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2013年9月 6日 (金)

1848年の社会史―ウィーンをめぐって

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1848年のウィーンにおける勢力は、国家権力を担う皇帝を頂点とする支配勢力、ウィーンに住み市民社会を構成するブルジョアジー、そしてウィーンの周囲に流れ込んできたプロレタリアに大別される。
もっとも支配勢力にとってもブルジョアジーにとっても、市壁の内側に入ることを許されずリーニエの外に住むプロレタリアは、お呼びではなかったのであるが。
1848年3月、ウィーン市民は、憲法の制定、国民軍の設置、検閲の廃止等を要求し、メッテルニヒは亡命を余儀なくされる。
この時期、プロレタリアは国民軍から弾圧されるのだが、10月に至って最後までウィーンを守ったのは、プロレタリアたちだった。
マルクスは1848年8月27日から9月7日までウィーンに滞在し(日付については諸説ある模様)、1848年の革命の推移の一部を見ているが、10月末の革命の敗北を目前にしたプロレタリアの戦いは見ていない。
この時期30歳のマルクスは、逮捕状を持つプロイセン警察から逃れる身だったので、記録がないらしい。
その後マルクスは、ルンペン・プロレタリアートと労働し思考するプロレタリアートの二種のプロレタリアートを区別し論評している。
著者はこれを、理論的には当然としつつも、歴史的にはどうなのだろうかと疑問を呈しているのだが、読者としてはどう理解すればいいのだろうか。

ウィーン革命は敗北するが、オーストリア皇帝フェルディナント1世は退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ1世が即位する。
FJは、ウィーンを取り囲む市壁を取り壊してリンクを建設させ、市壁の外側にあったグラシには歴史主義様式の建築物が並ぶことになる。
この改造は、革命勢力が市街に立てこもることを事前に防止しようとする意図もあったかもしれない。
リンクの外側には首都の安全確保のための武器庫が建設され、現在は軍事史博物館(Heeresgeschichtliche Museum)になって公開されている。

ハプスブルク帝国においては、「階級」だけではなく「民族」も社会の勢力分布をかたちづくる要素である。
何をもって「民族」とするかは本書でもテーマとなるのであるが、ハンガリー人は革命を支持し、ハンガリーからの独立をめざすクロアチア人は革命勢力に敵対するなど、それぞれの民族が1848年革命に果たした役割は、日本のように「単一民族国家」にいては、なかなか理解しがたいものがある。
また、「民族」というと、高島善哉における「民族と階級」を思い出すことになる
「部族であったり、氏族であったり、種族であったりした(中略)潜在的民族が自覚した顕在的な民族となるためには、その民族が一つの国民国家を形成し、その国民国家の構成員として、一つの共同体の意識を持つことが必要であ」り「国民国家形成の主体」こそがブルジョアジーであったとする高島善哉の「民族と階級」の考え方は、多民族国家ハプスブルク帝国においても有効性を持ちうるのだろうか。

1986年2月刊。

I 一八四八年の民衆
 地域と民衆
 革命期における民衆像
II ウィーン・一八四八年
 革命とマスコミ
 武装せる「プロレタリア」-ウィーン国民軍史によせて
III 一八四八年の女性
 女性史断章
 一八四八年・ウィーン・女
IV 革命史研究の周辺
 私の描く革命史
 一八四八年ウィーン雑記
 貨幣の表情
 革命史における言葉の虚像
 ウィーン文化の歴史的風土
 ドナウの水浴
 カニバリズム雑考
 『古代美術史』雑録
 若きヴェルテルの喜び

良知力/著
影書房

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