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2016年5月20日 (金)

「憲法改正」の真実

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「改憲派」の重鎮小林節氏と護憲派の泰斗樋口陽一氏が、議論した。
二人の「議論」は、自由民主党による「日本国憲法改正草案」のもつさまざまな問題点を明らかにしていく。
一言で言えば、「草案」を公表して「改憲」を主張している勢力は、そもそも憲法とは何なのかを理解していないということにつきるが、そうした「改憲」勢力に対して「主権者」「憲法制定権力者」として私たちはどう向き合うのか、「静かなクーデター」(なぜ「静かなクーデター」なのか、P.212以後参照)によって停止させられてしまった憲法を、本書の表現では「奪われた憲法を奪還する」、そのために私たちは何を知り何をなすのか、本書のテーマである。

「静かなクーデター」によって憲法を停止状態にした政党が策定し公表している「草案」をめぐっては、まず、「明治憲法のようだというのはあたらない。慶安の御触書に戻るようなものだ」との評を紹介している。(P.52)
小林節氏は、以前は「草案」を策定した自由民主党のブレーンでもあったので、その党の中でどんな考え方があってどんな話がされたのかも紹介していて、説得力を持つ。
もっとも、チャキチャキの「日本を取り戻したい」と考えている「改憲派」にしてみれば、小林節氏はいまや「改憲派」の名に値しない人物であると考えているのだろう。

二人によるいくつか大事な指摘はメモしておこうと思ったのだが、一行一行ごとに大事な指摘が続いているので、そこから一部を抜粋するなど、とてもとても不可能だ。
それこそ、本書を丸々写すことになってしまう。
とはいえ、記しておきたい内容は、いくつかある。

ひとつは、「明治の法体系をつくったときの人たちは、現在の政治家たちよりも、もっと真面目だった」との樋口氏の指摘(P.52)と、これは小林氏も驚いているのだが、「明治憲法そのものは、十九世紀後半の基準で見れば、立派な憲法だった」との樋口氏の明治憲法の評価(P.53)である。
これだけ抜き出すといらぬ誤解を生みそうだが、これは、「不平等条約」を「跳ね返すために、欧米の法学を懸命にとりこんで、国家体制と法秩序を整えようとした」(P.52)先人たちの努力と、「天皇が統治権を総攬していた(中略)状況では、憲法によって縛られるべき権力が何なのかが明確」であったが故に『「立憲」「非立憲」という言葉が、戦前の日本で一般的だった』(P.38)という評価とセットだろう。

また「権利には義務が伴う」論の検討(検討内容は本書参照)のなかで紹介されている伊藤博文の「抑[そもそも]憲法ヲ創設スルノ精神[「神」は旧字体]ハ、第一君権[くんけん、「権」は旧字体]ヲ制限シ、第二臣民ノ権利権[けんり、「権」は旧字体]ヲ保護スルニアリ」(P.83)や森有礼の「臣民ノ財産及言論ノ自由等ハ人民ノ天然所[「所」は旧字体]持スル所[「所」は旧字体]ノモノニシテ(以下略」(P.84)といった、権力を縛って人民の権利を守る憲法観が、明治の時代に権力を持っていた人にあったことがうかがうことができる。
権利と義務とをめぐっては、改憲派の拠り所とされるスイス憲法についても、改憲派はスイスの歴史や市民意識を見ずに都合のいい条文だけを引用している危うさを、きちんと指摘している。(P.83~P.94)

そして、トレンドともいうべき「国家緊急権」。(P.102~)
まずは、「草案Q&A」で自民党自ら「緊急政令は、現行法にも、災害対策基本法と国民保護法(「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」をいう。以下同じ。)に例があります。したがって、必ずしも憲法上の根拠が必要ではありませんが、根拠があることが望ましいと考えたところです。」(「草案Q&A」P.34~P.35)としている矛盾を指摘したうえで、国会の空白については日本国憲法第五十四条第二項に規定する参議院の緊急集会規定があることを示している。(P.117)
さらに、一般論としての草案百二条の国民の憲法尊重規定と草案九十九条第三項の義務規定をめぐっては、『国民に向かって「憲法に従え」と言うこの草案は、もはや近代憲法ではない』(P.121)と看破する。
しかも、「国家緊急権」に対する司法の関与がないことも指摘している。(P.124)

また、家族などの概念が「草案」で規定されていることについても、「草案Q&A」で「そもそも家族の形に、国家が介入すること自体が危ういのではないですか?」と書いていることを指摘している(P.141)ように、道徳を憲法に持ち込むことの危険性の認識は、自民党内にもあったようだ。
あまり目立たないのは、「草案」第22条、これは現行憲法第22条と同じ条で経済的領域における基本権の規定であるが、現行憲法が「公共の福祉に反しない限り、」とのタガをはめているのに対し、草案では憲法にある「公共の福祉に反しない限り、」はそっくり外されている。
他では権利を制約するようなタガをあちこちにはめている「草案」でありながら、なぜここではタガを外しているのか。
それは、新自由主義を国是とするような草案前文に対応しているからにほかならず、このことで「美しい日本」「良き伝統」「家族」とそれらを破壊してきた効率や競争との矛盾について、あるいは「美しい日本」等の美辞麗句は偽装であることも指摘する。(P.152~)

もう一つ加えておきたいのは、「新自由主義と復古主義をつなぐ」ものとしての「個人の自由を否定する権威主義」が同居する草案前文、個の自由のつらさをどう耐えていくかというところで、エーリヒ・フロムの「自由からの逃走」について述べているところ。(P.161)
ある意味「共同幻想」を求めかねない「草案」にどう立ち向かうか、ここで「自由からの逃走」が出てくるとは思いもしなかったけれども、いま、ナチズムに傾倒していったドイツ人の心の内を敷衍してみる必要があるのかもしれない。

もっときちんと詳しく知りたいのは、樋口氏による「専守防衛のための国防軍をもつというならば、徴兵制であるべきだ」(P.178)との考えである。
「貧しい若者だけに負担を押しつけ」る「志願制」ではなく(P.180)、「主権者として、ある種の分担をすることを覚悟」(P.181)し、「全国民が」「関与」する(P.178)ために、「九条を変えて軍をつくるというのならば、その軍隊は徴兵制でなければならない」(P.177)としている。
ここでは「徴兵制」論を簡単に言っていて、その「軍隊」がどのような武力を持ち、どのように「専守防衛」をはたすのかについては何も言っていないが、軍に任せるのではなく人びと自らが自らの命や財産を衛るというところでは、非武装国民抵抗あるいは市民的抵抗と通底するものがあるのではないかと考えたい。

はじめに――なぜ、われわれ二人なのか
1.破壊された立憲主義と民主主義
2.改憲草案が目指す「旧体制」回帰とは?
3.憲法から「個人」が消える衝撃
4.自民党草案の考える権利と義務
5.緊急事態条項は「お試し」でなく「本丸」だ
6.キメラのような自民党草案前文――復古主義と新自由主義の奇妙な同居
7.九条改正議論に欠けているもの
8.憲法制定権力と国民の自覚
9.憲法を奪還し、保守する闘い
対論を終えて
主権者としての心の独立戦争 小林節
あらためて「憲法保守」の意味を訴える 樋口陽一

樋口陽一・小林節/著
集英社

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