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2008年11月19日 (水)

6回目のウィーン(5) ==「プラハの春」==

19日(水)_その3

旧市街のパーキングに車を止め、旧市街を歩くことにする。
狭いパーキングであるが、ビロード革命やビロード離婚の前、ロシア車を基準につくられたので、昨今の車のサイズには合わないのだそうだ。
パーキングのすぐそばには、大司教宮殿がある。
40年前の1968年、かの「プラハの春」のとき、8月はじめ、当時のチェコスロヴァキア政府とソ連などとが会談し、いったんはチェコスロヴァキアへの不介入が合意された場所が、大司教宮殿である。
しかし、同じ月の20日、ソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキア全土に侵攻、「プラハの春」がめざした「人間の顔をした社会主義」は、瓦解した。
当時は夏休みであったが、ラジオで流れたニュースは、鮮明に覚えている。

プラハの春は、おおむね次のような経過をたどった。
1953年、アントニーン・ノヴォトニーがチェコスロヴァキア共産党第一書記に就任
1957年、ノヴォトニーはチェコスロヴァキア大統領に就任
1968年1月5日、チェコスロヴァキア共産党中央委員会総会開催、ノヴォトニーは党第一書記解任をされ、アレクサンデル・ドゥプチェクがチェコスロヴァキア共産党第一書記に就任
2月、ノヴォトニー政権の維持を図ったクーデター計画の首謀者で側近とされるヤン・シェイナ将軍がアメリカに亡命
3月21日、ノヴォトニーは大統領を辞任、ルドヴィーク・スヴォボダを大統領に選出
3月23日、ソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロヴァキアがドレスデンで会談
4月、党中央委員会総会で、経済改革や言論の自由化、連邦制導入などを掲げる「行動綱領」を採択
5月4日、ソ連とチェコスロヴァキアによるモスクワ会談
5月8日、ソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアがモスクワ会談
5月末、党中央委員会総会、右派修正主義の危険性、党の指導的役割を堅持、同時に第14回党大会を前倒しして9月開催を決定
6月18日から30日、ワルシャワ条約機構軍の合同軍事演習「シュマヴァ」実施
6月27日、「二千語宣言」発表
7月14日から15日、ソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアによるワルシャワ会談
7月29日から8月1日、ソ連とチェコスロヴァキアによるチェルナ会談
8月3日、ソ連、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロヴァキアによるブラティスラヴァ会談
8月15日から17日、ソ連共産党政治局会議でチェコスロヴァキアへの軍事介入を最終決定
8月18日、ソ連からポーランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアに軍事介入決定を伝達
8月20日夜11時頃、ワルシャワ条約機構軍が国境突破
8月21日、国連安保理招集
8月22日、第14回臨時党大会開催、軍事介入を非難し、ドゥプチェクらへの支持表明決議を採択
8月23日から、クレムリンで交渉
8月26日、「モスクワ議定書」締結
10月28日連邦制の導入決定
1969年1月1日、チェコスロヴァキア社会主義連邦共和国発足
1969年1月16日、カレル大学の学生ヤン・パラフが焼身自殺
1969年4月17日、党中央委員会総会、ドゥプチェクを党第一書記から解任、グスターフ・フサークが党第一書記に就任
1977年1月、憲章77発表
1989年11月、ビロード革命
1989年12月、ドゥプチェク、連邦議会議長に就任
1993年1月、ビロード離婚

大司教宮殿が面した広場にインフォメーションがあるので地図を入手する。
ここから少し歩いた隣の広場が、中央広場である。
19013

中央広場に面して日本大使館があり、広場ではクリスマス・マーケットの準備が行われていた。
広場の敷石、建物、赤い屋根、窓の飾り、安野光雅さんの絵本の世界そのものだ。

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