結成
1940.5.26 近衛「新党樹立に関する覚書」
1940.6.24 近衛、枢密院議長辞任、「新体制声明」
194.7.6 社会大衆党解散
1940.7.16 政友会正統派・統一派解散
1940.7.25 日本革新党・政友会久原派解散
1940.7.22 米内内閣総辞職、第2次近衛内閣成立
1940.7.30 政友会革新派解散
1940.8.15 立憲民政党解散
1940.9 仏印進駐、日独伊三国軍事同盟
1940.10.12 大政翼賛会発足
1941.4 日ソ中立条約
1941.7.18 近衛内閣総辞職、第3次近衛内閣成立
1941.10.18 近衛内閣総辞職、東條内閣成立
1941.12.8 真珠湾攻撃、対米英宣戦布告
1945.8.14 ポツダム宣言受諾
1945.8.15 終戦の詔
1945.8.30 マッカーサー着任
1945.9.2 降伏文書調印
1945.11 財閥解体指令
1946.1 天皇人間宣言
1946.2 第一次農地改革
1946.5 極東軍事裁判
1946.11.3 日本国憲法公布
1947.1 ゼネスト中止命令
1948.11 極東軍事裁判終了
1950.6 レッドパージ

「ベルツの日記」、本書で取り上げられているものは浜辺正彦氏訳とあるので、現在の岩波文庫版ではない。
森鴎外の日記に、1884年から1885年にかけてベルツが帰国したときに、ライプツィヒで鴎外はベルツと会ったことが描かれていると記されている。
この日記については、読んでみたい。
そして「日本人とドイツ人は似ている」という前提で書かれた本(「日本人とドイツ人―比べてみたらどっちもどっち―」雨宮紫苑/著)」と、対比してみたい。

林達夫氏とて時代の制約の中にあったことが明白な文章が、「ちぬらざる革命」であろう。
これは文藝春秋のは1949年9月号に掲載された文章だが、背景にはチェコスロバキアの「ちぬらざる革命」、1948年2月の政変がある。
この政変は、簡単に書いてしまうと、チェコスロバキアの1946年の選挙では共産党が第一党になり、非共産系閣僚も加わったゴットワルド政権が生まれたが、冷戦の進化とともに政権内の共産系閣僚と非共産系閣僚の対立が深まり、1948年2月非共産系閣僚を排除した共産党と親モスクワ派社会民主党による政権が生まれたことを指す。
また、新政権でも外相に留任したヤン・マサリク(ロンドンの亡命政権で外務大臣、解放後の政府でも外務大臣、1946年のゴットワルド政権でも外務大臣)の、1948年3月10日の転落死事件があった。
この政変を、「流血と撃ち合いと処刑との凄惨な光景」(P.272)ではない平和革命、「ちぬらざる革命の模範的な例」(P.273)と、林達夫氏は書いている。
ところが、1951年4月の文藝春秋の「共産主義的人間―二十世紀政治のフォークロア その二」では、チェコのこの政変を「世界を聳動させた共産党クーデター」(P.362)との評価になる。
1年半を経て評価がほとんど180度変わった感がするが、この変化の背景には、林達夫氏のなかでどのような思索があったのだろうか。
さらに「ちぬらざる革命」では、「こうした革命が可能なためには、(中略)五つの条件が必要」(P.273)として、「隣に強大な社会主義国家が控えていてその影響力の浸透に邪魔が入らぬこと」「その国の民主主義体制が一応確立していること」「重要産業、鉄道、通信、官庁、等々の中にその推進力たる政党の根強い細胞が出来上っていて、いつでも「切り替え」に応じられる仕組になっていること」「軍隊が無いか無力か味方であること」「その政党が広範な大衆をその同伴者、同調者、更には投票人として引き具していること」をあげ、「その一つでもかけることがあれば、それは必ず挫折に終わるか、血腥い暴動に転落するだろう」としている(P.273~274)。
「五つの条件」に関しては、2月の政変は次第に「平和革命」ではなかったことがその後明らかになり、40年後のビロード革命で「挫折」するであろうことを見越したかのような文章だが、1949年当時、林達夫氏であってもこのようにチェコスロバキアの情勢雨を判断した、その後評価は変わった、ということは、林達夫氏の判断力批判にとどまらず、日本にどれだけの情報が入ってきたのか、入ってこなかったのかというような、時代の検証材料でもあるだろう。

「無人境のコスモポリタン」に、「きだみのる」の名前が出てきたが、読んだなあ、「気違い部落」。
この文章の冒頭「このごろの編輯者は、概して見出し感覚ばかりが異常発達していて、時代の深層に横たわっているもやもやした捕捉し難い問題の発掘などにはあまり心が向かないそうです」(P.309)は、今に至っても変わらないようだ。

「旅順陥落」や「共産主義的人間」で描かれる、ソ連に対する林達夫氏の思いの変化も、興味深いところだ。
とくに「旅順陥落」では、日露戦争で日本を好意的に評価したレーニンと、第二次世界大戦でのソ連の対日参戦をスターリンは日露戦争の復讐としたことを対比しているのだが、このときは少なくとも共産主義全般、ソ連全体に対する批判ということではなかったのだろうし、「共産主義的人間」でも、「レーニン的ヒューマニズム」(P.390)への望みを持っていたと言えるだろう。
林達夫氏が亡くなったのは1984年なので、壁の崩壊、東欧革命、ソ連の終焉は見ていない。

林達夫/著
中央公論社

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