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2016年12月 1日 (木)

明治初期日本の原風景と謎の少年写真家

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サブタイトルは、『ミヒャエル・モーザーの「古写真アルバム」と世界旅行』。
1866年にザルツカンマーグートの風景写真を撮っていた写真家ヴィルヘルム・ブルガーがモーザー少年と出会い、写真機に興味を示したモーザー少年をウィーンに連れて帰り、見習いとしたことが、モーザーの「冒険」の始まりだった。
1868年、ブルガーはオーストリア・ハンガリー帝国東アジア遠征隊に写真家として参加することになり、助手としてモーザー少年を自費で伴い、日本に来たのは1869年(明治2年)、モーザ少年16歳のときであった。
以後7年間日本で暮らし、数々の写真を撮っている。

日墺関係のはじまりは「日本オーストリア関係史」に詳しいが、日墺修好通商航海条約の動きは次のとおりである。
1868年10月10日:特命全権公使海軍少将アントーン・フォン・ベッツ男爵を乗せたオーストリア・ハンガリー帝国海軍フリゲート艦ドーナウ号、オーストリア・ハンガリー帝国海軍コルヴェット艦フリードリヒ号がトリエステ港出港、喜望峰経由(スエズ運河の開通は1869年11月)で日本に向かう
1869年4月:シンガポール入港、その後3カ月清に滞在
1869年9月5日(明治2年7月19日):フリードリヒ号が長崎入港(本書では9月4日に到着とあるが、当チュアクビと入港びが異なるのかもしれない。)
1869年9月16日(明治2年8月11日):ドーナウ号が長崎入港
1869年10月2日(明治2年8月27日):ドーナウ号、フリードリヒ号が横浜入港
1869年10月6日(明治2年9月2日):ドーナウ号、フリードリヒ号が東京停泊
1869年10月16日(明治2年9月12日):ベッツ男爵が天皇と謁見
1869年10月18日(明治2年9月14日):日本國澳地利洪噶利國修好通商航海條約締結
1869年11月4日(明治2年10月1日):ベッツ男爵とドーナウ号が横浜を出港
1871年3月1日:ドーナウ号がトリエステに帰還
1871年5月8日:フランツ・ヨーゼフ皇帝が条約に署名
1872年1月10日(明治4年12月1日):明治天皇が条約に署名
1872年1月12日(明治4年12月3日):批准書交換
「日本オーストリア関係史」については、以前触れたことがある。

シュタイアマルク州のバート・アウスゼーのカンマーホーフ博物館(Kammerhofmuseum)に、ミヒャエル・モーザーを記念した一角があるらしい。
モーザーの時代は、バートイシェルから歩いて行ったようだが、いまは鉄道があるので、アットナング= プッフハイムからバート・イシェル方面へのローカル線で約1時間40分乗って行けばよい。
バートイシェルからであれば約40分なので、ザルツブルクからの日帰りも可能な範囲だろうし、ハルシュタットを再訪するかオーバートラウンなどで宿泊してもいいかもしれない。
ぜひ訪ねてみたい。
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鉄道と言えば、1873年にモーザーがウィーン万博の通訳として帰国したときに休暇をもらって故郷に向かったときは、ウィーンから西鉄道(エリザベート皇后鉄道、今は連邦鉄道)でグムンデンへ向かい、グムンデンからバートイシェル経由で故郷に入っている。(P.107、P.109)
帰りはバートイシェルに出てザルツブルクまで郵便馬車を使い、ザルツブルクから鉄道でウィーンに戻っている。
ザルツカンマーグート地方鉄道が開業したのは1890年8月5日のこと(このときはバートイシュル地方駅とシュトローブル駅間、バートイシェル・ザルツブルク間の全通は1893年6月20日、バート·イシュル中央駅への接続は1894年7月3日)なので、モーザーがこの鉄道に乗ったとしたら1877年のフィラデルフィア万博に日本から通訳として同行し帰国して以後のことだろう。

ウィーン万博が終了して日本にもどるとき、モーザーはミラノを訪れている(P.112)。
モーザーが歩いて見たドウムやGalleria Vittorio EmanueleII(ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア)には、130年の後に実際に見ているので、感慨深い。

オーストリアの写真に関しては、今年4月にマグナム・フォトの展覧会「マグナム・ファースト日本展」に行ったときに、オーストリアの写真雑誌「Camera Austria」を創設した写真評論家のクリスティーネ・フリシンゲリ(Christine Frisinghelli)さんと同じく創設者で写真家のマンフレート・ヴィルマン(Manfred Willmann)さんのお話を伺い、ひとことふたこと言葉を交わしたことがある。
もしかしたら、この方たちも、モーザーのことをご存知かもしれない。

本書にはモーザーが歩いたことを示す地図がある。
地図2(P.31、オーストリア・ハンガリー帝国東アジア遠征隊の写真家ブルガーとともに来日したときのルート)は当時のオーストリア・ハンガリー帝国のエリアが示されているのだが、地図7(P.115、ウィーン万博の通訳として帰国したときのルート)や地図10(P.160、フィラデルフィア万博に日本から通訳として同行し帰国したときのルート)では現在の国境の表示である。
これらの地図でも、当時のオーストリア・ハンガリー帝国のエリアを示すとわかりやすいと思った。

東京大学史料編纂所報に、モーザーにかかわる調査の概要がある。
オーストリア共和国・スイス連邦所在日本関係古写真等の調査・撮影
オーストリア共和国所在日本関係古写真等の調査・撮影
オーストリア共和国所在日本関係古写真等の調査・撮影
オーストリア共和国・スイス連邦所在日本関係古写真等の調査・撮影
また、研究成果が世に出るらしいので、出たら手に取ってみたい。

モーザーが日本で雇われた新聞「ザ・ファー・イースト」を創刊したジョン・レディ・ブラック(John Reddie Black)は、初代快楽亭ブラック(本名Henry James Black)の父親である。

口絵―明治初期日本の原風景ほか
はじめに―祖父ミヒャエル・モーザーの「世界旅行」と数奇な運命 アルフレッド・モーザー
ミヒャエル・モーザー家の略系図
序―ミヒャエル・モーザーと明治初期日本との出合い ペーター・パンツァー
第一章 オーストリアの山里から世界へ
第二章 日本での生活のはじまり
第三章 通訳としてウィーン万博へ
第四章 二度目の日本滞在
第五章 フィラデルフィア万博から故郷への旅
訳者あとがき 宮田奈奈
[解説]幕末維新史研究の視点から 保谷徹
[解説]写真史・写真技術研究の視点から 谷昭佳
ミヒャエル・モーザー略年表
本書関係者の経歴

アルフレッド・モーザー/著
ペーター・パンツァー/編注
宮田奈奈/訳
羊泉社

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