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2018年9月14日 (金)

原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年

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広島には3度行っている。
いずれも平和公園あたりは歩き原爆供養塔のそばにも行っているが、原爆供養塔にきちんと向き合ったのは、去年の広島行きだった。

広島の原爆死没者慰霊碑におさめられているのは、名簿である。
そして平和公園の一角にある原爆供養塔には、遺骨が納められている。
この違いは、何か。
さらに、広島市すらもが、記憶を消し去る作業に加担していると感じてしまうのは、なぜだろうか。

第一章から第四章が、慰霊碑とともにあった佐伯敏子さんの半生、第五章からは遺骨をめぐる旅という構成である。

気になる記述がある。
江田島には海軍兵学校のほかに、陸軍によって集められた少年兵を「船舶特別幹部候補生」として訓練し、爆薬を搭載した小型艇で敵艦船に体当たりして撃沈する「マルレ」搭乗員養成の基地があり、この部隊にいた少年兵たちは6に日は広島に向かい遺体の収容作業に従事したことがP.256に記述されている。
しかし、同じ江田島にあった海軍兵学校の生徒たちは広島には救援に向かっていないことが、P.272から記述されている。
その理由として、呉鎮守府は「特殊爆弾」の情報収集から「早くから、放射能の人体への影響、その恐ろしさをよく知っていたことにな」り、著者が「船舶特別幹部候補生」だった人の「日本の将来を担う海軍エリートの卵に、放射能にまみれた現地で危険を冒させるわけにはいかない、海軍上層部にはそんな考えが働いたのではないか」(P.273)という見立てを紹介している。
呉は原爆の被害は受けていないが、1945年以後複数回の空襲があり、呉工廠、呉市街地は壊滅した。
ところが、鎮守府あたりは被害を受けていない。
このことは、先日呉に行き旧呉鎮守府司令長官官舎のい入船山記念館でボランティア・ガイドさんから話を伺ったし、1945年12月に第一復員省によって作成された「戦災概況図呉」を見ると、明らかである。
海軍上層部が実際に「日本の将来を担う海軍エリートの卵に放射能にまみれた現地で危険を冒させるわけにはいかない」と考えたのかどうかはわからないが、こうした考えは、「軍」と「民」との関係を考える一つの材料かもしれない。

1945年12月に第一復員省によって作成された「戦災概況図廣島」もある。

第一章 慰霊の場
第二章 佐伯敏子の足跡
第三章 運命の日
第四章 原爆供養塔とともに
第五章 残された遺骨
第六章 納骨名簿の謎
第七章 二つの名前
第八章 生きていた〝死者″
第九章 魂は故郷に

堀川惠子
文藝春秋

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