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2011年5月 2日 (月)

レーゲンスブルクの歴史(3)

1532/皇帝カール五世により初めて刑事訴訟法が公布される。
1541/皇帝カール5世が臨席し帝国議会で宗教論争。
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1542/回国巡礼教会はノイプファー教会となる。市議会が宗教改革を受け入れ、レーゲンスブルクはプロテスタントの町となる。
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1547/皇帝カール5世とレーゲンスブルク市民の娘バルバラ・ブロムベルクとの間に生まれた貴公子、ドン・ファン・デ・アウストリア出生
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1570/メルヒョア・ボックスベーカー、ゴリアトハウスの壁画「巨人ゴリアテとダビデ」描く
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1617/ヨハネス・ケプラー、『コペルニクスの太陽中心説』完成、レーゲンスブルクに来る。
1618/カトリック皇帝とプロテスタント諸侯との信仰と権力の対立で30年戦争(1648まで)。デンマーク、スウェーデン、フランスがプロテスタント派を援助し、戦争に介入する。
1626/ヨハネス・ケプラー、レーゲンスブルクに移住、3人の皇帝と、30年戦争で皇帝の名称と言われたヴァレンシュタインに仕える。
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1627/三位一体教会建設開始、1631完成。
1630/ヨハネス・ケプラー死去。
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1633/レーゲンスブルク、スウェーデン軍と皇帝軍に包囲される、ドイツ人口が3分の1に減少、全国的廃墟になる。
1634/レーゲンスブルク大聖堂の尖塔以外完成。
16545月8日/「マクデブルクの半球」実験。
1663/神聖ローマ帝国会議を常設、「永続的帝国会議」と呼ばれる(1806まで)。レーゲンスブルクは中世時代から帝国会議や諸侯会議などの政治的な重要会議の開催地であったため、ドイツ最初の会議の所在地となり旧市庁舎の帝国ホールがドイツ帝国会議会場となる。一部の市民・商人・銀行家たちだけ経済上有利になるが、町の経済状態は衰退。1702、1793、1799年のドイツ帝国対フランスの戦争決定。
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1651/市参事会、カトリック教徒から市民権剥奪。
1686/cafe Prinzessオープン
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1748/帝国最高郵便朝刊アレクサンダー・フェルディナント・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯爵、永続的帝国議会の皇帝特別首席代理に任命。
1749/7年戦争(1756年~1763年)の終結討議。
1786/9月4日、ゲーテが白羊亭に泊る。
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1790/世界最古の植物学会設立。
1802/マインツ大司教で神聖ローマ帝国の宰相であったカール・フォン・ダールベルクが支配、レーゲンスブルク公国(Principality of Regensburg)。
1803/教会財産を世俗化。
1805/ナポレオン、オーストリアを征服。
1806/ナポレオン、神聖ローマ皇帝フランツ二世を退位させ、900年にわたる神聖ローマ帝国(962‐1806年のドイツの正式呼称)は解体、約150年続いた永続的帝国会議は終了、バイエルンは王国として独立。レーゲンスブルクは歴史的重要財産を失い、カトリック教候の町になる。君主ダールベルクは経済、社会的、文化的向上に力を尽くし、名誉と栄光への返り咲きを試みる。
1809/オーストリアとナポレオン戦争の巻き添えになる。レーゲンスブルクは戦火に見舞われ、南東部とドナウ河畔の北部が破壊されてしまい、ダークベルクの努力はすべて無駄になる。
4月19日~23日オーストリア軍とナポレオン・フランス軍が交戦。
4月23日ナポレオンが城壁のそばで負傷。
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4月24日~25日ナポレオン、レーゲンスブルクに入り、ドーム広場の側にあるホテルダールベルク・パレーに宿泊。
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1810/君主ダールベルクはフランクフルトの大公になり、レーゲンスブルクを去ってフルダへ移り、レーゲンスブルクは再びバイエルンに帰属する。

<続く>

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