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2015年10月 9日 (金)

平和の政治学

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「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案(閣法第72号)及び国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案(閣法第73号)」は、2015年9月17日参議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会で、そして19日未明、参議院本会議で可決され成立した。
この機に、平和論の古典的とも言うべき本書を、あらためて読んだ。

本書の刊行は1968年、かれこれ半世紀が経とうとしているが、本書の「序 平和と政治」で挙げられている課題は、今でも相変わらず課題となっていると言ってもいいだろう。
集団的自衛権を正当化する理由として「国際情勢の著しい変化」と言われるものの、武力に頼ろうという論旨に使われる言葉は50年前にも「極東の安全のために必要」とされており、対処すべき相手が当時のソ連がなくなった今は中国・北朝鮮になったほかは、いっこうに変りばえがしないのである。
また、本書でもふれられているが、「平和のためにたたかわなければならない」というときの「たたかう」という言葉について、「平和」といいながら『たたかう』とは何事か」というある意味の揶揄は、安保法制の審議中に国会前に集まった人たちに対しても投げつけられていた。
そして、50年前の冷戦下の状況、中国が国際社会から爪弾きされていた状況は、現在の情勢とは当然異なった情勢であるが、その状況下での沖縄返還をめぐる政府首脳の論理は、いまの政府首脳の論理とそっくりであることに驚く。

武力による安全保障を正当化しようとするとき、50年前と変わらない論旨が今でも使われていることは、安全保障といい国際貢献といい、いずれも武力によらなければ達成し得ないという考え方そのものが、ある意味幻想であるということの証左でもあろう。
一方で、市民的不服従あるいは非武装抵抗についての議論の深まりがなかったのも、平和を求める側の変りばえのなさ、不面目であることだろうし、この点はきちんと認識しなおすべきである。
これは本書でも既に、「平和憲法という国家のたてまえによりかかってきた」(P.186)ことにより、日本人も「個人として平和の原理をどう考えるか、国家が平和の原理に反する行為をしたらどうするかという問が入ってくる余地がない」(P.185)と指摘していることであるから、なおさらである。
もっともこれは、日本人のもつ「社会的調和を尊ぶことを第一とする精神的風土のなかで、国家権力の、あるいは一般に上にある権威に極めて従順な態度」(P.169)と不可分なことなのかもしれない。
こうした日本人の態度、「和」を好む精神、その歴史は本書で検討されているが、そうしたものが「否」を表現する直接行動への拒否感となることは、今次の安保法制にかかわる国会前行動に対する揶揄などを見れば、いまでも連綿として続いていることが明らかだ。
その意味でも、いわゆる「安保法制」という「著しい変化」の下における「平和の政治学」の再構築、私たち自身が日常的に何をなすことができるのかを確認することが、私たちに投げかけられている。

序 平和と政治
I 歴史的遺産と今日的状況
 一 平和観の文化的類型
 二 戦争規制の歴史的展開
 三 個人と現代政治
 四 戦争に反対する政治的態度
II 平和を日本の政治的現実の中で考える
 一 生産的な討論のために
 二 日本の安全と極東の平和
 三 平和主義とその政治行動
 四 最後の抵抗形態としての市民的不服従
 五 非武装の政治的可能性
あとがき

石田雄/著
岩波書店

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