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2015年7月 6日 (月)

日本人と戦争―歴史としての戦争体験

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各地で行われた著者による講演を書き起こしたものであるが、ちょっと不思議な本である。
著者は「大東亜戦争」という言葉を使っているので、一定の立場であることは想像がつくのだが、なぜそうした言葉を使っているのか、その理由は示されていない。
他の著作を読んでいないし、「大東亜戦争」は、必ずしも保守あるいは右派という人たちだけが使っているわけではないことは承知しているのだが、この人の拠って立つところは、本書だけではわからない。
また「シナ」という言葉も使っているが、括弧付きだったりそうでなかったりしている。
講演であることをふまえれば、もともと括弧付きの意味合いで使ったのかどうかはわからないが、『「シナ兵」と侮蔑的によんだ』(P.228)という記述もあるので、好んで使っているのではなく、当時の言い方として使っているのかもしれない。
それにしても、本書の内容が聴衆に向かって語りかけた記録であるということにもよるのかもしれないが、この人の歴史の見方や語り方は興味深い。
それは、サブタイトル「歴史としての戦争体験」とあるように、「歴史像を問い質すには、国民をめぐる記憶の場を析出し、記憶の構造を解析することが求められてい」(P.9)るとのスタンスである。
そのスタンスに立ち、著者は鋭く歴史を問いなおそうとし、決して美化することはない。

たとえば、日露戦争以後の学校につくられた「記念室」、そこには「戦死した人の写真が黒枠で掲げられ、戦死者の手紙が集めら」ていたようだが、「このような教育のありかたは、軍国主義教育でありましょうが、その価値観のゆえにすべてを否定しさることは問題ではないでしょうか」と問いかけ、「このような世界をふまえ、歴史を自分のものとなし、「栄光の明治」という記憶がはぐくまれた」と指摘し、「現在問われなければならないのは、こうした「栄光の歴史像」を「軍国主義」とか「皇国史観」の賜物だと論難し、否定しさる前に、そこで見につけた歴史の読みかた、ある歴史を追体験する作法で見につけた世界を凝視し、そこに埋め込まれている記憶、とくに聖なる空間をめぐる物語がどのようにして語り継がれたかを解析していく作業にほかな」らないとする。(P.59~P.60)
その意味では、本書で語られる歴史は、ひとびとがどうであったか、何を考えていたかといったところを、「玄関ではない、生活の場である勝手口の感覚をもって、世間の営みをとらえていく作法(P.3)によるものである。
基盤となる歴史観はこれだけではわからないが、方法論のひとつとしては、汲むべきものが多々あると思う。

著者の考え方は、ここでもよくわかる。

ただ、そうした人々の体験からのアプローチだけではなく、事象となった背景に対するアプローチも必要なことだと考えるが、どうなのだろうか。
しかし著者は、西欧中心的な歴史認識を拒否する。
「ヨーロッパ世界の、18世紀から19世紀にかけて現代につらなる世界支配の構図を自明の前提となし、歴史を読み解く作法にほかなりません。そこでは、ヨーロッパ諸国の世界支配を必然とする前提のもとに、非ヨーロッパ世界であるアジア・アフリカを野蛮と見なし、野蛮を文明化する使命を神の摂理と見なすことで、ヨーロッパ中心の世界像がつくられていきます。」(P.216)
「西欧的世界が生み育てた民主主義や人権が欧米による世界支配のためのイデオロギーであり、虚構にすぎないことを凝視せず、その神話に呪縛された眼で人権後進国、抑圧国と地域や民族のあり方を規定するような世界解釈が幅をきかせています。それだけに各地域や民族が持つ固有性を場となし、その固有性から、いかに歴史を読み解くかは大きな課題となります。」(P.217)
そのうえで「歴史を問い質す作業とは、この(歴史は過去の物語だけれども現在(いま)の物語だということを)想起する行為えお営む場として、記憶が国家にとらわれるのではなく、「フォアクロアの眼」に相応する世界、地域の個別製を蘇生する営みにほかなりません」(P.246)と導くのである。

さらに提起しているのは、「戦争展示の課題」で、第八章で展開している。
日本において「戦争」をどのように展示するか、著者の考え方は「戦争を行きた人間の多様な記録を可能な限り提示し、自らの記憶された世界、過去の思い出といものが何によってつくられているのかを問いかけ、己の戦争体験を相対化し、読みなおす場を形成したい」(P.273)とする。
簡単には評価できないけれども、賛美するのでもなく被害者然とするのでもなく、「戦争」を自ら問う場としての戦争博物館、軍事博物館の可能性については、いま、戦争法案が現実のものとなろうとしているときに、自分たちで問い続けなければならないのだろう。

ネットで著者を検索すると、現政権が第189回国会に提出した安保法制をめぐって、「大濱徹也氏が「戦死あり得ぬは欺瞞」と題して、「安倍氏が『非戦闘地域』であるから戦死はあり得ないとみなすのは欺瞞そのものだ」と鋭く指摘、「まさに自衛隊の海外派遣は派兵にほかならず、戦死がつきまとう任務なのだ」と。さらに、「その任務に伴う死は訓練や災害救助などの公務遂行中の殉職ではなく、戦闘行為に伴う死、『敵』に殺された『戦死』に等しい」として、「戦死」と「殉職」を曖昧いにした安倍内閣のごまかしを追及している。」との記述が出て来る。
共同通信の「安保法制を問う」とした企画記事に掲載されたもののようであるが、原点をあたっていないので、真偽のほどはわからない。

はじめに
第1章 近代日本の構図
第2章 民衆の原像としての兵士
第3章 歴史としての戦争体験
第4章 戦争を問う場
第5章 歴史としての引揚げ体験
第6章 佐渡・日本・アジア
第7章 歴史を問い質す場
第8章 戦争展示の課題-聖なる空間、民族の物語の場として-

大濱徹也/著
刀水書房

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