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2016年11月22日 (火)

自由からの逃走

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学生時代(1970年代だ)においては本書は必読書であったかと思うが、いまの学生たちにはどうなのだろう。
版が続いている(1951年初版、本書は2015年9月の122版)ところを見ると、相変わらず読み継がれているということか。

フロムはなぜ本書を世に出したか。
「われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、彼らの父祖たちが自由のために戦ったのと同じような熱心さで、自由を棄ててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由から逃れる道をさがしたこと、他の数百万は無関心な人々であり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値あるものとは信じていなかったこと、などを認めざるを得ないようになった。」(P.12)
「ファッシズム(ナチズム)と戦うためには、ファッシズムを理解しなければならない。…ファッシズムを勃興させた経済的社会的条件の問題のほかに、理解を必要とする人間的な問題を理解する必要がある。」(P.12~13)

そして、なぜいま、本書を読むのか。
むろん、今の世の中が目に見えて当時のドイツのようだということではないが、ワイマール憲法をそのまま存続させつつNSDAPが独裁的にふるまう国になっていたドイツと、「静かなクーデター」とも評される「解釈」によって憲法の一部を変更した政権の国と、微妙に重なり合うように思えてならない。
「失われた20年」「東日本大震災」「東シナ海」「テロ」などの状況のもとで「日本を取り戻す」と言われたとき、ついくらくらと「強いリーダーシップ」に傾いているのではないだろうか。
本書でもところどころに出てくる「絆」、この言葉が2011年以後さまざまな場面で使われてきているが、「絆」の語を人々が受け入れている様相を観ると、重なってしまうのである。
むろん、フロム自身が言っているように「ファッシズムを勃興させた経済的社会的条件の問題」、経済的背景や歴史や諸国との関係その他の側面も当然考えなければならないだろう。
けれども、我が国での世論調査における内閣や政権党の支持率、そしてさまざまな選挙結果をみたとき、国民の選択がそうした雰囲気で決まっていってしまう状況が現実にあるとなると、やはり考え込んでしまう。
この国の人びとは、自由を獲得したことにともなう孤独や不安に耐えられず、新たな「依存」「従属」の方向に行こうとしているのだろうか、と。
そこへもってきて、米国大統領選挙の結果である。
得票数では下回った候補者が過半数の選挙人を獲得できて勝利できた独特の選挙制度によるものであるが、勝者の支持層が米国の現状に不満を持つ白人労働者であったということは、80年前と重なるものがあるのかないのかと考えてしまう。
ある種の権威とともにあること、その庇護下にあることを確認することで得られる安堵感は、個人としての自由に耐えられない者の性なのか。
その権威を土と血に求めたときの経験は、忘れ去られてしまったのだろうか。

「個人に安定感を与えていた第一次的な絆がひとたび断ち切られるやいなや、そして個人が彼の外に完全に分離した全体としての世界と直面するやいなや、無力感と孤独感との絶えがたい状態に打ち勝つために、2つの道がひらかれる。一つの道によって、かれは「積極的自由」へと進むことができる。かれは愛情と仕事において、彼の感情的感覚的及び知的な能力の純粋な表現において、自発的にかれを世界と結びつけることができる。こうしてかれは、独立と個人的自我との統一を捨てることなしに、再び人間と自然と彼自身と、一つになることができる。彼のためにひらかれているもう一つの道は、かれを後退させ、自由をすてさせる。そして個人的自我と世界との間に生じた分裂を消滅させることによって、彼の孤独感にうちかとうと努力」(P.158頁)し、「自由――……からの自由――は新しい束縛へと導く」。(P.283)
前者は、ヘーゲル的に言い換えれば「自由とは必然性の洞察である」の認識過程であろうし、後者はサルトル的には「自由の刑に処せられている」ということになるのかもしれない。
さらに前者の「積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存」(P.284)し、「ひとが自我の本質的部分を抑圧しないときにのみ、自分が自分自身にとって明瞭なものとなったときのみ、また生活のさまざまな領域が根本的な統一に到達したときにのみ、自発的な活動は可能な」(P.285)のであるとすれば、それはマルクスやエンゲルスがいうところの人間の「全面発達」と重なってくるのだろう。

あらためて本書を読んでみると、学生時代には経験のなかったドイツその他のヨーロッパの国を歩いたことで、彼の地の雰囲気あるいは空気感を感じたり、あるいは本書に出てくる人物についても、その後どのような人であったのかを知ることができたりしているので、年数が経過して再読した分、よりリアルに本書の記述を受け止めることができたように思う。
もっとも、フロムが意図したものをきちんと受け止めることができているかどうかはわからないが。
フロムが本書を出したのが1941年、フロムがかかわった「ワイマールからヒトラーへ」のアンケート調査が1929年から1931年であるが、アンケート結果について本書では「第六章 ナチズムの心理」では、「千九百二十年から三十年に置けるドイツ労働者および被雇用者の性格」として紹介されている(P.261)ほか、「付録 性格と社会過程」で弱冠触れられているだけだが、「ワイマールからヒトラーへ」を思い出しながら本書を読むのがいいのだろう。

しかし、学生時代に本書を読んだのは、「ファシズム論」の参考資料のひとつとして、過去の人びとがどのように考えていたのだろうかということを探るためであったが、21世紀になって自分の置かれている状況を考察するひとつの方法としてふたたび読むことになろうとは、思いもしなかった。

序文
第一章 自由・・・心理学的問題か?
第二章 個人の解放と自由の多義性
第三章 宗教改革時代の自由
 1.中性的背景とルネッサンス
 2.宗教改革の時代
第四章 近代人における自由の二面性
第五章 逃避のメカニズム
 1.権威主義
 2.破壊性
 3.機械的画一性
第六章 ナチズムの心理
第七章 自由とデモクラシー
 1.個性と幻想
 2.自由と自発性
付録 性格と社会過程
訳者あとがき
新版にさいして

エーリッヒ・フロム/著
日高六郎/訳
東京創元社

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