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2015年5月 9日 (土)

座標―吉野源三郎・芝田進午・鈴木正

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帯に、「思想家古在由重を縦軸に、吉野源三郎、芝田進午、鈴木正を横軸に真理のベクトルを模索する」とある。
かつては何冊かの古在由重氏の書籍を持っていたのだが既に散逸、いまや、古在由重氏は世の中から忘れられてしまったの如き存在になってしまっている。
その古在由重氏がなぜ、軸となるのか。
それは、古在由重氏が「まさに実践的知識人であり、知行合一のひと」(P.8)であったからとして、論考がすすめられていく。
ところが、本書を読んでいると、人に伝えようというよりも、自分自身で確認していこうという文体であるように感じるのである。
また、多くのことを書いておきたいという気落ちの強さなのかもしれないが、論考のなかでその論考の直接の対象ではないことへの記述も途中で多々出てくるので、必ずしも読みやすいとは思えなかった。
例えば、安江良介の記述(P.44以降)のなかでP.51の3行目から12行目にかけての記述は、安江良介を論じるうえで必須な内容なのだろうか。
あるいはP.53に「だが、その期間中に韓国中央情報部が徹底的に捜査の手を伸ばしたにもかかわらず、ついに分からずじまいであった。」とあるが、「何が」分からずじまいであったのか、その前の文章で想像はつくものの、その想像が妥当な創造かどうかはわからないのである。
P.115の「執筆に先立つ三〇年ほど前に当時の公害反対闘争の教訓を踏まえて書かれたもので、その内容は高く評価されると芝田は述べている。」も然り、何が執筆されたのかこの文章ではわからない。
こうした記述の形が、本書は自分への確認の文体である感じさせるのかもしれない。

さて、「真理のベクトルを模索する」ことはできただろうか。
それは最終章での論点となるのだが、一言で言えば、ちょっと肩すかしではなかろうかと感じてしまった。
P.215に「統一戦線のテーブルにつくすべての個人と集団が台頭に意見を述べ、行動の決定においても、少数派の意見が行動に反映される必要がある。諸個人は自らの見解を披瀝するとともに、他者の意見を十二分にわきまえて納得し、行動においてはそれぞれが他者の存在を認めながら一致点を追求する必要がある、統一戦線が成立するためには、積極的に相手の存在と見解とを尊重して吸収できるだけの確固とした人格が、成員に形成されていなければならない。」とある。
運動論や組織論としてここで述べられていることには、異論はない。
けれども、政党や団体の動きに乗っかるのではなく、私たちひとりひとりが主体として「統一戦線」(この用語の妥当性も、たぶんあるかもしれない。)をかたちづくり、動かしていくことができるようになっていくには、どのようなことが必要なのか、何をしなければならないのか、これまでせっかく古在由重、吉野源三郎、芝田進午、鈴木正のことを掘り下げてきたのに、何なの?、と思ってしまったのであった。
本書でとりあげられたそれぞれの人の思想や実践について、古在由重のそれらから切り込んでいく、そこから次に示される何かが見えてくる、ということを考えていたのだが、そうではなかった。
確かにそれぞれの人には古在由重とのかかわりがあり、お互いに影響し合っていたことだろうが。

読んだ側にとっては、本書を読んでおしまいにするのではなく、自分の場に置いて考えていかなければならず、さらに、自分としてどうするか、「民主主義」を担う主体が問われてくる。
とくに現在のように、「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」などというかけ声によって、「戦後」が、「民主主義」が蔑ろにされ、日本国憲法が無視されほぼ捨て去られている情況のなかでは、1960年代に学生運動のなかで批判された「戦後民主主義」、あるいは「民主主義」そのものを、もう一度目標に据えて構築しなければならなくなってきているのだろう。
そして「戦後民主主義」は、今ではほとんど揶揄的にしか使われることがなくなってしまった、いわゆる「進歩的」とか「良識的」とか(本書でのP.72の「良心」「誠実」も含めて)、そして「知識人」と不可分であったと思うのだが、いま、必ずしも政治的な場面においてでだけではなく、その周辺やむしろ日常のなかで「民主主義」を再構築していこうとするとき、「進歩的」や「良識的」、「良心」「誠実」のほかに基軸になりうる概念、「知識人」「文化人」たるべき人物像はあるのだろうか。
というのも、これらの概念はあまりにも個人的かつ主観的であるとともに、こううした概念や人物像がそうでない概念や人びとを引っぱる格好となってしまい、幅広い人びとの基軸となる概念として一般化し共有し共通化していくは困難だと思うからだ。
インターネットで有象無象の「情報」が玉石混淆状態にあるとき、中井正一が「委員会の論理」で展開したような、人びとがなにごとかをなしていくための、人びとにとって必要な概念としての委員会であるような「真理のベクトル」を期待したのである。
あえて言えば、たとえ明確な志を持っているわけではないズボラな人間であっても、あれ、変だなと思うところからどこかで立ち位置を定めることのできる視点をもつことができ、その視点や立ち位置を他の人たちと共有できる、そのような「真理のベクトル」は、無い物ねだりなのだろうか?

ところで、「民主主義」や「知識人」などが問われているのだとすれば、本書でも何度か引き合いに出されている久野収氏や鶴見俊輔氏についてはどうだろうかと個人的には考えてしまうのだが、著者は取り組んでくれるだろうか。

本書は「今まで発表した評論を全面的に修正したものと、新しく書き下ろしたものとで成っている」(P.219)とのことだが、それぞれの評論はそれぞれの時代にそれぞれの課題により書かれたもののはずで、その時点で「思想家古在由重を縦軸に、吉野源三郎、芝田進午、鈴木正を横軸に」という問題意識がすでにあったのか、それともその後の思索と実践のなかで出てきたのか、また、当時の文章がどのように修正されたのかは、初出を読んでいないので知ることはできない。

もうひとつ、これも内容ではないのだが、校正が甘かったのかもしれないところ。
「講話問題」(P.21)は「講和問題」だろう。
「吉野は、この試みを(略)主体的条件を整えようとした。非常に幅の広い統一戦線の構想と捉えた。」(P.26)とあるのは「吉野は、この試みを(略)主体的条件を整えようとした、非常に幅の広い統一戦線の構想と捉えた。」ではなかろうか。
P.178の「ところが獄から出て、古在は即刻コミンテルンのスパイとして逮捕されていた尾崎秀實は釈放されることはあたわずに、日本人共産主義車として唯一死刑に処された。」は、意味不明。

序章 歴史的現代と古在由重
第一章 私たちはどう生きるか―吉野源三郎
第二章 人類生存哲学の思想―芝田進午
第三章 自立的精神への探求―鈴木正
終 章 国民統一戦線への展望

櫻井智志/著
いりす・同時代社

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