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2016年8月 2日 (火)

2 津和野まちあるき 乙女峠記念聖堂

宿に行き、預けていた荷物をピックアップ、タクシーを呼んでいただく。
タクシーが来るのを待っている間、宿の女将さんとお話をしていたら、あらら、役場の標識をご存知ないことが判明。
タクシーでまず駅に行って荷物をコインロッカーにしまい、そのまま乙女峠に行けるところまで行ってくださいと頼む。
タクシーを降りて、数百メートル山道を歩いて行くと、行きたかった乙女峠記念聖堂(マリア聖堂)が見えて来る。
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記念聖堂の脇には、比較的新しい「キリシタン殉教史跡 乙女峠の由来」碑が建てられている。
この地には1867年の「浦上四番崩れ」で捉えられた四千余名のキリシタンのうち153名が、1868年から1869年にかけて送られてきて、この地にあった光琳寺に幽閉された。
うち37名が1870年までに殉教、信仰を守りとおした者は63名とされている。
1891年8月にビリヨン神父が殉教者たちの遺骨を一つの墓に集め、「為義而被害者乃真福」と刻まれた「至福の碑」を建立。
1951年、岡崎祐次郎神父(ドイツ人パウロ・ネーベル神父が日本に帰化したときのお名前)が、乙女峠記念堂(マリア堂)が建立。

乙女峠記念聖堂の周囲には、幾つもの碑などが建てられている。
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「至福の園」に至る山道の入り口と殉教100年記念「乙女峠の聖母とその殉教者」碑
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旧光琳寺庫裏・台所流し場桶とキリシタン氷責めの池、井戸の屋根の後ろに1922年建立の殉教者記念碑。
そして三尺牢趾、ここは聖母出現の場とされている。
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案内板が説明している。
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ここは光琳寺の境内だった。
「キリシタン殉教史跡 乙女峠の由来」碑の裏面には、「日本の信徒発見150周年記念碑」と刻まれている。
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記念聖堂の中にあったパンフレットに、ここでの虐待や拷問などによって信仰を捨てた人たちのことにも触れれている。
その人たちは棄教したのちも、信仰を守りとおした人たちに差し入れをするなどしたようで、後日、信仰が許され長崎に戻った信者たちは、ころんだ人たちを弁護しふたたび教会に迎えたとある。
ここに立ちパンフレットに目をとおしていると、どうしてもあの事件のことが思い出される。
亡くなった方は公表されてはいないけれど、その中には知っている方が含まれている。
あの事件では、「人」というカテゴリーとは別のカテゴリーとして「障害者」がいるかのような論調に、違和感を覚えた。
論調をなす人は「人」のカテゴリーに属している、論調の対象となる人たちは「障害者」のカテゴリーに属していると言わんばかりで、さらには決して適切とは言い難い用語をあえて使って事件を語るなど、そこには、理解や共生といった思いは微塵も持ち合わせていないように思えてならない。

ただ忘れてはならないのは、キリシタンというよりもキリスト教もまた、考えの異なる者たちに対する排斥や迫害、弾圧を行った歴史を持っていることだ。
その歴史に目をつぶったままで、キリシタンの迫害を受けた歴史を語ったとしても、それは一面的でしかないだろう。
あるいは、キリシタン弾圧によって棄教してしまった人たちにどう向き合うのかということも、あわせてキリスト者には問われるということでもある。

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