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2016年12月13日 (火)

手放せない記憶──私が考える場所

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ともに亡くなってしまった、小田実氏(2007年7月30日没)と鶴見俊輔氏(2015年7月20日没)のによる対談である。

小田氏は言う、「国家は勝手に戦争を始めて、勝手に降伏した」と。
それは、小田氏自身の経験に基づいている。
第二次世界大戦の日本の降伏は、7月26日ポツダム宣言が発表されたが、28日鈴木貫太郎は「黙殺」し、8月6日の広島9日の長崎の原爆投下とソ連の参戦をうけて、10日になって国体護持を条件に受諾を連合国側に打診、12日に連合国の回答を受けて14日の御前会議で受諾を決定、15日に玉音放送という経過をたどったのだが、8月14日に大阪が空襲された。
なぜか。
10日の受諾通告は正式な通告ではなかったことで米国が圧力をかけたからだと、小田氏は言う。(P.45)
この経過は、国民は知らされていない。
すでに日本が降伏することになっていることを知らないなかで、数百名が命を落とした。
そのとき小田氏は、空襲を受けるその大阪に、3月と6月に続く、3度目の空襲のさなかに、そこにいた。
その小田氏は、この対談が行われた2004年に成立した国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)ではなく、「市民安全法」をつくるべきだと主張する。
国民保護法
市民安全法

2016年12月12日、最高裁は辺野古埋め立て訴訟について弁論を開かず、判決期日を20日に指定し関係者に通知した。

まえがき 小田実
手放せない記憶 私が考える場所
 最初の電話
 『ベ平連』は3分でできた
 市民運動をつづけるには
 べ平連の三原則
 「人間のあらわれた日々」
 しゃべることから始める
 井戸と釣瓶
 トボトボと歩く
 大阪大空襲
 日本とドイツ
 空から落ちてきたビラ
 アイ・アム・ジャパン──斬られる側に立つ
 武士道と高度経済成長
 バンドン会議
 留学体験
 なぜ「進駐軍」だったのか
 敗戦が「民主主義」と「平和主義」を結びつけた
 世界的視野で憲法を考えなおす
 「国民保護法」でなく「市民安全」法を
 「国益」ってなに?
 白旗を揚げる権利
 イラクに、日本の町の給水車を
 国家が作った知識人
 知恵の力とは
 取り決め、叙事詩、国家
 法律のはじまり
 知恵の力とは
 東大教授の使われ方
 集団のなかの言語
 シノッド
 兵役拒否は「平和憲法」が生んだのではない
 哲学はどこからやってくるか?
 脱走兵が生んだつきあい
 心変わりの擁護
 捕虜のはなし
あとがき 鶴見俊輔

鶴見俊輔・小田実/著
SURE

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