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2015年9月12日 (土)

平和の論理と戦争の論理

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世の人たちは、次の問いにどう答えるであろうか。
I 恒久的平和は、すべての国策決定の指針となる積極的価値であるか。戦争は人間性に内在するか、しないか。したがって恒久的平和は、人間に可能であるか、ないか。
II 恒久的平和を段階的に実現する発展傾向は、歴史の中で証明されるか。
III 歴史の現在の段階は、見わたしうる時点で、恒久的平和の理念を実現できることを示唆しているか。
IV 恒久的平和をもたらすための実践的意思行使の方法、技術、制度が現在、すでに体系的に着手されはじめているか。

この問いは、本書P.177~P.178に紹介されている、「平和の理念と平和主義」(1931)を書いたマックス・シェラーが、思想の軍国主義反応の有無とその程度をためすリトマス試験紙である。
この質問の答え方で、その思想的態度を推し量ろうというものだ。
さて、その結果は如何に?

本書の初版は1972年に刊行されたもので、しばらくの間絶版がつついていたが、2015年5月14日に復刻(第10刷)された。
この時期に、つまり、2015年5月26日、「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」及び「国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案」が第189国会において審議入りしたこの時期に本書が復刻されたことに、大きな意義があるだろう。
本書を古くさいと言う勿れ。
本書に込められた思いを今の時代に確認することが、世の中の「平和」をめぐる動きを見据えるうえで、大きな力となる。

著者は以前から「平和の論理」を提起してきたのであるが、今日に至るまで、あいかわらず戦争の不可避性を前提とした、「集団による組織的暴力の行使を特色と」し、「その目的、その手段の一切における暴力性、超論理性、ヒステリー性を特色とせざるをえない」(P.7)「戦争の論理」が続き、非武装・非暴力は無抵抗と同義であるというような論調も跋扈し、残念ながら、「平和の論理」は「戦争の論理」に押し切られてきたように見える。
その集大成とも言うべき、2014年7月1日の、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更の閣議決定であり、閣議決定をふまえたいわゆる「安保法制」の国会上程である。
けれども、「戦争の論理」の暴走を「平和の論理」が押しとどめてきたことも、また、確かなことである。
これまで政府自ら違憲としてきた集団的自衛権を可能にする安保法制が現実のものになろうとしているとき、これからもますます、「暴力の(中略)挑戦に徹頭徹尾、抵抗してゆく」意識と「できうるかぎり無暴力であって、しかも徹底的な不服従の態度、できうるかぎり非挑発的であって、しかも断固たる非協力の組織」をつくりあげていくこと、そして「われわれ一人一人の中に、戦争への傾斜に対する非協力、不服従の、直接的、無条件的態度への信念が、脈々として生き、働いているということ」(P.8)を自らのものにし、「戦争の論理」と対峙する努力が求められるのだろう。
そして、その段階で良しとするのではなく、その次の段階、「戦争の論理」に基づく安全保障ではなく、軍事力に依存しない安全保障を構築していくこと、「戦争を生み出す条件を探求し、公表し、これらの条件を再編、或は抹殺する努力を積みかさね」(P.17)、いかに「平和の論理」によるしくみをつくっていくことができるか、それは絶えず私たちが持っていなければならない課題なのである。
そして「平和の問題には、専門家がいない。これが実は、平和問題の一番重要な特色である。政治家たちは、われこそは平和問題の専門家があると自称するかもしれない。しかし政治家たちだけにまかせて安心しておかれないという点に、この問題の比類のない深刻さが認められる。それほど平和に関する政治家の実績は、失敗の歴史であった」(P.45)とすれば、私たちは、「主権者として平和を欲し、政治権力の担当を目標とするすべての政党、政派に向かって、平和を守れと命令する立場にある」(P.71)ことを想起し、自ら課題に立ち向かうしかない。

そのとき、憲法の平和主義は第9条の解釈だけではなく、前文の「政府の行為によってもう一度、戦争の惨禍が引きおこされるのを何としても予防しなければならぬという、ふかい決意の帰結として宣言されて」いること、『「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というコトバ以下の文章も、その「諸国民」の中には、当然わが国民がまず第一に含まれるという読み方をしなければならない。憲法の平和主義が他国依存主義であるということの証拠に、このコトバをもちだすのは、だからただしい解釈とはいえ』ず、「憲法は政府の国策行動を支配する規範であるから、そう命じられているのは、だれよりもまず、政府当局であ」(以上P.210)ること、「最も根ぶかい“思考の惰性”は、平和を『安全』ととりちがえ、自国の『安全』保障をおいもとめつづける国策によって、平和をねがいながら、戦争をまねきよせる先入見である。憲法の平和主義は、平和を『安全』ととりちがえ、『安全』を『安全』保障をと同視し、『安全』保障を軍事的安全に帰着させる“思考の惰性”ときっぱり手をきる決断を表現している」(P.212)ことといった指摘は、私たちの課題への対応を大いに力づけてくれる。
何といっても「家のよしあしをきめるのは、大工ではなく、住み手」(P.267)なのだから。

「あとがき」に「私は戦前、戦争防止のために幾分の努力をし、しかも防止を果たせなかった世代の一人である」(P.395)との言葉がある。
将来、同じ言葉を書かなければならないような愚は、してはならないだろう。

一 平和の論理と戦争の論理
二 二つの平和は世界平和につながるか
三 平和の理想はきえさるべきか
四 米ソ共存の含む諸問題
五 二つの平和主義
六 平和概念の現代的意義
七 平和主義者の武器
八 原水爆と倫理
九 日本における平和理論と平和運動
一〇 原子力の社会史
一一 憲法第九条と非武装的防衛力の原理
一二 平和の理念をめぐる提案
一三 『安全』の論理と平和の論理
一四 二つの平和論
一五 核の傘にかわる非武装的防衛力
一六 十五年戦争の意味をめぐって
年表
あとがき

久野収/著
岩波書店

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