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2018年3月19日 (月)

橋 ユダヤ混血少年の東部戦線

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1990年4月の刊行と、かれこれ30年前の本書、原題は「Die Brücke」である。
平凡社の「20世紀メモリアル」シリーズの一冊であるが、今は絶版のようだ。

1938年の「合邦」(アンシュルス、Anschluss)から記述が始まる。
そのとき著者は「シュトュービング・フリーザッハのムーア河に架かる橋の上に立っていた」との記述がある(P.12)のだが、地図で探すと、グラーツの北西でグラーツ方向に流れていくムーア川(Mura)の右岸にシュトュービング(Stübing)、その東側の左岸にフリーザッハ(Friesach)という町がある。
そして、P.60の脚注に「現在のドイツ民主共和国の南部に位置する地方名。」という記述があるのが、何とも時代を感じさせる。
ドイツ再統一(Deutsche Wiedervereinigung)は、本書刊行後の1990年10月3日のことであった。
さて、原著のサブタイトルは「Ein österreichische Schicksal」、「あるオーストリア人の運命」とあるように、著者のエルニ・カルツォヴィッチュ(Erni Karzowitsh)氏自身はカトリックでオーストリア人として暮らしオーストリア人と意識していた15歳の一人の少年であるが、アンシュルスによって「第一級混血」とされ、学校から追放されることになる。
徴兵検査ではその「出自」ゆえ不合格となり工場で働き始める。
ユダヤ人の父親(カトリックに改宗したが)は、オーストリアを追われてポーランドに行き、行方はわからなくなる。
その後、ドイツ軍に関わる労働に従事し、1942年暮れに東部戦線に送られることになり、ドイツ軍の敗退とともにロシアからポーランド、そしてドイツへと戻って来る。
ともにしたドイツ軍の中には、非ナチス的な将校もいた様子も描かれ、帰国後はグラーツで強制収容所被収容者連盟の人種的被迫害者部局で1950年間で働き、その後はフィーバーブルン(Fieberbrunn、チロル州)で肉屋として働いた。

P.165に、ムーラー裁判の記述の中で、ムーラーの息子のひとりが農業省次官に取り立てられたこと、それは「ある党から推薦」されたであることが記述され、「その党の党首本人が親衛隊の将校であった」とある。
この政党の党名は書かれていないが、その政党とは、1956年に結成されたオーストリア自由党(Freiheitliche Partei Österreichs、FPÖ )のことか。
1958年に党首となったフリードリッヒ・ペーター(Friedrich Peter)は、戦間期に武装親衛隊に所属した経歴があるらしい。

本書でも、「ヴァルトハイムの大統領選挙のとき反ユダヤ主義の動きが強まった」と、第二共和政第6代大統領ヴァルトハイム(Kurt Josef Waldheim、大統領任期1986年~1992年)に触れている(P.180)。
ヴァルトハイムは、第二次大戦戦後、オーストリア外務省に入省、パリ駐在のオーストリア公使、カナダ駐在大使を経て、1964年には国連のオーストリア代表に就任した。
ヴァルトハイムは1972年1月1日に第4代国際連合事務総長に就任し、1976年に再選され、1981年12月31日までその職にあった。

さらに、「この本を書くことによって、私や妻が生活していく上で、白い目でまわりから見られるのではないか、という心理的圧迫が常にあった」(P.180)とも記されており、こうした状況が1990年に近い時代にもまだ存在したことは、1943年のモスクワ宣言による「オーストリアはナチスの最初の犠牲者」規定によって「オーストリアの責任」が問われることがなかった戦後史のひとつの課題を示しているだろう。
その意味で、この肉屋の親父の戦後を含めた経験は、決して他人事ではない。

エルニ・カルツォヴィッチュ/著
増谷英樹/訳
小沢弘明/訳
平凡社

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